高麗門(現・本行寺山門)
三の丸北方に置かれた寺町には、かつて高槻城で使われていた高麗門外築現存。また、この付近には古い街並みが残る。
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東大手門(大手御門)跡
高槻城の東大手門は最も重要な場所とされていた。
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野見神社唐門
野見神社は歴代の高槻城主に保護されてきたもので、境内に残る唐門は高槻城の遺構だとか。
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京と大坂(大阪)の中間に位置するという要所に建っていた高槻城。淀川と西国街道という水陸両方を擁していたことから、記録では10世紀末に近藤阿刀忠範が築城したのがスタートとされている。
そして南北朝時代には足利尊氏によって入江春則が入城し、12代続く。しかし、1569(永禄12)年に織田信長に敵対した入江春継が敗死し、代わって信長の武将である和田惟政が入城。このときに、天主(天守)が存在したとの記録も残っているようである。
しかし、和田惟政は1571(元亀2)年に敗死し、1573(天正元)年にはキリシタン大名として有名な、高山右近が入城し城下町を整備。築城の名手としても有名な彼は、高槻城を壮大な規模に仕上げたようである。
その後、大名が色々代わったが1649(慶安2)年には江戸幕府の譜代大名である永井直清が入城し、13代3万6000石で明治維新まで存続した。
なお、江戸時代の高槻城には、おそらく三重の天守閣を備え、また西国の城としては珍しく石垣は僅かで、土造の構造となっている。しかし、現在は一部の門が移築現存するほかは、遺構はあまり見られない。
(写真・本文:裏辺金好)
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