●日ソ中立条約締結への道
1941年3月下旬、南進(東南アジア進出)を視野に日本は、ソ連に対して日ソ不可侵条約を締結しようとします。しかし、訪ソした松岡洋右外相に対し、ソ連のモロトフ外相は、当時不可侵条約を締結していた中華民国(蒋介石政権 当時日本と交戦中)への手前、日ソ不可侵条約の締結に難色を示し、代わりに中立条約を提案します。
しかし、松岡はあくまで不可侵条約に固執したため、会談は物別れに終わりました。とは言え、ドイツのソ連侵攻を懸念するスターリンは松岡に友好的に接し、交渉継続の余地は残します(事実ドイツ軍のソ連侵攻は3ヵ月後に迫っていた)。
そこで松岡はいったんモスクワを離れ、ベルリンに入りヒトラー総統と会談。ドイツに秘密で行っていた日ソ不可侵条約締結交渉でしたが、情報はヒトラーの耳にも届いており、松岡はヒトラーから嫌味を言われ、同席したドイツの外相リッベントロープからも、日ソ不可侵条約を締結しないよう釘を刺されます。
この時松岡は、独ソ開戦は避けられないものと悟りベルリンを去ります。そして彼はローマを回り4月6日、再びモスクワに戻り、改めてモロトフに不可侵条約締結を強く申し入れましたが、モロトフは首を縦に振ろうとしません。なれど、粘りの松岡は帰国を一週間延期し、交渉を一時中断しソ連国内を観光旅行。
この旅行の最中、日本本国から「天皇陛下が中立条約の締結を承認」する旨の電報が松岡に届きます。
つまり、不可侵条約まで結ぶ必要は無い、中立条約で充分、と言うことですね。そこで松岡は急遽モスクワに戻り、再びモロトフと会談。それまで列車の中で書き上げた中立条約の草案をモロトフに手渡します。ところがモロトフは、日本の北樺太の利権放棄に固執。会談は物別れに終わり、さすがに松岡は帰国の途に着こうとしていました。
ところが・・・。
帰国が前々日に迫った4月12日、松岡は突如スターリンの招きを受け、クレムリン宮殿(ソ連政府の政庁)でスターリンと会談。最後のチャンスとばかりに、中立条約の重要性を必死で説く松岡に対し、スターリンはしばらくして条約締結に同意しました。
こうして日ソ中立条約が、翌4月13日に締結。
その夜の晩餐会でスターリンと松岡はしこたま飲み、二人で腕を組んだ写真を撮るなど一気に日ソの友好ムードがUP!
さらに翌朝、松岡が帰国の途に着くために、シベリア鉄道の駅に到着すると、スターリン本人が松岡の見送りの為に現れたのです。スターリンが外国の要人を見送りにくるのは異例で、日本側は勿論ソ連の記者達も驚く。スターリンと松岡は何度も抱き合い、松岡の乗った列車が発車した後も、スターリンは列車をいつまでも見送り続けました。しかし、これが戦前の日ソの友好関係を示す、最後の光景となるのです。
そうは言っても、独ソ戦開始後、日本は多少躊躇した後、日ソ中立条約を守り東南アジア進出に専念。
そのためスターリンは、冬の戦いに慣れたシベリアの極東軍をモスクワ防衛に当てることができたのでした。
●ソ連の参戦
このようにお互いに非常にメリットがあったこの日ソ中立条約。
ですが、前回御紹介した通り、4月に「この条約は延長しない」とソ連に宣告され、中立の枠組みが崩壊します。
もちろん、日本の敗北が濃厚になったこともありますが、もう1つ理由があるのです。一体、何だ?
そもそもソ連の前身であるロシア帝国以来、かの国は地中海や太平洋に進出する機会をことあるごとに狙っていました。ですが地中海への進出はクリミア戦争における敗北、太平洋への進出は日露戦争における敗北で無残に打ち砕かれてしまいます。しかし、諦めたわけではない。
こうした帝政ロシア以来の悲願を、スターリンは第二次世界大戦を通じて達成しようと目論んでいました。地中海への進出は、一枚上手のチャーチルが、ギリシャに親英政権を樹立したことにより封じられるも、極東への進出は、アメリカのルーズベルト大統領が、対日参戦をソ連に要請。これでスターリンは、「好機到来!」と考えます。
さあ、ドイツ降伏により、ソ連軍は来るべき対日参戦の為に軍や物資を極東に移動させ始めます。
ところが、日本はそれらの情報をを全くつかんでいなかった!
1945年5月は、ドイツの降伏と沖縄での絶望的戦況により、天皇の意思という形で和平工作が模索され始めた時期です。今振り返れば、その和平工作も全く的の外れたものでしたが、これ以降、日本は本土決戦と和平工作という2枚のカードを手に戦っていくのでした。
|