●ムッソリーニの最期
ところで、日独伊のうち伊のイタリア。ムッソリーニはどうなったのでしょうか。
彼は、イタリア降伏直前の1943年7月に失脚、投獄されていたのですが、ヒトラーにより救出され、まもなく北イタリアに於いてイタリア社会共和国を樹立します。しかし、これは実質的にドイツ軍の傀儡政権でした。
その証拠に、ムッソリーニのガルダ湖畔の官邸にはドイツ軍将校が配置され、ムッソリーニの動きを絶えず監視していました。電話の盗聴なども行われたため、ムッソリーニと愛人クララ・ぺタッチは電話では、なんと100あまりの日本語の単語を使用していたと言われております。
こうしてヒトラーにがんじがらめにされたムッソリーニでしたが、時の日本大使に個人的な書類を委託するなど、日本には最後まで信頼を寄せていました。日本側からも、潜水艦によるムッソリーニの日本渡航計画が発案されましたが、ムッソリーニは「好意は有り難いが、余はイタリアで最期を迎えたい」と述べたと伝えられています。
そしてアメリカでトルーマンが大統領となり、さらに1945年4月25日、アメリカのサンフランシスコに50ヶ国の代表が集まり、連合国全体会議を開催。この会議では戦後世界の安全保障と、国際連合の創立が議題となります。すなわち、連合国は既に戦後を見据えて動き始めていたのです。
実際、同日、米ソ両軍はドイツのエルベ川で出会い、ドイツ軍を分断(エルベの出会い)。さらにソ連軍は既にベルリン市内に突入しており、ナチスドイツの終焉は間近に迫りつつありました。
このような状況の中、同年4月28日。
既にヒトラーの操り人形と化していたイタリアのムッソリーニは、パルチザン(ゲリラ軍と同じ意味)に攻撃され、ドイツ軍と共にスイスへ逃亡する途中に捕らえられ、愛人のクララ・ぺタッチと共に銃殺されます。そして、なんと遺体はガソリンスタンドに逆さ吊りにされ、見世物にされるのでした。おや、イタリアで最期を迎えたいと言いながらスイスに逃げ出していたとは・・・。
ところで、ムッソリーニはイギリスのチャーチルとも親交がありました。1920年代にチャーチルがイタリアを訪れたとき、二人は意気投合。チャーチルは最後までムッソリーニとの思い出を大切にし、回顧録でもあえて切り捨てることをしませんでした。
●チャーチルの憂鬱
ところで、そのチャーチル。
世界が米ソの二大強国を中心に動き始めていた1945年元旦のことです。
チャーチルは年賀状に「むかつくような新年」と書いていました。何故でしょうか。たしかに、連合国は勝利を収めつつあったのですが、イギリス経済はアメリカの援助なしには立ち行かなくなっていたのです。戦争終結と同様、大英帝国の終焉もまた間近に迫りつつあったことをチャーチルは肌で感じていたのです。
またチャーチルは戦争末期、今ヒトラーが何をしているか考えることが多くなります。チャーチルは次のように述べています。
「ヒトラーは戦争末期、イギリスまで飛び、降伏した上で、こう言うことも出来たはずだ。
『私はどうなっても構わないが、欺かれたドイツ国民は許してやって欲しい』
と。」
そして以前御紹介したように、1945年4月30日、つまりムッソリーニが銃殺されてから2日後。
ヒトラーとその妻エヴァ・ブラウンが自殺します。ソ連の指導者スターリンはそれを聞き「ろくでもなしがくたばりやがった」と語り、イギリス首相チャーチルは「さて、ヒトラーはまことにふさわしい死に方をしたと、言わねばなるまい」と述べたと言われています。
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