埼玉県蕨市は江戸時代には中山道の本陣宿場街として栄えた土地である。
現在でも国道17号線の東側を通る旧中山道を中心とした、その周辺には宿場町の面影を見る事が出来るだろう。
国道17号線を下りに走り、蕨市役所入り口交差点を右折すると、蕨市役所の庁舎が見えてくる。
市役所を少し進むと、凛とした空気を漂わせる林が見えてくる。和楽備神社の境内林だ。この和楽備神社こそが蕨城の跡地である。
蕨城は長禄年間(1457−1460)の頃に渋川義行により築城された、鎌倉様式の武士の居館(同心円的複郭平地方形館城型)である。平城であり、軍事要衝というよりは在郷行政府に近い。
そもそもこの城の建設原因は、扇ガ谷、山ノ内、両上杉家の対立を代表とする関東公方家と関東管領家地方豪族の内紛(長尾景春の乱
享徳の乱 等)に端を発する。内紛の沈静と関東行政府再構築の為に、足利義政は近親の渋川義行を下向させ、渋川家の本拠地にして、戦端点の中心に近い蕨の地に陣屋を構えた事がそもそもである。
渋川義行を下向させるに際して、足利義政は新たに関東探題という役職を創設し、派遣している。
関東管領職が上杉家の持職であった為の苦肉ではあるが、上杉を罷免してまで実行しない辺りに、室町幕府権威の失墜と実行支配力の低下が見て取れる。その様な情勢で、権威を以て平定に臨む渋川義行は災難であったろう。渋川義行を下向させる理由は彼が九州探題として都人からは一目置かれる存在であり、武蔵国司を勤め、彼の領地が元々、足立群蕨だったからである。この辺りの事情は『鎌倉大草紙』によくよく描かれている。
とは言え、渋川義行本人は直接下向せず、庶子の義鏡を鎮静大将として関東に赴かせた。従って、蕨城の本当の築城者は義鏡・義基の親子である。
しかし、関東情勢は渋川氏下向によっても埒が明かず、足利知正の下向で更に混乱を来たし、応仁の大乱勃発と相まって、関東は実質上の戦国時代に至る。そうした情勢の中で関東に下向した渋川氏は、台頭してきた北条氏との対立で敗れ、蕨城は北条氏との戦いで落城。その後、北条の支配下に入った渋川家は蕨城を根拠地として、北条の支配下に置かれるも、大永6(1526)年、上杉朝興軍により、再び落城。
渋川義基は扇ガ谷上杉家と北条の間を転々とし、結果的に国府台合戦(永禄10[1567]年)の折り、北条方の援軍として上総三舟山に出陣するも同地で戦死。渋川家は実質的な力を失い、渋川家の旧家臣の多くは武士を廃業し、蕨で帰農。塚越新田の開拓を実行する。そうした中で、蕨城は半ば自然消滅的に廃城となった。
後に家康の入封に伴い、鷹狩りの為の館として再造営され、蕨城跡に鷹場御殿が建設され、同地の旧地名の多くがこの当時の名残としている。
さて、蕨城の遺構は市街化も含めて殆ど残されてはいないが、城跡公園となっている土地の区割りはその当時の面影を生かして造園されている。土累の一部と僅かに残る水堀の存在が城であった記憶であろうか。
(写真・本文:岳飛@美鈴ちん)
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