栃木県は国道293号線を喜連川町から小川町を横切り馬頭町へ走る途上の2/3地点、若鮎大橋にそろそろ差し掛かろうかというその手前、その看板は見えてくる。
『神田城』と記された交差点の看板だ。なるほどそのすぐ馬頭より方面には交差点名を冠した遊戯店舗が有る訳だが、無論、この店名から交差店名が冠された訳ではない。
交差店名の由来は店舗の道路を挟んだ向かい側に、ともすれば無視してしまいそうな程、ひっそりと佇んでいる。それが『那須神田城趾公園』である。
城趾とは言え、それは戦国末期や江戸自体に見られる城とは大きく異なる。中学校の歴史の教科書や資料集、古典の便覧に登場する『中世の武士の館』を思い出して頂ければ良いかと思う。
那須神田城は方形単郭式という典型的な形態を有し、一部は田畑に変わってしまったとは言え、表面的にもその面影を強く遺している数少ない遺構と言えるだろう。
この城の起源は『那須記』に見る事が出来るという。
それによると、那須氏の前身である須藤氏の須藤権守貞信(すどうごんのかみさだのぶ)が那須守護を賜り、那須城を神田城と改めた事に始まるという。
具体的な築城起源は定かではなく、那須記を紐解くにしても、天喜4(1056)年、長治2(1105)年、天治2(1125)年と諸説に別れているが、恐らくは地盤権力を強める過程で、改築を繰り返したのだと思われる。
そして、嘉応元(1169)年には、那須資隆の11男として、与一宗隆がこの城で生を受けたという。
夏の草木に覆われて、蜻蛉が舞飛ぶ幻想的な雰囲気と共に、中世の武士の館の遺構にして東国武士の拠点は、今もその面影を強く残したまま、ひっそりと佇んでいる。
(写真&本文:岳飛@美鈴ちん)