岩国城・錦帯橋と岩国学校 〜山口県岩国市〜
○解説
岩国市は錦川下流に広がる山口県東部の商工業都市で、江戸時代に毛利家分家の岩国藩・吉川家6万石城下町として栄えてきた場所です。その代表的景観が美しいアーチ状の木造橋である錦帯橋で、多くの観光客が訪れています。この他にも復興された岩国城天守閣や、江戸時代の面影を残す武家屋敷、1870(明治3)年に建てられた岩国学校など、様々な見どころを有しています。(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○岩国城
平安時代に岩国の地は平家一族である岩国氏が治めますが、平家滅亡の壇ノ浦の戦いで追い出され、この地を弘中氏が治めます。その後、弘中氏は山口を拠点に中国地方で勢力を大きくした大内氏の武将となりますが、戦国時代に、新興大名である毛利家と大内家が戦った厳島の合戦で敗北。大内氏もその後滅亡し、この地は毛利家の支配下に置かれます。そして毛利家は中国地方の殆どを支配下に置きました。ところがその毛利家は、関ヶ原の戦いで徳川家と戦うことに。当主の毛利輝元は、石田三成によって総大将に仕立て上げられますが一族の吉川広家は、これに強く反対し徳川家康と示し合わせ、毛利軍を動かしませんでした。結果、西軍は敗北。吉川広家は、毛利家を動かさなかった代わりに、毛利家の所領の確保を図ったのですが、そこは徳川家康。毛利家の罪は重いとして改易、代わりに吉川広家に周防と長門(山口県全域)を与えよう、としました。それはまずい、と吉川広家は必死に嘆願した結果、毛利家は周防・長門2カ国に縮小・減封され、吉川広家は岩国藩の藩主となることで落ち着くのですが、吉川家は江戸時代を通じて、毛利家から何かと恨まれることになりました。
さて岩国城ですが、平地に城を築くのが主流となる中で、吉川広家は横山と呼ばれる要害の地に築城することにします。1603年に工事がはじまり、1613年に完成。山頂には三層四階の立派な天守閣が完成しました。ところが、1615(元和元)年に幕府の一国一城令が出されると、幕府が「岩国藩」の城として、岩国城取り壊しを命じなかったにも関わらず、長州藩毛利家は、岩国藩はあくまで長州藩の一部であるとし、一国一城令によって取り壊せ、としました。こうして完成して早速、岩国城は破却され、山麓で岩国藩の政務が行われます。
それから時は流れ、1957(昭和32年)に岩国城の天守閣を復興することに。この時、錦帯橋との組み合わせを良くするために、本来あった場所よりも錦帯橋寄りに少しだけ移動し、そこに天守閣を造りました。復興された天守閣からは、岩国城下を一望でき、岩国の城下町の雰囲気を見ることが出来ます。たしかに錦帯橋との景観を考えれば現在の形態がベストではあるのですが・・・。なお、本来の天守台も現存しています。
岩国城復興天守閣
岩国城旧天守台
本来天守閣が建っていたのは、この場所。
天守閣からの眺め
岩国の旧城下町が一望できます。
○錦帯橋
錦帯橋
江戸時代初期、この錦帯橋のある錦川には、何度も橋が架けられましたが、流れが急なためよく流され、丈夫な橋を造ることが急務でした。
当時の藩主である吉川広嘉(ひろよし)は、自身が病弱だったため、医師で中国の明の出身である独立(どくりゅう)という人物に治療をしてもらっていたのですが、この独立医師が所持する「西湖遊覧誌」という明の書物を閲覧する機会を得ました。そして、その書物に出てくる橋を見た吉川広嘉は、「これを再現すればいい!」と考えつき、錦川に小島のような橋を置く台を造らせ、そこに石垣を置き、アーチ型の橋を架けさせました。当然、何度か失敗はしたのですが1673(延宝元)年に錦帯橋が完成しました。なんと言っても、釘を一本も使わずに木材の組合わせだけで見事に強度を高めた橋。現代の技術でも何ら改善の余地がないほど精巧な構造です。
錦帯橋
ちなみに元々は、このアーチ部分の1つ1つに「五龍橋」「城門橋」「龍運橋」などの名前があったのですが、安永年間(1772〜80年)頃、錦帯橋と総称されるようになりました(公式に称されたのは明治維新後)。こうして江戸、明治、大正、昭和の太平洋戦争と長い歴史を乗り越えてきたのですが、1950(昭和25)年9月14日の「キジヤ台風」と名前の付くほど強い台風によって錦川は大氾濫を起こし、戦争直後で手入れも行き届いてなかった錦帯橋は、無惨にも流されてしまいました。確実に国宝になったであろう錦帯橋は、こうして276年で姿を消し、多くの人々はこれにショックを覚えました。
それから1週間後に早速、市議会は再建を声明。1951(昭和26)年2月22日に起工式が行われ、1953(昭和28)年に完成しました。さらに2001(平成13)年〜2004(平成16)年にかけて、元々の錦帯橋の形に完全に復元すべく、架け替え工事が行われました。
○吉香公園エリア
香川家長屋門 【山口県有形文化財】
岩国藩五家老の1つ、香川家が1693(元禄6)年に建てたもの。岩国市の中でも最も古い建築物です。
目加田家住宅 【国指定重要文化財】
18世紀中頃に造られた武家屋敷で、平屋に見えますが一部が二階になっているのが特徴。岩国の武家屋敷は錦川の氾濫に備えて二階建てを採用していることが多いとか。
目加田家住宅 【国指定重要文化財】
こちらは内部の様子
錦雲閣 【岩国市登録有形文化財】
1885(明治18)年、岩国藩主だった吉川家の居館跡が公園として開放された際に、城の櫓に似せて造られた絵馬堂です。
岩国高校記念館 【岩国市有形文化財】
1916(大正5)年築。藩校「養老館」の流れをくむ、旧制岩国中学校の武道場として使われたもので、建築にあたっては岩国高等女学校の校舎の一部を再利用しています。
吉川史料館/昌明館付属屋長屋門 【岩国市有形文化財】
吉川史料館は岩国藩主吉川家に伝来した歴史資料や美術工芸品を収蔵している博物館。その正門は、1793(寛政5)年)に七代藩主吉川経倫の隠居所として建造された頃から残る長屋門です。
岩国徴古館 【岩国市有形文化財】
戦時中である1945(昭和20)年に建てられたもので、佐藤武夫の設計。吉川家ゆかりの文書、歴史資料、美術工芸品、流失した旧錦帯橋の一部ななどが展示されています。
○岩国学校
岩国学校
1870(明治3)年築。文明開化の影響で、洋風と和風の入り交じった擬洋風建築です。現在は岩国市立岩国学校資料館として使用され、江戸時代から今に至るまで、実に多くの教科書を所蔵しており、一般公開されています。この他、郷土の有名人を紹介するほか、元々職員室だった2階では、昔の様々な道具を展示してあります。 ちなみに、東芝の創始者の一人で「日本の電気の父」と云われる藤岡市助や文豪の国木田独歩、作家の宇野千代などが、ここで学んでいます。
岩国学校にて
戦後の黒塗りの教科書。案内してくれたお爺さんによると、墨で塗っていていると既存の価値観をぶち壊すみたいで楽しかったそうな。