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週刊? 裏辺研究所第6回 
「どうしたら、人は勉強するようになるのか会議」

○今回の企画の狙い
 文部科学省のもとで始まった教育改革、いや改悪!!。学力低下が懸念される中、全く問題ないとのお答えで国民総お馬鹿さん化計画はどんどん進んでいっているのである(そして、ついに週休2日制、教育内容削減は実行に)。ところが、国会においては各種不祥事などの問題のみに紛糾し、誰もこの恐るべき計画の議論をしようとはしていない 。

 塾や私立関係者を中心に、ようやく反対意見が続出し、文部科学省が釈明に追われているがな。だが、はっきり言って、文部科学省のやろうとしていることは世界の流れに逆行しているのである。このままでは、湯川秀樹を初めとする科学者など世界に誇るたくさんの偉人を輩出した我が国は、つぶれてしまうのである。そこで我々裏辺研究所有志一同(裏辺金好所長、馬藤永徳、水澄風流、松戸合副所長)+水瀬式さんが、特に高校教育を中心に議論した。

 当たり前のことだが、この答えのない問題に結論は出ない。しかし、みなさんに対して様々な教育の姿について例示したつもりである。

○どうすりゃええねん

裏辺金好
言わずとしれた?裏辺研究所所長。
裏辺金好 今回のテーマは、どうしたら人は勉強するようになるのかということでおじゃるが・・・
水瀬式 無理です。俺もできればしたくないです。勉強嫌いな人は嫌いです。
馬藤永徳 勉強というのは、未来に役立つかもしれないというIFの面でやっているんですよね。必要に迫られてやっているわけではないんですよ。まあ、その点で、勉強しにくい人は、しにくいという点が一つ。僕なら得意だと自負している生物、松戸君なら数学ですが、好きなことや将来につながることはしっかりやると思います。
水瀬 しかしまぁ、俺のいった勉強ちゅうのは世間一般にいわれている授業内容のことで、そういう自分の好きなものならいい、例えば俺、小説書きまくるし、そういう何といいますか、論文とかも得意やったから、、そういうことがあるとわかります。自分の夢に直接結びついとると言ったら、そういうIFの面でやっていることも、後々から役立つこともあるね。

馬藤永徳
恐竜を研究する毎日を送りたいと考える所員。
馬藤(右絵) この社会において必要なことは、学校である程度入れているわけですから当然のことでしょうね。

金好 とある先生もそんなこと言っていたね。例えば数学。僕と水瀬は文系だから、常識的に言って指数・対数関数や微分・積分とかは将来使わないと思われるけど、考え方として心の片隅で使うことがある。

水瀬
 論理的思考だね。やりやすいと言えばやりやすい。確かに一理あると言えばある。だけど論理的思考にしてみるというのは、俺はすごく苦手だな。だから、結構aboutに考えてしまう。ぽんぽんという風に出すことの方が多い。
金好 まあ、そういうこともあるか。しかし、もう一つ。苦手な面に挑戦すると言うことの大切さもあると思う。


水瀬式
みなせ・しき。小説家を目指す、所長達の友人。
水瀬 じゃけーまぁ、数学好きな人はどんどん得意に、俺らみたいに苦手な人は本当に苦手になってしまうから、何(どんな授業)にでも意味がある。

金好 また、馬藤君達も知っての通り「たけしの万物創世記」や「世界不思議発見!」といった番組は、理科や社会科にそれほど興味のない人からも支持されている。これは、みんなが共通して持っている探求心のようなものを、うまく呼び起こしてくれるからですね。 だから受験で必要のない教科については、そうやってどんどんおもしろくするような授業形態をとるべきだと思う。すなわちテストなどに追われてやる苦痛の勉強にしてはいけない。興味を持たせる勉強にすべき。できれば小学校の段階で。

水澄 先生のやり方がうまければよいわけですね。
金好 そうですね。それがかなり大きい。


水澄風流
みすみ・かざる。何かと元気な裏辺研究所・所員。
水澄風流 私は中学の頃先生のおかげで英語が好きでした、ビートルズとかシカゴとかの洋楽をかけてくれて。その甲斐あって入試の英語は楽でしたよ。
馬藤 僕の場合、Y先生の生物の授業は面白いんですよ。進化の話や発生のところが特に良くて、いつも楽しみにしています。でも一方、教室の後ろの方に、その授業が嫌いな人もいて、教え方というのは好きか嫌いかをはっきり分けてしまうと思います。

松戸(右絵) みんながすべての教科に興味を持つのは不可能です。いくら先生がうまく授業しても、興味を持たない人は出てきます。例えば僕は数学とか哲学とかいうものは興味がありますけれど、他のことはあまり興味がありません。だから先生がいくら面白くやってもやる気にはなれませんね。だから、それだったら強制でもいいからしっかりテストも実施して、今まで通りの授業をせざるを得ないと思いますね。

水瀬 どうせ大学に入学すれば好きなことを中心に勉強できるわけだから、高校時代は嫌な教科も文句を言わず黙々と勉強させられるべきかもしれない。

○今の授業のままでは問題

松戸合
裏辺研究所副所長。裏方として、意外と活躍中。
金好 しかし、興味というものが何もないまま大学に入る人も多いのだから現行の授業のままでは問題だよ。高校では松戸君のように完全に「俺は興味ないね」とひらきなおっている人も多いと思うから、小・中学校の段階で、つまり自分が何に興味があるかハッキリしないときに、興味への手助けをする授業が必要だと、僕は強く言いたい。その上で松戸君のように、すでに興味のある教科があるから、他の事はしたくないと言う人が高校には多いはずだから、趣味別クラスというのを高校では作ってみたらどうかな。

水澄 中学校の時にあった、選択教科というやつですね。
金好 そう、それ。受験には関係なく、単純に自分の好きな教科・分野の知識や技術といったものの向上を図るのが狙い。強制させられた「奉仕作業」をやらせられるより遙かにいい。

水澄 しかし、さっき水瀬さんが言ったように、どうせ大学で好きな勉強ができるんですよ。なにも高校でせずともいいでしょう。
金好 うんにゃ、大学ではどうしても就職を見越した勉強をしがちなため、真に自分が好きな勉強ができるとは限らない。その点、高校ではまだ自由度が高い。
水瀬 何もしたくない人のために「何もしない」という選択を作るのも手かな。

金好 僕は反対だね。高校は義務教育じゃないんだから、何も勉強したくないのなら、そもそも高校に来なくてもいい。さっさと就職して社会の厳しさを知った方がいい。そこの点をはき違えている人多いよ。この前、テレビを見ていたらY県立大学合格者発表のシーンで、ある合格者が「これからいっぱいバイトします」と言ってた。よく言うわ。正社員になって働いた方が給料高いよ。そんな不純な動機で大学に合格するのは困る。その人の陰で、大学で勉強しようと思っている人が、不合格に泣いているかと思うと悲しい。と、これは大学の場合だけど、高校だって同じ。何もしたくないなら来なければいいんだよ。就職は苦しいかもしれないが。さて、もう1つ!僕は中高一貫教育をうまく推進してほしい。だって、無駄と思わないかい?歴史教科なんか特に、2回も連続で中学校・高校とやらせれるンだよ。1度で十分だろ。初めから現在の高校レベルでいい。

水瀬 高校レベルの内容を中学生に教えるのは無理という理由で、中学では導入部分的な感じで教えているわけだけど、あれ、逆なんだよね。小さい子の方がいっぱい覚えるんだよね。
松戸 そうですね。
水瀬 だから俺、小学校で英語を教えるのは賛成だよ。だって、俺達が日本語を喋れるようになったのは、あのころの教育のお陰でしょ。だから、英語も同じようにやれば、きっとうまくいくと思う。

松戸 あと、外国語教育をする上で、外人に会っても怖がらない訓練も必要です。
水瀬 なんだかんだ言って見慣れてないからね。
水澄 わらわとしては英語よりもドイツ語を勉強してみたい!(←論点がずれている)
馬藤 ただし、ドイツ語の方が難しいですよ。(←論点がずれている)
水澄 いや、全く知らない頃(つまり、小学生の頃か)ならどっちでもいいじゃろう。それに、ドイツ語がわかるとワーグナーのオペラがわかる!(←個人的にドイツ語がやりたいだけかと思ったら、小学校教育に話を結びつけている。強引だ。)

○数学をどうするか
松戸 ・・・話題戻そうよ。僕は私立の入試科目で文系の場合、数学を選択しなくてもいい、つまり高校時代に数学を学ばない人がでてくるのはいけないと思います。金好君は、私立のR大学の法学部に数学を受験しないで合格が決まりましたね。
金好 おいおい、その件で責めないでくれよ。僕は、真面目にセンター試験を全科目受けたよ。数学は、しっかり平均点越えたし・・。それに僕は、センター試験5教科7科目で一定の点数をとれたことで、大学の受験資格を与えられるようにするべきだという持論の持ち主だよ。そうそう、数学のセンター試験ってさ、クイズみたいで面白いよ。だから、そんな感じで数学を勉強したらどうかな。

水瀬 わかるんだけど・・、やっぱ無理よ。なかなか難しい。数学にパズル性があるのは認めるんだけどね。
金好 ふ〜む、松戸君の場合は数学をどう、とらえていますか。
松戸 僕は数学を理解すべき対象としてとらえています。クイズみたいに思いついて解く数学と、理解すべき数学という2つの数学が僕の中にあるのですが、僕は思いつくのは得意じゃないので、例えば微分・積分、ああいったものを「なぜ、そうなるのか」ということを重点的に見ているんですよ。

金好 水瀬君の国語や馬藤君の生物に対する思いもそういった感じですか?
水瀬 ああ、まぁ・・・。
馬藤 そうですね。
金好 やはり、なぜ?という探求心と、わかった!という理解することに喜びを感じられるようになることが、勉強を好きになる最前の方法なわけだ。
水瀬 ただね、小説書いていたら国語の授業がわからないわけではないけど、何となく面白くなくなったんよ。特に作文や小論文をやらされることに疑問がでてきた。
水澄 英語に近い問題形式だからでしょう。
松戸 初めから答えありき、というような感じだからでしょう。解答例からうかがわれるように望ましい答えが初めから設定されているんでですよ。
水瀬 うん。それと、高校などの国語教育全体にしてもまるで数学のような感じになっているんだ。模範解答にニアピンのような感じぐらいまでしかマルにならない。結局のところ、その1つの答えを目指すよう教え込まれるわけ。でも、本来国語というものは、問題文1つにしたって、感じることは人それぞれ千差万別なんだ。なのにそれを1つにまとめようとするのはおかしい。

○国語教育と理科教育
馬藤 あと、国語の授業においては、ただダラダラやっているような面があると思います。古典はそうじゃないかもしれないけど、現代文の授業はその傾向が強いです。
水澄 本来国語のテストに点なんて付けられない!(←馬藤の話を無視している)
馬藤 ・・・。詩なんて特にそうですよね。(←仕方なく調子を合わせる)
金好 ただし、僕はセンター試験の国語の評論を解く練習は好きだな。あれをやると、作者が何を言いたいか発見しやすくなっていいよ。
松戸 はい、逆に評論はそうですよね。今の国語教育に軍配が上がります。

金好 ここまできたら理科についても考えてみよう。理科離れが深刻な問題になっていますが、どうしたら理科が面白くなるでしょうか?
水澄 小学校の頃にフナの解剖を見せれば、数人は面白いと感じる。
金好 馬鹿か!!
水瀬 数人は嫌いになるよ・・。
馬藤 5人好きになって、10人嫌いになる。
松戸 実験を多くしたら言う人がいるけど、僕は実験が嫌いなんですよ。実験の後の考察で、バーッと式たてて解く方が好き。
水澄 じゃあ、実験が好きな人と嫌いな人で分けて授業すればいい。好きな人にはフナの解剖を見せる。フナの解剖から理科が好きになる!!
馬藤 (いつまでお主はフナの解剖にこだわる・・・。)

松戸 フナの解剖を見て理科が好きになるかどうか、嫌いになるかどうか、それはその人にとって、見る前に判断はできません。同じように、勉強を全くしてない人が勉強が好きか嫌いかは、やってないんだから分からないんですよ。
水澄 いや、それは・・・。
松戸 君の話は、「きっかけ」についてだろ。きっかけって、どう与えればいいん?きっかけとは与えられるべきものなの?それとも自分から探しに行くものなの?
馬藤 人は皆、自分では気づかないところにいろいろな適正があるから、いろんな事を試させるべきでしょう。
水瀬 で、それによって次のステップへ進む人もいる。しかし俺は「小説を書く」ことは自分から探してきたよ。

金好 うん、きっかけを拾える人もいるけどそうじゃない人もいる。それも1つの能力だからね。正岡子規なんて、馬糞1つで俳句を思いつく。そういう人はいいよ。しかし、そうじゃない人にはきっかけを与えてあげなければいけないし、それに拾える人だって、自分が拾ったものと、他人に拾ってもらったものと違うタイプのものとして、新しい発見があるでしょう。あと、1つあれば10のきっかけを拾えるようになる人もいる。
水瀬 そうですね。あ、こういうときのお約束が金子みすずだ!<注:山口県の詩人(1903〜30)。幻の童謡詩人と言われるが、かの県内では、くどいほどテレビや新聞に登場する。>

金好 みんなちがって、みんないい・・ってか?
水瀬 なめてんじゃねーよ、馬鹿!と言いたい(←暴言)
馬藤 うわあ・・。
金好 殺人者も、他の人と違っていいのかな?
水澄 よくないっスよ!!
水瀬 あの詩によると認められるわけだ。みんな違っていいんだろ?
金好 すばらしいよ明智君!・・は冗談。きっと彼女は平和な世の中を前提に詩を書いたのでしょう。・・みんな仲良く・・が前提。
水澄 無理です、みんな仲良くなんてできません。
松戸 だから、そういうとき(仲良くできなくなったとき)の対処法と、また何をしてはいけないかもいけないかも大切だね。

馬藤 なぜ話が道徳に?
水瀬 まぁいいや、道徳も1つの勉強だ。
金好 そうだね。さて、森前首相の大好きな教育勅語云々以前に、道徳の授業がある自体、1つの思想の押しつけの気がするんだけど、どう思いますかね。
水澄 そりゃあ、思想を押しつけるなら抜かりなくやらねば。1つの思想が完璧に国民に浸透すれば、所長の疑問もなくなります。
馬藤 何言ってるの!! あ、こんな時には「生物の多様性」というのが応用できると思うのですが、道徳の授業は人々の思想・振る舞いを統制するわけですから非常に大きな危険性をはらんでるわけです。そして、様々な危機に対する対処能力が、種全体において低下してしまう。
水澄 イスラム教徒が増えると豚が増えるということ。
松戸水澄君、今日はもうお帰りください)

水瀬 小説書いて思うのは、みんな違うから物語が面白くなるということ。
松戸 思想が同じ人しか登場しない小説を書いてください。
水瀬 こわ〜。
金好(大爆笑)結局そこにたどり着くわけだ。それともう1つ。常識では考えられないような理由で殺人が起きていると思いませんか。僕はあれ、道徳の授業で損得勘定というやつを完全に排除してしまったのが原因の1つだと思うのですが。

松戸 そうですね。何事もやりすぎは良くないですよ。少しは損得についても教えるべきです。
 と、その後まだ30分にわたりトークは続くが、脱線の度合いが強くなりすぎたので、以下略とする。なお、社会科は築城のやり方とか、ピラミッドの作り方などを模型も使って授業をすると面白い、仏像の名前を覚えるのは無意味だ、という結論に達した。

○まとめ
松戸合(副所長)>
 私は、学校教育と聞くと悪いイメージしか思い起こすことができない。中学の時の自分の姿を思い出すからだ。

 中学の時・・・私は、はたから見るとかなりの「優等生」に見えていたであろう。成績も良く、授業態度も良く、学校行事や委員会活動にも積極的に取り組み・・・・。そして事実、私も完璧な「優等生」を目指し、「誰も傷つけてはならない」という学校道徳をきっちり遂行しようと頑張り・・・、いや、もがいていた。行き着く先は絶望でしかなかった。優等生が周りから得るものは(承認ではなく)不安だけであり、「人を絶対に傷つけてはならない」という不可能な命題を自らに課すことは、鬱を呼び起こすことにしかならなかった。

 今思えば、優等生を目指す思考法は狭い思考法であり、世の中には様々なものの見方があることに気がつかなかった自分が馬鹿だったのだろう。しかし、これが教育の成果だともいえるのではないか。私が自分の経験から願うのは、この多様で不完全な社会の中を、本当に(ある意味したたかに、冷めた目で)見て生きていくために、「多様のものの見方」を提示してくれることだけである。しかるに、学校教育というものは様々なものの見方達をすべて自らの範囲内に収めてしまい、自らに有用なように浄化する恐るべき装置なのだ。 結局のところ、学校教育はこの自らの限界を脱出することができず、仮想現実の散乱した社会の中心で消えていくものなのかもしれない。

水瀬
 教育改革について。ただ目に見えること、たとえば勉強内容を削減するだとか、そういうものは改革ではない。勉強が得意な人がいれば運動が得意な人がいるように、決して人間が持つ能力は同じではない。「みんな違ってみんないい」のように、個々が持つ微妙な差異をくみとり、それに応じたクラスを作っていくことが大切なのではないだろうか。だが現状でそれは難しいかもしれない。一人の人間が一度にしっかりと気を配れる人数はほんのわずかしかいない。一人の教師が大人数の生徒を見ること自体がすでに無理なのであり、一人一人の違いや変化を見分けることが非常に難しくなるからだ。だからこそ教育については教師だけでなく、親や地域など全てが一体となって取り組まなければならないのだと思う。教師一人に押し付ける現状では、いくら授業内容を薄くした所で無駄だと思うのだが。

馬藤永徳>
 今の教育には、その学問の最新状況、さらにはその教科の中での各単元の関わり合いというものについて教えるのが大いに足りないと思う。さらには答えというものが完全にあるようにおしえていて、生徒の様々な発想・考えを妨げている。この中で興味を持てと言うのが難しいのではないか。それを変えずして、教育内容を減らすというのはいただけない。

 むしろ様々な考え方があることなど、詳しく教えるべきだ。それはテストに出さなくても良い。それでより多くの人が興味を持ってくれれば良い。その人は自分で勉強し始めることとなるだろう。生物でいうなら、進化などの単元にはほとんどすべての他の単元が関わらせることができると思う。進化というのはいわば生物の歴史であり、生物の特徴がどう作用したかなどの事実を書いた書物ともいえると思うからだ。もう一ついうと、いろんな考え方を教えることによって様々な人材が生まれることだろう。

 興味ごとのクラスで、授業をすればよいというのが議論ででていたが賛成だ。興味のある生徒はより勉強することになるだろう。ただ、このクラス分けで忘れてはならないクラスが一つある。興味のある教科が特にない人たちだってやっぱりいるだろう。

水澄風流
 私は、教育改革の名の下に、内容を削ることは反対である。今の教育はたしかにさまざまな問題点を抱えている。しかし、授業内容を簡単にしたところで解決する問題とは思わない。事はそんなに単純ではない。貧困な発想ではいけない。勉強したい人を支援しつつ、さらに勉強したくない人にも何とか勉強するようにさせることが重要なのである。文部科学省がやろうとしているのは、彼らが如何に発言を訂正しても底上げだけのもので、しかも出るくいはうたれ、日本国憲法の、私達は一様に平等というところに違反していることである。もう一度、よく教育の問題点をハッキリさせた上で改正案を出してほしい。

裏辺金好(所長)>
 公立の学校とは何であろうか。

 公立の学校は、お金のない人にも勉学をきっちり身につけさせ、将来の日本や世界で活躍できる良い意味でのエリートを養成するのがその意義だと私は考える。公立の学校で「エリート」を作るなとよく言われるがそれは違う。「エリート」を公立で養成しなければ私立に入学するしかなく、お金のない人は「エリート」になれないのである。

 もう一つ、山口県の高校入試には、特にその傾向が強いが、基礎力を測るという狙いの下で、簡単な問題ばかりだしすぎることに、強い疑問を感じる。あれでは、”誰がミスをしましたかテスト”で、真の学力検査ではない。東京都のように、学校別の入試問題を作成すべきである。さらに、推薦入試の広がり。あれも、口のうまい人が合格するだけで、口ベタな人はどうするのかという問題がある。

 最後に、教師について。楽にやっている人と必死にやっている人の差が非常に激しいことを言いたい。また、”人柄はいいけど教え方は下手な先生”と、”人柄は悪いが教え方が上手な先生”という人が多すぎる。何とかしてほしい。教師も生徒の一生を決めることをお忘れなく。


この原稿は、我々が以前、とある本に掲載したものを転載したものです。その後、何かまた文部科学省の方針は二転三転しているようで・・・。

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