日本人と肉食の歴史
肉食といえば「文明開化」。しかし、縄文時代の日本は狩猟採集の生活でイノシシやシカを食べていました。また、弥生時代に農耕民族になってからも肉食をやめることはなく、それは奈良時代までは当たり前のことなのでした。
問題はこの後。仏教が本格的に普及すると、「生きているものを殺しては駄目」と提唱。植物だって生きていると思いますが、ともあれ肉食する奴はとんでもない奴というレッテルが貼られ、肉食は衰退していきました。ただし、キジをはじめ鳥肉はその後もずっと食べることがありました。
ただし、鶏は食用の対象ではなく、ただ羽の色と鳴き声を楽しむだけのものだったそうで、鶏が食用になったのは明治以降です。
では他の肉は平安時代から江戸時代まで何も食べなかったのでしょうか。
実は、戦国時代に焼き肉が登場しています。
これは何故かというと、足軽(兵士)の人々が非常食として農家から牛をかっぱらってきて、味噌(普段携帯している)で味付けして鉄板で焼くことを考案したからです。腹が減っては戦は出来ぬ、と緊急事態がなせる料理ですが、おいしかったでしょうねえ。また、宣教師が牛や馬の肉を食べていたことで、九州を中心に肉食が普及。しかし、それが豊臣秀吉に嫌がられたようで「バテレン(宣教師)追放令」と共に禁止となりました。
第一、牛や馬は農家にとって重要な働き手でした。今のように牛や馬を大量に飼育するのも大変なので、肉食によって失っては駄目だったのです。ついでに言うなら秀吉は農家の出身。そこの事情を考慮したのかも・・・しれませんね。ただし、飢饉の時はそんなことも言っておられず、食べたようです。
さて、時代は1853年。
アメリカから
ペリーが日本にやってきた。彼は食料を求め「鶏200羽と牛60頭をよこすように」と言ったそうです。ところが幕府の役人は「なぜ?船の中で耕作はできないですよ」とお答え。この答えにさぞかしペリーはビックリしたでしょう。
そしてペリーは答えました。
「食べるのですよ」
「えっ?」
ここで「なるほど西洋人は肉を食べるものなのか」と、納得したのが江戸幕府最後の将軍である
徳川慶喜。特に豚肉がお気に入りになったようで、人々からは「豚一様」と馬鹿にされてしまいました。だが、明治維新で人々は文明開化の言葉に酔い、肉食に飛びつき、政府もこれを強力に後押ししました。
1869年には、東京の築地に政府が牛馬会社を設立。1872年には明治天皇も召し上がられました。そしてこれを受けてか、
仮名垣魯文が著した「安愚楽鍋(あぐらなべ)」の中では「牛肉食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書かれておるほど牛鍋は庶民の間に普及します。
なお、この牛鍋というのは今の関東風のスキヤキであり、そもそも関西には牛鍋はなく、代わりにこれに似た料理をスキヤキと言って牛肉を食べました。そして、大正時代にスキヤキという呼称に統一されています。
では、このスキヤキという呼称はどこから来たのでしょうか。
諸説ありますが、有力なのは江戸時代に食べられた、タカやカモシカや鴨などの肉を使い古した鉄板の上で焼く鋤焼き(すきやき)に由来するという説。また、他の説としては肉や魚を薄く切ったものを「すき身」ということからきたという説があります。
ちなみに、おいしい肉料理の観点からすると、このスキヤキというのは、あまり牛肉本来の旨みを引き出さないものらしい。肉汁をなるべく出さないことで、肉のおいしさを保った料理を作るのがセオリーなのに、スキヤキは肉汁垂れ流しだ、とのこと。
ところで話は変わりますが、
ビフテキの名前はどこから来ているか知っていますか?
ここで「ビーフステーキ」の略と考えた方は不正解。これは、ビフテックというフランス語から来ているのです。さらに言いますと、ステーキとは、ステイクという北欧の言葉。ちなみに北欧のステイクと言えば、鯨のステーキを指します。
日本人と肉食といえば、
焼き鳥も欠かせませんね。
焼き鳥のような食品は古来よりありましたが、現在の形態に近いものは大正時代の終わり、大正12年の関東大震災の後に屋台で提供したことから始まりました。初めは高級料理だったそうで、今から考えると信じられない状態です。
今のように庶民的になったのは昭和30年代に、食肉用ブロイラーが普及したことによって、鶏肉の価格が落ちたことが影響しています。これによって焼き鳥を扱う店が増え、居酒屋の代表的なメニューとなっていったのです。
(執筆:裏辺金好)