3.サビエル記念聖堂ヴィタリー神父の話
先のメディナ神父の話を聞いてからの後、我々は山口県においてサビエルの重要地である山口市を訪れた。これは、この地を訪れなければサビエル研究については不足であると判断したからだ。そこで我々はサビエル記念聖堂を訪れ、ヴィタリー神父にサビエルに関する質問に答えていただいた。
以下は、その話をまとめたものである。 <日本の歴史について思うこと> 日本の歴史は、権力者の側面から見たものだけで作られているものが多いようです。それにともないほかの歴史、例えば迫害された人々の歴史や支配を受けてきた人々の歴史が、その陰に隠れてあまりもてはやされていないようだ。これはなにも日本だけに限らず、私の祖国イタリアでも同様なのだが、日本の歴史では特にその傾向が強いと感じている。 また、山口県のサビエルについての取り組みに感じたことは山口県はどうもサビエルのことを狭い視野、つまり言い換えれば彼のことを大内文化の一端としてしか見ていないようだ。そんなことだから、サビエルのことを大内文化の中のこととして、どうもその歴史を曖昧にしている節があるように思える。私はサビエルの歴史を見れば当時の時代の流れ、つまり大航海時代すべてを見ることができる重要な世界史の一つと考えている。 <サビエルが日本に対して行った布教活動の真意について> Q1 日本文化の向上のためだったのでは? A 日本の文化の向上は考えていたわけではないようです。確かに日本の文化についてはいろいろと現地で学んだり、また学びたかったようなことを書き残していたようですが、それは全て日本人の精神の基礎を知り、彼なりの布教活動のための手段にするのが本当の目的だったようです。その証拠に、日本人の人間性を評価した文章は残していますが、日本人の文化、つまり日本人の作り出したものについては一言も評価はしていません。 Q2 ポルトガルの利益のためにでは? A それはないでしょうね。イエズス会というのは多国籍の集団です。事実サビエル彼自身も、スペインのナバラという小さな王国の出身ですし。まあ今回の布教に関しては、ポルトガル王の依頼を受けたローマ法王の命令で彼が行くようになりました。形としてはポルトガル国王のために行ったようになっていますが、彼はただローマ法王の代行としていっているのです。こんなことは当時のイエズス会では多くありました。サビエルもそうでしたしほかのイエズス会のメンバーもどこか一つの国のためという心はなく、むしろこの宗教により多くの人々が救われることを願って布教に専念していたのでしょう。 あと事実として彼はポルトガル国王に大変厳しい内容、つまり無礼な内容の手紙を送っていますし、日本には攻め入る価値がないというような内容の手紙も送っています。王の持つ保護権と任命権のせいで、いくつか誤解をされているところもあると思います。 <イエズス会設立は何のためか> これについてはかなりの誤解が生まれていると思うのですが、まず、プロテスタントに対抗するためにできたのではないということと、オスマン=トルコ打倒のためではないということを知っておいてもらいたい。これは、この2つの事柄がイエズス会成立の時と近かったので生じた誤解なのだと思います。成立した当時のヨーロッパ諸国は、とても団結できるような状況でなく、むしろお互い同士いがみ合っていたほどですから。 あと、先ほど言ったように特定の国家や王のためではないということはもちろんです。 彼らがイエズス会を設立したのは、初期の頃は聖地巡礼を目的としてのことでした。これは、ルターの聖書崇拝と同様に、当時のカトリック教会の正常化を図る運動とも少しつながりがあるものでした。しかし、結局のところこの計画は、当時のオスマン=トルコの海上封鎖のため、断念せざるをえず、そこから宗教の力で争い事なく物事を解決できるやめの連結部分の役割をになう集団になろうとしたのです。 <サビエルはなぜ、宗教について多くのことに興味をもったのか> それは、異教でイスラム教以外の組織化された宗教である仏教に出会ったことが大きいでしょう。彼は仏教という宗教は1つなのに、なぜ宗派によってその基本的な真理が違うのかということに対し、とても多くの困惑を受けたようです。彼は大学では哲学を学んでいたわけですが、当時の西洋の哲学の真理は1つしか存在しないというのが決まりでしたから、なおさら驚いたことでしょうね。ですから、そのことを解明しようと何度か日本の僧と問答しています。 <サビエルの死後、山口での布教はどうなったのか> 彼は日本を出立する前に、ゴアから何人か宣教師を日本によんでいますが、山口には一人もなかったようです。その代わりとして日本で洗礼を受け、洗礼名「ダミアン」という琵琶法師が熱心に布教していたようです。しかし、その後の禁教令のためダミアンと多くのキリスト教徒は処刑されました。 ですが、その後も山口の地には隠れキリシタンがいて、その信仰を密かに伝えていったようでした。 →次のページへ 裏辺研究所トップページへ |