将棋にまつわるお話(1)起源と歴史

担当:裏辺金好

○今度は将棋だ!

 ども。今回は将棋です。これといった前振りは思いつかないので、早速将棋の起源から見ていきましょう。

1.まずは将棋の起源から

 将棋と同タイプのゲームとしては、西洋のチェス、それから中国の象戯(しょうぎ 象棋とも)が代表格です。これらと将棋の共通点は、囲碁やオセロと違って、それぞれ機能を持った駒を動かしていくという点にあります。して、その原点はどうやら古代インドのチャトランガというゲームにあると考えられています。これは、4人が交互にさいころを振って駒を動かす、今で言うすごろくみたいなゲームだそうです。これが後に2人用になります。ちなみにチャトランガとは、チャツル(四つ)・アンガ(要素、組、メンバー)を合わせた言葉。左写真がそれ。関西将棋会館のホームページから抜粋させていただきました。すいません。

 しかし、どのようにして日本に将棋が伝わったのかはわからず、そもそも将棋はチェスや象戯と違う決定的な点があります。それは、取った相手の駒を再利用できると言う点です。さらに、敵陣に入ると駒が裏返って強力になると言うのも将棋オリジナル。

 んで、将棋の原型が日本に伝わったのは、6.7世紀のことと推測されています。もちろん、伝来当初はチェスの様な立像型だったのでしょうが、駒の形・名称が、次第に今の形に整えられていったものと思われます。少なくとも1000年前には今とよく似た形になっていたようで、奈良の興福寺から木簡を加工した平べったい駒が発見されています。そこから逆算し、つまり日本オリジナルである「取った相手の駒を再利用できる」と言うルールが時間をかけて確立したことを考えれば、だいたい伝来したのは、6〜7世紀といわれるのです。

 なお最初は、まだ飛車・角行が無かったようで、およそ十三世紀の頃にほぼ今の形になったと思われます。余談ですが、西洋のチェスが今のようになったのは15世紀末です。

2.徳川家によって保護される将棋

 囲碁同様、将棋も時の実力者に保護されて、初めてプロが登場するようになります。京都の医者にして将棋がべらぼうに強い大橋宗桂(1555〜1634)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって召抱えられ、将棋の指導をします。これがきっかけで大橋宗桂を祖とする大橋本家、大橋分家、伊藤家の御三家が幕府に正式に召抱えられ、、交互に世襲で「名人」を輩出することになります。彼らは、年1回11月17日の御城(おしろ)将棋で、将軍の御前で碁を打つのが最大の仕事で、晴れ舞台でした。

3.家元制度の終了と日本将棋連盟

 ところが、幕府が明治維新で滅亡すると、将棋指しのスポンサーもいなくなってしまい、家元制度は明治26年、11世名人伊藤宗印を最後に終了。一方で庶民の間に人気が根強い将棋は、1924年(大正13)に東京将棋連盟が結成。これが27年(昭和2)に日本将棋連盟(関西の将棋界も合流)、36年に将棋大成会と名称を変更し、日本でただ一つの専門棋士の全国組織となり、これが将棋界をリードします。一方、家元亡き後の「名人」の位は、引き続き有力者が世襲していたのですが、13代名人・関根金次郎の英断で実力制に移行させ、2年がかりでリーグ戦の末、木村義雄(1905〜1986)が新制度第1期名人になりました。

 太平洋戦争中、将棋大成会は活動を休止し、47年に現名称かつ旧名称である日本将棋連盟に改組改称(木村義雄が初代会長)。49年には社団法人格を取得し、今に至っております。また、現在は名人戦のほか名人戦、王将戦、竜王戦、王位戦、棋聖戦、棋王戦、王座戦が存在しています。また、現名人・竜王は羽生善治(2003年6月1日現在)。

参考文献・HP
歴史読本 2003年4月号より将棋の起源 尾本恵一著 (新人物往来社 なお特集は華族134年の真実)
マイクロソフト エンカルタエンサイクロペディア2001
日本将棋連盟HP http://www.shogi.or.jp/
関西将棋会館HP http://www.kansai-shogi.com/


棒