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第121回 F.ベーコンと甘く危険な哲学者達

担当:裏辺金好

2.王陽明編

 ちなみに、先ほどからお話ししていることは、主に実教出版の「新倫理資料」やマイクロソフトのエンカルタ百科事典を元に紹介しています。もちろん、他にも資料は使ってますが、取り敢えず、この2つが中心です。

 さて、今度はこの人。
 王陽明(1472〜1528)年は、中国の明の人で、「陽明学」を確立した哲学者だけど軍事的才能に恵まれ、陸軍大臣控まで昇進した人です。「控」って何でしょうね(笑)。また微妙な文字が1つくっついています。で、哲学的なことは省略しまして。若い頃、当時大ヒットしていた朱子学という学問の中にある格物論とやらを試すべく、庭の竹を切って、その理を深く考えている内に病気になったそうです。

 いやね、中国では何かにつけて「怒りのあまり、血を吐いて亡くなった」みたいな表現がありますが、庭の竹を切って病気になったというのは・・・。
 なんでしょう、さっきのベーコンのように寒い日にやったんですかね?

3.ロック編

 ロック(1632〜1704年)、イギリス人。歴史の授業でも必ず登場する人。
 市民政府二論(統治論)や所有権の確立、権力分立を唱えた人です。で、彼の面白い話は、生前に自分の墓誌を作っていたこと。しかもその内容が色々な意味で面白い。
 曰く。
 「旅人よ、足を止めよ。この地の近くにジョン=ロック眠る。彼がどういった人であったか問われるなら、慎ましい運命に満足していた人だと答えよう。学者として育てられ、ただ真理の追究に研究を捧げた人である。このことは彼の著作から知られるであろう」
 ちなみに彼は、独身のまま一生を終えました。
 以上。

4.ルソー編

 歴史研究所で一度紹介していますが、あまりにも面白いのでもう一度紹介。
 ルソー(1712〜78年)、フランス人。ロックやモンテスキューとセットで登場しますね。
 この人は、「社会契約論」を唱え、一般意志に従う直接選挙の理想を唱えました。どういう事かというと、文明は人々に不平等と戦争を与えてしまった。だから人間は、自由・平等・平和な状態である「自然に帰れ」。そして、新たに社会契約をし、個人の一切の権利を共同体に譲渡し、共同体は人間の良心である一般意志に従い、各人の生命と自由を目的とする。というもの。

 んでこの人、かなり変わった生涯を送っています。
 フランス人と書きましたが、元々はスイスのジュネーブで時計師の子として生まれました。そして9歳で母を失い、父は決闘事件で家出(!)。10歳の時に兄も家出(!!)。そのため、13歳でルソーは彫金工の徒弟となり、そして孤独で、窃盗や嘘をつく日々を送ります。そして16歳で放浪の旅に。ここで、南フランスのシャンベリーにお住まいのヴァラン夫人に保護され、彼女の愛人となりました。


 そして、哲学と歴史を独学で勉強し、さらに歌劇(オペラ)の作曲もする。
 28歳でヴァラン夫人と別れ、リヨンで社交界デビュー。そしてパリで百科全書派と呼ばれる、その名の通り(人々の啓蒙のため)百科全書(辞典)全35巻を作る人々と出会い、音楽の項を執筆します。このグループには、中心人物であるディドロ、それからヴォルテール(文学者。宗教的社会的迷信から解放され、自由で自然に志向するのが理想的人間だ!と考えた人)や、モンテスキューがいます。


 1952年に、彼のオペラ「村の占い師」が初演。この曲で有名なのが、日本語の歌詞で言う
 「む〜す〜ん〜で、ひ〜ら〜い〜て」とい一節。
 むしろこっちで我々とはなじみがあるんですね。と、このようにご活躍だったのですが、文明なんて人々を堕落させるだけだと主張したため、ヴォルテールと対立。それもあってパリを離れ、モンモランシーに隠棲し、小説「エロイーズ」(子供の教育には感情表現を重視せよというもの)、そして有名な「社会契約論」を執筆。

 その後は、色々な友達とケンカし、さらに著書の1つ「エミール」が禁書となり警察にも追われ、1762年にはロシア、ついでイギリスと亡命。1768年に、ルノーという変名を使ってフランスに帰国し、自伝「告白録」という激しい道徳的葛藤で有名な作品を執筆。1678年にエルムノンビルで死去しました。


 ちなみにパリで下宿中(33歳の時)に、女中のテレーゼを愛人に。10年間で5人の子供を孤児院に捨て、なんと56歳でようやくテレーゼと結婚という、なんとまあ凄い生活・・・。そしてルソー、晩年は楽譜筆写で生活しました。


4.ミル編

 ジョン・スチュアート・ミル(1806〜73年)、イギリス人。
 この人は、「満足な豚よりも不満足な人間である方が良い。満足した馬鹿であるよりも不満足なソクラテスである方が良い」という有名な言葉を残し、これは私も非常に好きな言葉です。つまり、満足度がいくら大きいと言っても、人間は下劣な満足じゃ駄目。質が重要である、と考えたわけです。また、下院議員時代には婦人参政権や土地制度改革などを指導するなど、非常に先進的な人物です。

 ま、それはともかく。
 どうもこの人、お父さんのジェームズにスパルタ教育を受けたらしく、おびえる日々。20歳になるとついに「我が生涯最大の精神的危機」に陥って、激しい鬱(うつ)病になります。この後、回復はするのですが、死ぬ間際に義理の娘で彼の世話をしたヘレンに対し
 You know that I have done my work. (君は、私が仕事をしたことを知っている)
と言ったとか。つまり「僕はちゃんと自分の仕事を果たしたよね? 君は認めてくれるよね?」と言いたかったわけで、つまるところお父さんに褒められたかったんだなあと、解釈されています。あれほど立派な業績を打ち立てたのにもかかわらず、本当に認めて欲しかった相手はもちろん、とっくに亡くなっているわけで、非常に可哀想な話だなあと思います。あの世で褒めてもらえたでしょうか。それとも、さらにスパルタ・・・い、いや、なんでもないです。

5.キルケゴール編

 キルケゴール(1813〜55年)、デンマーク人。
 この人は実存主義に大きな影響を与え、
 1.人々はまず美的実存(あれもこれも)を考えるが、あれもこれもなんて無理、として絶望を味合う
 2.次に、倫理的実存(あれかこれか すなわち善か悪か)を考えるが、自らの有限さ・無力さに絶望を味合う
 3.そして宗教的実存、すなわち神の前に1人で立つことによって、この限界を乗り越えていける。
 ・・・等と言った人物で、個人的には頭が痛くなります。

 そんな彼の人生も非常に読んでいると鬱になりそうで面白い♪
 まず彼の親父さんからして、かつて貧困だった時代に女中と不倫して最初の子供を得たことを後悔し(女中は後妻に)、さらに神を冒涜したことを悩み、末子であったこのキルケゴールを聖職に捧げます。ところが、キルケゴールがコペンハーゲン大学神学部に進学中に母と兄姉5人が相次いで亡くなると言う不幸なことに。そのため、キルケゴールは憂鬱な性格になります。さらに、22歳の時に、かつて父が不信仰であり不倫の上で結婚したことを知って、自己嫌悪と絶望へと陥り、やけくそな生活を始めます。

 そんな彼に素敵な出会いが。
 24歳の時、10歳年下の女の子レギーネ=オルセン(14歳!)と出会うんですね。ところが、このレギーネちゃん。既に婚約者がいたんですが、彼は、彼女と結婚したいと思い、頑張ってお勉強。27歳の時に牧師試験に合格し、めでたくレギーネちゃんと婚約までこぎつけるという、荒技をやってのけます。ところが、何を血迷ったか「自分の深く考える性格は結婚には向いていない」とし、翌年に一方的に指輪を送り返し婚約を破棄。

 さらに、牧師になるつもりもない、として毛織物商人として成功していた父の莫大な遺産を食いつぶしながら、著述業に専念。ところが、深く考えれば考えるほどストレスがたまっていき、さらに新聞に風刺されたことからマスコミ嫌いとなり、「無責任な大衆を作るだけだ!」と新聞紙批判を開始。さらに、キリスト教に絶望した彼は教会に対しても批判をするようになり、ある日、コペンハーゲンの街頭で昏倒し、そのまま亡くなってしまったとさ。


 ちなみにレギーネちゃん。その後、教会でキルケゴールと顔を合わせたことがありますが、何と言ったんでしょうね。また彼女は、シュレーゲルという人と結婚します。婚約を破棄したくせに、レギーネが好きだったキルケゴールはシュレーゲルへの手紙に、彼女宛の手紙同封してを送るのですが、未開封のまま返送。ちなみに、シュレーゲルは西インド総督、コペンハーゲン市長、枢密顧問を務めております。

 さてさて、そう考えるとキルケゴールの苦悩の選択は、レギーネにとっては幸せを与えることが出来たのかも知れません。
 そう考えると偉い・・・のか?

6.中江兆民編

 こちらは悲惨というか・・・。
 中江兆民(なかえちょうみん 1847〜1901年)、日本。本名は中江篤介(とくすけ)
 土佐藩高知の足軽の子として生まれ、長崎でオランダ語を学び、坂本竜馬の影響で開明的思想に目覚めます。そして、明治政府の留学生としてフランスに渡り、先ほど紹介したルソーの「社会契約論」に感動。漢訳し「民灼訳解」として出版するなど、その自由民権運動を推進し、「東洋のルソー」と呼ばれます。・・・と、ここまでは少し歴史を勉強した人なら、どこかで聞いたことのある話と思いますが、このあと。

 やはり明治政府に睨まれ、1887年に保安条例によって危険人物として東京を追放。この時、後に大逆事件で処刑される幸徳秋水を弟子とします(ちなみに、秋水の号は兆民が付けた物で、幸徳秋水の本名は幸徳伝次郎)。さてその後、中江先生は衆議院議員に当選し、立憲自由党の思想的存在となりますが、政府に懐柔された板垣退助が脱党したり、衆議院解散をちらつかされると政府側に回る自由土佐派議員(植木枝盛、片岡健吉など)など、政争に明け暮れる姿を見て失望。

 特に自分の郷土の人達が裏切ったことにも怒ったんでしょうね。
 「無血虫の陳列場」と凄い言葉を残して辞職します。
 ・・・良い言葉ですなあ、今の国会議員の先生方にも、そっくりそのままあげたいです。

 問題はこの後。
 ここで諦めない中江先生は、やはり何を始めるにも資金力が必要と言うことで、色々な事業に手を染めます。
 ところがこれが全て失敗に帰し、借金漬け。挙げ句の果てに自由主義者のはずが国家第一の国権主義に考えが傾き始め、さらに「貴方ガンです」と申告される始末。とは言え、それをバネに書いた執筆した「一年有半」「続一年有半」がベストセラーとなり、最後の花火を打ち上げて亡くなりました。

○終わりに

 てなわけで、色々な哲学者達を紹介したわけですが、如何だったでしょうか。
 きっと、高校生で倫理のテストを受ける人は、このエピソードが頭から離れられなくなっていることでしょう〜。そうです。こういった横道を頭に入れることで、かえって本筋を見失う・・・おっと、それじゃあ駄目じゃん。いやいや、ともあれ機械的に誰が何をしたかなんて覚えても仕方がない。色々なエピソード付きで、楽しく学習できれば、と思います。

 さて、当然の事ながら「はて?何故この人はこのような行動を取ったのか?」などと思われる箇所も多いと思いますが、それこそ、まさに自分で調べに行こう!と言う次第ですので、ご了承くださいませ。

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