(7)瀋陽〜張作霖爆殺事件現場〜
続いて、九・一八歴史博物館から、瀋陽北駅の西、皇姑屯駅付近へ。1928年6月、すなわち柳条湖事件の3年前に起こった張作霖爆殺事件(中国では皇姑屯事件)の現場を訪問しました。張作霖は、中国東北部を支配した軍閥の総帥。奉天省(現、遼寧省)の貧しい農家の生まれで、若いころ馬賊に身を投じ、次いで奉天(現、瀋陽)で私兵団である自衛軍を組織し、独自勢力を形成します。日露戦争では日本軍の別働隊として活躍し、戦後は清の軍隊に入り大いに出世。中華民国が成立すると中国東北部を掌握するほどの立場となり、中華民国が群雄割拠状態になると、日本軍と連携しながら奉天を拠点に、北京も掌握して大元帥に就任するなど大きな勢力を持ちました。
しかし、蒋介石による国民党軍の北伐に敗北して北京からの撤退を余儀なくされ、さらに日本の関東軍からは「役に立たない上に、言う事も聞かない。蒋介石と連携される可能性もある」と関係悪化。そこで関東軍参謀・河本大作大佐らは、満鉄線と京奉線が立体交差する上写真の場所で、橋に爆弾を仕掛け、北京から撤退する張作霖の特別列車が通りかかったところで、これを爆破させます。阿片中毒の中国人2人を殺害して現場におき、中国側の仕業と見せかけました。
張作霖はこれによって重傷を負い、奉天城に運ばれましたが死去。関東軍は、これをきっかけに一気に満州を制圧する計画でしたが、当時から関東軍の仕業であるとバレバレで、時の総理大臣である田中義一が、昭和天皇の不快をこうむり辞職することになり、関東軍は満州制圧の機会を失い、さらに張作霖の息子、張学良らを敵に回すことになりました。
現場
トップ写真の反対側から見た現場。2つある橋脚のうち、右側は元のままの石組が残っています。上が、かつての満鉄の路線、下が北京と奉天を結ぶ京奉線(当時)です。
列車
牽引するのはSS(詔山)9G型電気機関車。左写真の奥側に向かいます。
立体交差
双方の列車がクロス。
当時の状況
ジャパン・クロニック日本全史(講談社)より。周囲の状況は変われども、線路の雰囲気は現在と事件当時と変わっていないことが解ります。