山口県萩市〜城下町の古い町並み〜
萩市は、一時は中国地方全域を支配下に治めた毛利輝元が、関ヶ原の戦いの敗北によって防長2カ国に領地を削減されるに当たり、1604(慶長9)年に新たなる本拠地として萩城の築城と城下町を形成したことに始まります。幕末に山口に藩庁を移すまでの約260年にわたって毛利氏のお膝元として発展し、幕末の志士たちを多数輩出しました。
現在でも当時の建物が驚くほど残っており、維新志士ゆかりの場所をめぐれば幕末にタイムスリップ。今回紹介するのは、そのほんの一部であり、このほかにも山ほどの史跡や歴史的建造物、古い街並みがあります。
(→萩城と周辺の武家屋敷については、こちらで紹介)
(撮影:リン/解説:リン&裏辺金好)
江戸屋横丁
木戸孝允の旧宅や、青木周弼の旧宅が残る通りです。
木戸孝允旧宅
桂小五郎こと木戸孝允の生家だった場所で、彼は江戸に出るまで20年にわたり生活しました。桂小五郎は元々、藩医である和田昌景(わだしょうけい) の長男として生まれ、8歳のときに近くに住む藩士である桂家の養子になります。しかし、養父母は早くに亡くなり、この実家で成長しました。木戸孝允旧宅・外観
木戸孝允旧宅の庭
青木周弼旧宅
13代藩主・毛利敬親の侍医を務め、シーボルトに師事した日本屈指の蘭学医、青木周弼(しゅうすけ)が生まれ育った家。なお、弟の養子である青木周蔵は、明治時代に外務大臣として活躍しました。松下村塾/吉田神社など吉田松陰関連
松下村塾
御覧のとおり小さな松下村塾。幕末の思想家、吉田松陰が実家の杉家の敷地内に建ててもらったもので、野山獄に幽閉されるまで約1年ほど講義の場所として使いました。なお、吉田松陰は杉百合之助の次男として生まれ、叔父の吉田大助の養子となります。なかなか血気盛んな人物で、江戸で佐久間象山に師事して洋学などを学び、さらに浦賀に再来航していたペリーの艦隊に乗り込んでアメリカに行こうと計画。しかし、拒絶されて送還され、吉田松陰は自首して萩藩の野山獄に送られ、しばらくしてから実家の杉家に幽閉されることになりました。
そこで、叔父の玉木文之進が開いて自らも学んだ松下村塾の名を引き継ぎ、ここに開塾して多くの弟子を輩出しますが、今度は日米修好通商条約の締結に怒り、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画。弟子たちが同調せず、吉田松陰は自首したところ再び投獄され、大老の井伊直弼によって江戸で死罪に処せられました。
松下村塾室内
松下村塾講義室
講義室は8畳ほどの小さなもの。しかし、幕末維新を支えた多数の人物を輩出しました。
吉田松陰幽囚旧宅
吉田松陰の実家である杉家の住宅。
松陰神社
明治になって、松下村塾や吉田松陰幽囚旧宅がある場所には神社が建立され、松陰神社として親しまれています。
吉田松陰の弟子、吉田稔麿(としまろ)誕生地碑。松陰神社駐車場から伊藤博文旧宅に向かう道端にあります。
伊藤博文旧宅・伊藤博文別宅
元々は萩藩の中間である伊藤直右衛門の居宅。伊藤博文の父、林十蔵が伊藤家の養子になったため、伊藤博文もここへ引越し。博文は1868(明治元)年に兵庫県知事に赴任するまで約14年間、ここを生活の根拠地としました。伊藤博文旧宅・室内(土間)
伊藤博文別邸
1907(明治40)年築。伊藤博文が東京府下荏原郡大井村(現、東京都品川区)に建て別邸の一部を、伊藤博文旧宅付近に移築保存したものです。
高杉晋作誕生地
高杉晋作誕生地は、現在も個人の住宅として使用され、冬期は閉館していました。
菊屋家住宅
菊屋家住宅 【国重要文化財】
主屋は度重なる改修を受けていますが、17世紀中頃の建築で、全国でも最古に属する大型の町家。菊屋は萩藩御用の豪商で、その屋敷は現在でも広大な規模を誇っています。 →詳しくは、こちらで紹介
現在も残る蔵の数々は江戸後期の建築。その規模には圧倒されるばかりです。
その菊屋にちなんで、この通りは菊屋横丁と呼ばれています。日本の道100選にも選定。
萩駅など
萩駅駅舎 【国登録有形文化財】
1925(大正14)年築。萩市の中心駅は東萩駅ですが、駅舎としては洋風駅舎を持つ萩駅が観光の見所。
こちらは東萩駅前にある、萩城天守の1/6模型
ところで、萩の観光には萩循環まぁーるバスが非常に便利です。