えさし藤原の郷〜岩手県奥州市〜


 えさし藤原の郷は、奥州藤原氏第3代、藤原秀衡が過ごした豊田館(とよだのたち)近くに、平成5年の大河ドラマ「炎立つ」ロケのために建設された歴史公園。20ヘクタールの広大な敷地に国内唯一の「寝殿造」をはじめ平安時代の建築物を大小合わせて117棟が再現されており、まさに壮観。歴代の大河ドラマシリーズ、「陰陽師」などその後も多くのロケに使用されています。
 (撮影:裏辺金好)

○地図



〇はじめに

 ちょっと本題に入る前に、「えさし藤原の郷」とNHK大河ドラマ「炎立つ」のメインテーマだった、奥州藤原氏とはなんぞや?というお話です。もの凄く簡略化してお話しします。

 奥州藤原氏は、京都の藤原氏の流れをくむ一派で、平将門討伐に功のあった藤原秀郷を祖とすると考えられています。

 この地域との縁は、同地方を支配していた安倍頼良貞任と、源頼義との戦いである前九年の役に於いて、藤原の藤原経清(つねきよ)が安倍氏に味方したことに始まります。彼は安倍頼良の娘婿となり、激しく源頼義と戦いますが、最終的に敗北し処刑されます。

 しかし、彼の妻は息子である藤原清衡を連れて、安倍氏に代わって台頭した豪族、清原武貞と再婚し、息子を清原一族に入れることに成功します。そして、後三年の役と呼ばれる清原氏の内紛を、源義家の助力で制した清衡は姓を藤原氏に戻し、中尊寺金色堂で有名な平泉を拠点に、源頼朝に滅ぼされるまで、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡と、100年にわたって絶大なる黄金を中心とした文化を繁栄させました。もしかすると、この時代の日本で一番繁栄していたのは、東北だったかもしれませんね。


 現在は奥州市の一部となった江刺は、奥州藤原氏初代の藤原清衡と、その父の経清が住んだ場所で、えさし藤原の郷の近くに「豊田館(左上写真)」「館山(たてやま)史跡公園(岩谷堂城)」があります。館山史跡公園は豊田館の一部、あるいは砦跡と云われ、その後は鎌倉時代に千葉胤道が築城(諸説あり)。戦国時代にかけては江刺氏が領有し、江戸時代は伊達氏の一門の岩城氏が城主を務めました。
 

政庁・街並みエリア

 それでは、えさし藤原の郷を見ていきましょう。
 入り口を入ってすぐ目の前に広がるのが、「政庁」と呼ばれるゾーンです。ここでは、平安時代、各地方で朝廷が政治を行った、今で言えば県庁のような機関である「政庁」を再現しています。特定のモデルがあるわけではないみたいですが、東北の中心だった多賀城を、だいたいのイメージとしているようです。なかなか面白いのは、古い時代のものと新しい時代(平泉藤原時代)のものとの2つの様式で、裏表で再現しているところです。そして、その隣に街並みを再現したゾーンがあります。では、見ていきましょう。

 
古い時代の政庁 【政庁正門&衛舎】
 8・9世紀ごろのまだ東北地方の全土が掌握されていない古い時代を想定。写真はその政庁の正門と門番が詰めていた衛舎(衛舎)。


古い時代の政庁 【正殿&脇殿】  
8・9世紀ごろのまだ東北地方の全土が掌握されていない古い時代を想定。写真は朱塗で桧皮葺の正殿を囲んで板葺(いたぶき)の脇殿。


新しい時代の政庁 【正殿&脇殿】
時代が降り、10世紀・11世紀の奥州藤原氏の時代になると、このような立派な建物へ変貌していくという例です。特に、瓦葺・檜皮葺になったのがい大きな特徴。正殿は、国司が執務や会議を行う場所です。脇殿には、国府の実務をつかさどる役所として税所、田所、調所、細工所、大帳所などが設置され、主に書類を保管しました。

新しい時代の政庁 【正殿内部】
何のシーンを再現したところか、ちょっと忘れましたが記憶が正しければ、前九年の役で安倍軍と戦った源頼義がデーンと構えているシーンだったはず。この新しい政庁は、東北の中心で蝦夷討伐の拠点であった多賀城政庁を強く意識しているようです。


政庁前
立派な新しい時代の政庁の門を出ると、まさに平安時代のような雰囲気を見せてくれます。時代劇のロケでは、よく使われる場所のようです。

街並み
政庁横に再現された平安時代の商店や民家。11棟配置されています。

藤原経清時代(経清館・豊田館)

 江刺にあった、初代清衡の父・藤原経清が住んだ豊田館(とよだのたち)をイメージして、東北の小規模な武士の館を再現しようとしたものです。実際の豊田館の遺構は解っていないので、同時代の様々な建物を書いた資料をもとに再現。館の周囲には土塁(どるい)と木柵を巡らし、入口には櫓門(やぐらもん)を設け、板で囲んだ櫓門の上には敵の来襲に備えて矢などを貯えておいた矢倉を設置しているのが特徴です。
 

穀倉群・倉庫 
 藤原経清の豊田館前に再現。

工房


櫓門
 豊田館の入り口。

寝殿
主人の居所であり、また客人の饗応(きょうおう)の場としても使用された場所。寝殿の左には西対(にしのたい)、後ろには奥殿があります。これらは家族の生活空間の場や、家来の待機場所であったとも考えられています。

寝殿内部

奥殿

この時代の建物の特徴として、それぞれの建物が独立していることが挙げられます。そして時代が降ると、全ての建物を廊下で結ぶようになるのです。

〇藤原清衡時代(清衡館・豊田館)

 藤原経清の息子、奥州藤原氏初代・清衡が、後三年の役で異父弟である清原家衡の攻撃を受けて、妻子共々焼失させられた、豊田館を再建したものです。清衡は、平泉に移り住むまで、このような住居で過ごしたと考えられています。南向きの寝殿(主屋)を中心に、東・西・北の3棟の対屋(副屋)を廊下で結ぶ構成になっています。


西対(左)・寝殿(右)

寝殿内部

東対

馬屋
馬を飼育している場所です。

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