第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋1:ヤルタ会談とルーズヴェルトの死去

担当:林梅雪
●本筋とは?  終戦までの4ヶ月。第5回目となる今回より、ついに本筋に入ります。アウトラインだけだった序章とは違い、本筋では歴史の流れを非常に細かく詳説していきます(一部、裏辺所長が補記)。

●小磯内閣総辞職とヤルタ会談
 1945年に入ると太平洋戦線における戦況はますます悪化し、日本本土も米軍機による激しい空襲をうけるようになります。

 一方で、同年2月4日〜11日には、クルミア半島の保養地のヤルタに米英ソの首脳(ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン)が一堂に会し、戦後処理についての話し合いを持ちます。これが、有名なヤルタ会談です。この中で以下のことが決められました。

 @ドイツの無条件降伏と、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連による占領管理
 Aドイツ軍隊の解体と軍国主義の一掃、民主化、及びナチスの根絶
 B国際連合(正しくは、連合)創設後、安保理で拒否権を設ける。
 Cソ連のポーランド東部の領有を認める代わりに、ポーランドは旧ドイツ領から多くの領土を取得する。
 D蒋介石を、中国代表として正式に認める。

 これに加え、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、ソ連の指導者スターリンにソ連の対日参戦を要請。これに対し老獪なスターリンは、大きな紛争を抱えていない日本と戦うことは国益にかなわず、国民を納得させることができないと主張し、対日参戦に大義名分を与えるには、南樺太の返還と千島列島の獲得が不可欠だとルーズベルトに詰め寄ります。

 アメリカ軍の犠牲を最小限に止めたいと考えていたルーズベルトは、スターリンの要求を即座に承認。こうしてスターリンは、ドイツの降伏後3ヶ月以内に、ソ連が対日参戦するという密約を英米と交わしたのでした。これらをヤルタ協定と言います。

 そのような中で、前回見た通り、小磯内閣は戦争続行を唱えつつ、重慶の蒋介石政権との和平工作を図りますが失敗。しかも、アメリカ軍が沖縄本土に侵攻を始めたため、徴兵年齢17歳への引き下げ、学徒勤労令を出した後、4月5日に小磯内閣は総辞職にまで追い込まれてしまいました。

 それと同じ日、ソ連政府は、日ソ中立条約”不”延長(破棄ではない)を日本側に通告します。これにより日本側も近い将来でのソ連参戦を意識せざるを得なくなります。

●ドイツの敗退、濃厚に
 一方、ヨーロッパ戦線では、ドイツの戦況は絶望的になっていました。それまで、鬼才ゲッベルス宣伝相の巧みなプロパガンダ戦略により、最後の勝利を信じ続けてきたドイツ国民でしたが、ようやく敗北が近いことにようやく気づき始めたのです。当然、人々の心はヒトラーから離れ、ヒトラーの望む絶望的な戦いをもはや望んではいませんでした。彼らの願いは、身の毛のよだつソ連にではなく、まだ分別のあると思われる米英に、ドイツが負けるということでした。

 1944年12月、ヒトラーはソ連と対峙していた東部戦線の部隊をほとんど動員し、西部戦線のアルデンヌで大攻勢に出ます(バルジの戦い)。しかしアメリカ軍、イギリス軍に少なからぬ打撃を与えはしたものの、ドイツはそれ以上の犠牲を出し、この作戦は失敗し、ドイツ軍は西部戦線・東部戦線共にほとんど無防備の状態となってしまいます。

 これによって西側諸国にだけ速やかに負けよるというドイツ国民の望みをヒトラーはぶち壊したのでした。

●鈴木貫太郎内閣成立とルーズベルト死去  話を太平洋戦線に戻しましょう。
 日本では4月7日小磯内閣の後を受けて、海軍大将鈴木貫太郎が組閣します。鈴木貫太郎は江戸幕府が滅びた1867年の生まれ。かつて侍従長を務め、天皇を惑わす獅子身中の虫の一人として二・二六事件で襲撃され重傷を負った人物です。その鈴木首相は就任当日のラジオ放送で、「私の屍を越えて起て」と檄を飛ばし、戦争続行の意思を明らかにします。

 その5日後の4月12月、かねてより不治の病に侵されていた米大統領ルーズベルトが死去。鈴木首相はルーズベルト未亡人に親書を送り、お悔やみを述べています。

 ルーズベルトの急死により、アメリカでは副大統領だったハリー・S・トルーマンが大統領に昇格します(アメリカの場合、こういう事態になった場合は再選挙ではなく、副大統領の昇格というシステムを取っているんですね)。


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