大日本史年表(平安時代)

794年   平安京に遷都。
797年   勘解由使を設置。 官人の職務交替の円滑化のために、交替完了を証明する解由(げゆ)状を審査する。
        坂上田村麻呂が征夷大将軍になる。
802年   田村麻呂、東北に胆沢城を築く。蝦夷の平定。城と言いますが、まあ砦のようなものです。
804年   空海、最澄、橘逸勢らが入唐。
805年   最澄が( 天台 )宗を開く。
806年   空海が( 真言 )宗を開く。
809年   嵯峨天皇即位。
810年   蔵人所設置(つまり、令外の官)。蔵人頭に藤原冬嗣ら任命。
       ( 薬子 )の変。平城上皇が藤原仲成・薬子兄妹にそそのかれ、復権をねらい敗北。この時、坂上田村麻呂がまた活躍。警察官・裁判官とも言える、検非違使設置。


812年   この頃、空海が最澄に宛てた尺牘3通( 風信帖 )が記される。
814年   小野岑守らが日本初の勅撰漢詩集( 凌雲集 )を編纂する。
818年   藤原冬嗣ら ( 文華秀麗集 )撰上。
819年   空海、高野山に( 金剛峰寺 )建立。
820年   藤原冬嗣ら( 弘仁 )格式を撰上、施行。
823年   ( 大宰府 )で公営田制実施。
        空海に東寺、別名( 教王護国 )寺が与えられる。
828年   空海、庶民のための学校( 綜芸種智院 )を設立。
833年   清原夏野ら( 令義解 )を撰上、施行。
840年   歓心寺如意輪観音像
842年   ( 承和 )の変。藤原( 良房 )が、伴健岑・橘逸勢らを謀反の嫌疑で流罪にする。
857年   藤原良房が太政大臣になる。(非皇族で初の太政大臣)
858年   清和天皇、9歳で即位。
856年   藤原良房、摂政に。(非皇族で初の摂政)
861年   神護寺両界曼陀羅ができる。
866年    ( 応天門 )の変。( 応天 )門放火容疑で伴義男らが流罪に。
869年   藤原氏宗ら( 貞観 )格を撰上。871年に施行。
887年   宇多天皇即位。
       ( 阿衡 )の紛議。( 阿衡 )という官位を与えられた藤原基経がすねる。名誉職という意味合いだったらしい。
894年   ( 菅原道真 )の建議で遣唐使を廃止。唐が滅亡に向けて大混乱状態だったのと、道真が行きたくなかったという説も。
897年   ( 醍醐 )天皇即位。
901年   ( 昌泰 )の変。右大臣菅原道真が大宰権帥に左遷。また、この後に元号を延喜に改元する。(→延喜の治)
902年   延喜の荘園整理令でる。
907年   藤原時平ら延喜格撰上。翌年施行。
914年   三善清行による( 意見封事12箇条 )が提出される。
927年   藤原忠平ら延喜式撰上。967年に施行。40年も何やっとるンじゃい!
935年   ( 承平 )・( 天慶 )の乱。すなわち、関東で( 平将門 )が、939年には瀬戸内で( 藤原純友 )が反乱する。940年に 将門は戦死、941年に純友は死亡し終結。
       ( 紀貫之 )による土佐日記が書かれる。
946年   村上天皇即位。彼の改革を( 天暦 )の治という。
958年   皇朝十二銭の最後、( 乾元大宝 )を鋳造。
966年   伊勢物語、蜻蛉日記(作者:藤原道綱母)など成立。寝殿造がブームに。
969年   ( 安和 )の変。左大臣源高明が源満仲により大宰権帥に左遷させられる。これにより、藤原氏は邪魔者がいなくなり全盛期ハッピータ イムを迎える。おめでとう。
988年   尾張の郡司・百姓達が国司・( 藤原元命 )を訴える。
995年   藤原道長が政治の主役になる。翌年ライバルの藤原伊周・隆家(道長の甥たち)は大宰権帥に左遷させられる。
1000年  中宮定子が皇后に、女御彰子(道長の娘)が中宮になる。
1017年  道長の子、( 藤原頼通 )が摂政になる。道長は太政大臣に。
1019年  ( 刀伊 )の入寇。女真族(後に金や清を建国した民族)が九州北部に攻め込んでくる。 大宰権帥・藤原隆家らがこれを撃退するが、朝廷は知らんぷり。隆家は、前述のように道長に左遷された人。左遷先で頑張ったなあ。
        頼通、関白になる。
1028年  関東で( 平忠常 )の乱が起きる。源頼信がこれを降伏させる。
1051年  東北で安倍頼時が反乱、すなわち( 前九年 )の役が起きる。源頼義・義家親子がなんとか鎮圧。
1053年  平等院鳳凰堂できる。
1068年  藤原氏と直接は外戚関係のない( 後三条 )天皇即位。
1069年  ( 延久 )の荘園整理令。それにともない( 記録荘園券契所 )を設置。
1083年  東北で清原氏が内紛。( 後三年 )の役が起きる。源義家が介入し、
       清原清衡が勝利を収める。ただし、義家はただ働きに終わる。


 コラム:前九年の役と後三年の役
 
 1.前九年の役勃発
 当時の東北、奥州は豪族頼時が事実上支配していた。そこに陸奥国司として赴任してきたのが源頼義であった。そして源頼義はこの状況が気にくわなかった。そのためなんとか安倍頼時を罪に陥れようと難癖を付けたのであった。で、追いつめられた頼時は反乱をしたのであった。
 
 この時、藤原経清(つねきよ)という名族藤原氏の流れを汲む武士は、頼義の部下であったが同時に頼時の娘婿でもあった。彼は悩んだ末、妻の側につき頼時、そして彼の死後は息子の貞任とともに頼義を苦しめるのである。
 
2.頼義の戦い
 頼義は安倍氏の軍勢を軽く見ていた。だが、慣れぬ気候、そして安倍軍の鉄の結束に頼義は連戦連敗。息子、義家とともに捕虜になるという屈辱すら味わった。だが、彼の執念は凄かった。9年という長い時間をかけ、最終的に豪族清原氏(清少納言と同族といわれるが不明)の支援を得たことで、ついに安倍氏を滅ぼすのである。この時、藤原経清は錆びた刀で頼義に斬首された。
 
 3.後三年の役の背景
 この後、経清の妻は子の清衡(この時はまだ幼名)をつれて、敵の清原武則に再婚する。ここで彼と1子・家衡をもうける。ただし、武則には他の妻との息子で嫡男の真衡がすでにいた。そして、この3人が家督を巡り争うのである。
 
 4.義家の野望
 ここに義家が登場する。彼は久しぶりに奥州に赴任するにあたり、源氏の勢力の拡大をねらっていた。そこでこの争いに横やりを入れ始める。
 
 そんな中で真衡は死亡し、清衡と家衡の対決へとなり、ここで義家は本来清原氏でない、清衡を支援した方が、清原家の勢力が弱まり得策と判断した。そして彼は清衡と共に家衡を倒す。だが、義家の思惑ははずれた。白河天皇により義家は恩賞をもらえず、新たな荘園の寄進も停止され奥州に何の勢力もはれず終わったのだった。振り返ってみれば清衡の1人勝ちだった。なお、義家はこの後弟の義綱と争い、白河上皇の思惑もあり、勢力が衰退する。

1086年  ( 白河 )天皇が譲位し、院政を始める。 
1095年  初めて宮中を警備する武士、( 北面の武士 )をおく。
1105年  藤原清衡、( 中尊 )寺を建立。
1129年  ( 鳥羽 )上皇が院政を始める。
1156年  ( 保元 )の乱。後白河天皇と崇徳上皇が藤原氏・平氏・源氏を巻き込み戦争。崇徳上皇が敗北。
1159年  ( 平治 )の乱。源義朝・藤原信頼と平清盛・藤原通憲(信西)が戦争。序盤は義朝軍が信西を斬首するなど元気だったが、清盛に逆転満塁ホームランを打たれ2人とも殺される。義朝の子、源頼朝は伊豆に流罪。 
1164年  このころ・・・富貴寺大堂、伴大納言絵巻、扇面古写経ができる。
1167年  平清盛が武士で初の太政大臣となる。しかし、武士といっても元々桓武天皇の子孫だから、ねぇ・・・。
1168年  清盛、宋との貿易に向け港である( 大輪田泊 )を築造。
1179年  後白河法皇が( 梁塵秘抄 )を著す。
1180年  ( 以仁王 )の令旨。全国の源氏に決起を促す。彼自身は源頼政と挙兵し、宇治で敗死。
        源頼朝が北条氏の援助で伊豆で、義仲が木曽で挙兵。
        頼朝、武士を管理する( 侍所 )を設け( 和田義盛 )を別当に。
1181年  重源が東大寺再建にむけ活動開始。
1184年  義仲が、頼朝の弟、源義経・範頼兄弟に討たれる。
       頼朝、大江広元を別当とする( 公文所 )と、三善康信を別当とする( 問注所 )をつくる。 公文所は政務関係、問注所は裁判関係。
1185年  ( 壇ノ浦 )の戦い。平氏滅亡。( 安徳 )天皇は8歳で入水して溺死。   
        頼朝、関東御分国、平氏没官領、関東御領得る。
1189年  義経、頼朝に追われ奥州藤原氏を頼るが、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に殺される。
        頼朝、藤原泰衡を滅ぼし、奥州藤原氏滅亡。
1191年  公問所が( 政所 )と改称。



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