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第104回 地名の「前中後」と「上中下」
担当:裏辺金好
ちょっとした地名に関するお話をしてみようと思います。これで貴方も地図が面白くな〜る。
ま、こう言われれば気が付く人もいると思うのですが、そう、むか〜し天皇が住んでおられた京都・大坂を基準に決めてあるのです。 そもそも、この越前・越中・越後は、更に古代には「越国(こしのくに)」とまとめて呼ばれておりました。それが分離したときにこの3つに別れたというのです。 ・・・と、疑問になるのが今の石川県である加賀国。これは一体いつ成立したのか? もともとこいつは、越前国でした。それが823(弘仁14年)に越前国から分離して誕生しました。お気づきのこととは思いますが、このように旧国名というのも歴史が進むにつれ、と分離する方向で進んでいます。今の市町村合併とは逆ですね。
例えば、吉備国。古代史ではよく登場し、今でも「きびだんご」としてお菓子の名前であまりにも有名ですが、歴史上からは、いつの間にか消えております。これは、7世紀後半に「備前国」「備中国」「備後国」の3つに分離。やはり、京都・大坂が中心として「前・中・後」を設定。 それから陸奥国。奥州ともいいますが、ここは元々、青森・宮城・岩手・福島を指すという、実におおざっぱな区分でしたが、なんと明治維新直後の1865(明治元)年に磐城(福島県東部・宮城県の一部)・岩代国(福島県西部)・陸前国(宮城県)・陸中国(岩手県)・陸奥国(青森県)となり、陸奥については新規命名2つと、東京を基準に「前・中・奥」という区分がなされています。 なお、当然のことながら凄く短命に終わり、県名が一般になりました。 また出羽国(秋田県・山形県)。これも同時に、東京を基準に羽前国(ほぼ山形県)・羽後国(ほぼ秋田県)に別れております。 ちなみにこの、「●●国」と「●●県」の関係ですが、1871(明治4)年の廃藩置県でおかれた「県」は統治機構の呼称。一方、その後しばらく、行政区画は依然として国でした。が、明治中期から公文書で国名をつかわなくなり、ここに(都道府)県が一般的になったのであります。
ここは、新潟県南西部に上越市(旧高田市・直江津市)があることから解るように、上越・中越・下越といった通称を使って区分しています。面白いのは、新潟県北部(新潟市・新津市など)が下越、スキーでお馴染み越後湯沢(湯沢町)、長岡市といった中部が中越、そして先ほどの南西部が上越というように、県の地理的な上下と、上越・下越は、全く逆になっております。 もちろん、これは京都を基準とした考え方です。京都に近い方が「上方(かみがた)」というわけで、「上」なのであります。 これと似た例が、山口県の上関町と下関市。上関町は山口県東部、下関市は山口県の西の端にあり、当然京都を基準とすれば・・というわけです。
京都には、右京区と左京区という区があるのですが(このほか上中下もあり)、あれれ? 右のあるのが左京区で、左にあるのが右京区になっています。何故でしょう?今回は「京都」です。はて、何が基準なのか? これは、北にある大内裏から南にある朱雀門に向かう方向が基準なのです。つま〜り、地図を反対にひっくり返すのが正解。すると、右が右京区、左が左京区になります。奥が深いですね・・・。
別れる物があればくっつく物もある。 例えば、陸奥と出羽をあわせて「奥羽」という地名があります。そう、北は陸奥湾の夏泊(なつどまり)半島から、南は栃木県日光市の北方まで、全長500kmにわたってつらなる日本最長の山脈が、奥羽山脈です。それから日本史でお馴染みなのは、明治維新の時、明治政府に抵抗した東北諸般による奥羽列藩同盟という、藩同士の同盟の時に「奥羽」という名称を使用しています。まあ、これは地名ではありませんが・・。 また、明治時代、約70000あった町村は、なんと16000にまで減らされてしまいました。この時、今の市町村合併では比較的、片方、どれか1つの名前を残すか、全く意味のわからない名前を設定するかですが、当時は山田村と中谷村が合併したら「田中村」というように、1字ずつくっつける例が数多く見られました。 ・・すると先ほどの田中村。今度は川上町と合併することになったとします。 よし、では谷川町に名前を変えよう、となるのですが、旧・山田村から反発がおこると言ったように、かなり苦労しております。 それから、JRの路線の大半は、旧国名や地名を合成しております。 例えば、山口県の岩国市と徳山市(現・周南市)を結ぶのがJR岩徳線。この他にも、JR日豊本線、JR芸備線、JR仙山線、JR京葉線などなど・・。 極めつけは、JR指宿枕崎線。指宿市と枕崎市を結ぶため、そのまんま合成です。 この、合成についての話は、またまとめて紹介します。 |