第133回 「ふぐ」と伊藤博文
担当:
裏辺金好
山口県出身の水澄所員が、正月に帰省した土産として、「料亭の味を再現 ふぐ炊き込みご飯の元」みたいなのを筆者に持って来ました。中には当然、商品の解説が入っているわけですが、それによると、「ふぐ」を一般の食卓に普及させたのは、なんと山口県出身の政治家、伊藤博文なのだとか。てなわけで、ちょっと調べてみました。
そもそも、日本で「ふぐ」を食べること自体は文化としてありました。
縄文時代の人々だって食べていたようです。
しか〜し、ご存じの通り、調理法を誤ると毒で死者が出ることもあります。なにしろ、その毒はテトロドトキシンと呼ばれる物質で,0.5mgから1rで人を死に至らしめるのです。これ、青酸カリの約1000倍の毒素で、加熱調理等でも無くなりません。うわあ、危険〜。
そのため「”ふぐ”の毒で部下達に死なれては困る」として、特に室町時代以降、時の為政者達は度々、「河豚食禁止令」を出します。それでも、食べようとする人々は多くいたもので、特に豊臣秀吉が朝鮮に戦争を仕掛けに行った際、下関で兵士達が「ふぐ」を食べて中毒死するのには困ったとか。一方、江戸時代の俳人として名高い小林一茶は
「河豚食わぬ奴には見せな不二の山」
として、ふぐを食べない奴には富士山を見せるな、とまで言い切っています。
このように、明治初期まで「”ふぐ”を食うな!」と禁令が出ながら、密かに食していた人はいたわけですが・・・。
明治27年、日清戦争講和会議が下関の春帆楼で開かれた時のこと。
伊藤博文総理大臣と、清の全権大使・李鴻詳が会談していたのですが、料亭としては天候の悪化でなかなか活きの良い魚を入手できなかったことから、「おかみ」は困った。そこで苦肉の策として、ふぐ料理を作らせて、「おそるおそる」差し出したのだとか。
伊藤博文自体は志士として活動していた頃、下関の商人で勤労の志士に多大な協力をした白石正一郎から、食べさせてもらっていたことがあったようですが、この時に、「ふぐ」の味に感動したようです。そこで翌日
「これはうまい! 何の魚だ。」
と、店に尋ねます。
「・・・ふ、ふぐでございます」
「禁令の魚ではないか。毒で死ぬ可能性もあるぞ」
「ですが、きちんと調理をすれば問題はありません。」
「なるほど。ならば、こんなに美味しい魚を食べられないのは勿体ない。山口県と福岡県に限って許そう」
と、いうわけで、ふぐが食べられるようになったとさ。
戦後になると、都道府県ごとに「ふぐ調理師免許」の試験が実施されており、これを取得すれば、その都道府県内で「ふぐ」を調理し、販売出来ます。
ただし、試験の内容や難易度は、都道府県によって色々です。
そのため原則として滋賀県で免許を取った場合は、滋賀県でしか免許は通用しません。ただし、例えば東京都の場合は、埼玉県、神奈川県、鹿児島県、滋賀県のいずれかの「ふぐ」の取扱いに係る試験に合格し、都道府県知事の免許を得ており、なおかつ東京都のふぐ取扱者資格受入講習に参加し、そして調理師の免許を持っていれば、東京都でも「ふぐ調理師」の免許が与えられます。
最後に、「ふぐ」の別名について。
山口県で「ふぐ」を食べようとすると、「ふく」と表記されていることにお気づきでしょうか。
これは、「ふく」=福、「ふぐ」=不倶を連想させることに由来していますが、日本最初の漢和辞書である「倭名類聚抄」や、1603年に刊行された「日葡辞書」(日本語とポルトガル語の辞書)では、「ふく」とされていることから、「ふく」の方が古い名前だ!という説もあります。
*参考:ふぐ専門店 やぶれかぶれ http://820.jp/shinbun.php
一方、「てっちり」という名前も聞いたことがある人もいるでしょう。
これは、「ふぐ」の毒が鉄砲のようだ・・・「ふぐの刺身(鍋)」→「鉄砲の刺身」or「鉄砲のちり鍋」→「てっちり」なのだとか。
最後に、「ふぐ」を漢字で書くと「河豚」になりますが、これは何で?
実は、中国で「ふぐ」は河によく棲息していた。そして、あの膨れた顔や鳴き声が豚のようだ・・・てなわけで、河豚。
そのまんまです。
というわけで、今回は「ふぐ」のお話でした。