第27回 ビザンツ帝国の滅亡とオスマン帝国
○今回の年表
1299年頃 | オスマン朝(オスマン・トルコ帝国)成立。 |
1337年 | イギリスとフランスが100年戦争を開始。 |
1370年 | ティムール帝国建国。 |
1353年 | イル・ハン国の滅亡。 |
1368年 | 元が滅亡し、朱元障が漢民族王朝「明」を成立させる。 |
1370年 | ティムール帝国建国。 |
1402年 | オスマン朝のバヤジト1世、アンカラの戦いで、ティムール帝国に大敗。 |
1453年 | コンスタンティノープル陥落。ビザンツ帝国の滅亡 |
○オスマン・トルコの誕生
オスマン朝といったり、オスマン帝国といったり、オスマン・トルコ帝国といったり、呼び方さまざまですが、とにかくそんなトルコ族系の政権が、オスマン1世(位1299〜1326年) によって、だいたい1299年に誕生します。
トルコ地域のルーム・セルジューク朝から独立した、最初はごく小さな政権でしたが、オスマン1世、それから第2代のオルハン(位1326〜62年)は領土を一気に拡大し、アナトリアの大半を征服。バルカン半島にも征服への拠点を作ります。
さらに第3代のムラト1世(位1362〜89年)は、イエニチェリと呼ばれる常備軍を創設し軍事力を強化。首都をエエディリネ(旧アドリアノープル)に定め、ブルガリア等に侵攻し、1389年、コソヴォ平原の戦いでバルカン半島諸国の連合軍に勝利。しかし、これが相当かの地の住民に恨まれ、ムラト1世はセルビアの一領主ミロシェ・オビリチの手により暗殺されました。
そして、第4代バヤジト1世(位1389〜1402年)は「稲妻」の異名を持ち、キリスト教軍を破ってドナウ川まで征服。そして今度は東に侵攻しますが、1402年のアンゴラの戦いでティムールに大敗北。王朝は一時滅亡の危機にみまわれます。ちなみに、アンゴラは現在のトルコ首都・アンカラであります。
○メフメト2世、コンスタンティノープル攻略へ
この混乱を収めたのが、メフメト1世(位1413〜51年)です。これはまあ、おいておきまして、語るべきは、その孫、メフメト2世(位1451〜81年など)。若い彼には野望がありました。それは、東ローマ(ビザンツ)帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させることです。
しかし、この首都だけは、昔のササン朝ペルシアから始まり、さまざまな民族がたびたび包囲してもどうしても落とせない。落とされたのは内紛を起こしていた時に、十字軍に海上からやられたときだけです。
そして、それを東ローマ(ビザンツ)帝国が取り返したときは、なぜか城門が開いていてあっさりと入城できたから。本格的に戦って城壁が打ち破られたことはありません。バヤジト1世も攻めましたが、これも失敗。
なぜか。それは、三方を海に囲まれ、唯一の攻め口である西側。ここの城壁が異常なぐらい硬いことです。高さ12m、幅5mのテオドシウスの大城壁を中心に、外周りに2重の城壁。さらにその外側に大きな堀。とにかく守りが強固。ならば海は?これも、どこの国もたいした海軍力がなく、先ほどの十字軍を除けば征服不可能でした。
ですが、そんな大城壁にも技術の進歩には勝てないことが証明されます。それは、「大砲」。メフメト2世がコンスタンティノープルのすぐ近くに砦を建造していたとき、ウルバンというハンガリー人の技術者が「俺の巨大な大砲を買わないか」と連絡してきます。ウルバンは、その前に東ローマ政府にも同じことを言ったのですが、「いらない」と突き放され、しかも軟禁されていました。メフメト2世、まさに渡りに鳥。巨額の資金を提供し、これを購入。さらに改良を重ね600kg以上の石の玉を1.6kmも飛ばせるようになりました。
さあ、準備万端です。大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは「若、おやめください。新たな十字軍が来ます」なんて言ったみたいですが、1453年、若きスルタンは意に介さず、いざ侵攻!
○コンスタンティノープル、陥落
オスマン帝国の軍勢は、約10〜12万。常備軍イェニチェリ1万、正規騎兵7万、その他が雑多な軍勢だったようです。そして、当然大砲を山ほど製造し運んできました。狙うはただ一点。城壁の破壊です。ところが、ビザンツ帝国の城壁。まだ耐えます。破壊しても破壊してもどんどん修復され、さらにオスマン海軍は西洋からの援軍に打ち破られ、援助物資搬入を許してしまいます。
・・・・が、これは、もう有名すぎて書くに及びませんが、メフメト2世。なんと艦隊を山越えさせて、ビザンツ海軍の背後に侵入し攻撃。相次ぐ大砲に海上からの侵攻に、東ローマ側も疲れが出てき始め、さらに頼みにしていた本格的な西洋からの援軍も無い。
そんな時、閉め忘れていた門からオスマン軍が侵入し大混乱。さらに、この頃には城壁もガタが来て、そこらじゅうに割れ目が。そこからも侵入されると、ついに東ローマ帝国は敗北。 陣頭指揮を執っていた東ローマ皇帝コンスタンティヌス11世は、戦死しました。53日間の攻防でした。ここに、古代から続いてきたローマ共和国・ローマ帝国の伝統を受け継ぐ国は、ついに滅び去ったのです。
メフメト2世は、ここをイスタンブール(イスタンブル)と改称するとともに、多くのキリスト教会をモスクに変え、ただし一部はキリスト教徒とユダヤ教徒用に残し(税を払えば信仰を認めた)、ここを自分の首都とするべく大改修。すっかり荒廃したこの地も、再び大繁栄を遂げるようになります。また、1465年にはトプカプ宮殿という巨大な居城を作り上げ、オスマン帝国のシンボルとしました。
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