大日本史年表(戦国・安土桃山時代)

1493年  伊勢長氏(北条早雲)の台頭。下克上の風潮。 ちなみに、北条という姓を名乗ったのは2代目の氏綱から。当然、昔の北条氏を意識して改姓したものです。

1510年  朝鮮の日本人による( 三浦<さんぽ> )の乱が朝鮮で起こるが鎮圧される。三浦とは、日本人のために設けられた(言い換えれば居住・貿易を制限された)朝鮮の3つの港のことで、代表に富山(今の釜山)がある。

 何で反乱が起こったかというと、密貿易の増加などもあって朝鮮側が統制を強化したことに反発したため。

1523年  寧波の乱。日明貿易の主導権を巡り、( 大内 )氏と( 細川 )氏が寧波で争う。結果、( 大内 )氏の勝利に終わる。
1536年  ( 天文法華 )の乱。法華宗徒が延暦寺宗徒と争う。
1541年頃  中国地方で、毛利元就が戦国大名として台頭をはじめる。ちなみに毛利家は鎌倉幕府政所別当、大江広元の子孫である。ちなみにその血は天皇家につながる。ちなみに毛利家の家臣に熊谷氏がいるが、これは平家物語の敦盛の最後でおなじみ、熊谷次郎直実の子孫である。と、まあ こんな感じで登場人物は鎌倉時代から変わってないのである。

同年    甲斐(山梨県)で、武田晴信(信玄)が父・信虎を追放し武田家を相続。
       ちなみに武田氏も鎌倉時代からの名族・甲斐源氏。

1543年  ポルトガル人が種子島に漂着。( 鉄砲 )を伝える。
1551年  この頃から倭寇が再び活発化。いわゆる後期倭寇である。が、これは中国人が主流。ゆめゆめ、お間違えでないように。
1553年  川中島の戦い第1回。武田信玄VS長尾景虎(後に関東管領の職と上杉の姓をもらい上杉謙信と呼ばれる)。ちなみに上杉氏は元々藤原氏の流れをくみ、また、長尾家はその家臣。
1555年  ( 厳島 )の戦い。毛利元就が、大内家の重臣陶晴賢を破る。大内家はこの後すぐ滅亡。毛利家の中国地方制覇に王手。
1560年  ( 桶狭間 )の戦い。織田信長が今川義元の大軍を破る。その後、美濃の齋藤氏を破り勢力拡大。
1568年  織田信長、入京。( 足利義昭 )を将軍職に就ける。
1573年  織田信長が、足利義昭を「将軍は自分の言うことを聞かずうるさいやつだ」、との理由で追放。室町幕府が滅亡する。真意は朝廷の方が利用価値があり、害がない、ならば義昭はいらないとの判断らしい。
 

1575年  ( 長篠 )の戦い。織田・徳川連合軍が武田勝頼率いる騎馬隊を鉄砲でさんざんにうち破る。
1576年  信長、琵琶湖のほとりに安土城を築く。
1582年  天目山の戦い。武田勝頼が自害し、信長により武田氏が滅亡。ただし、武田氏そのものは現在に至るまでしっかり続いています。
( 本能寺 )の変。信長が重臣の明智光秀に謀殺される。
      ●では、なぜ信長は殺されたのでしょうか?
        1.光秀が、信長のイジメに耐えかねて殺した。 
        2.光秀が、天下をほしがった。
        3.光秀が働きすぎで気が狂った。
        4.信長の新しい考え方についていけず、彼を危険分子とみて殺害。
        5.彼の旧主・足利義昭または朝廷の一部勢力の要請で信長を殺した。
          さあ、どれでしょう?それともこれ以外でしょうか?真意は光秀のみぞ知る・・。
        ( 山崎 )の戦い。羽柴秀吉が光秀を破り、光秀は敗走中に殺される。
1583年  秀吉、織田家筆頭家老、柴田勝家を破り、事実上織田家をしのぐ。
        大坂城築城開始。大阪ではありません。大坂です。坂の字に注意。
        なお、豊臣時代を意識して作られた現在の天守閣ですが、本来、豊臣時代の天守閣は壁が「黒」でした。
        色の雰囲気的には、松本城に近いですね。
1584年  (小牧・長久手)の戦い。家康・織田信雄(信長の子・のちの天童藩初代藩主)と秀吉が闘う。
        家康方が戦では勝利するが信雄が秀吉をおそれて講和。家康も渋々それに従う。
1586年  秀吉、太政大臣になり豊臣の姓を賜る。 
1587年  鹿児島の島津氏、秀吉に服属。九州平定。
1590年  秀吉、北条氏を滅ぼす。ちなみに鎌倉時代の北条とは関係なし。それにあやかって姓をつけただけです。
        伊達政宗ら、東北の戦国大名たちも秀吉に服属し、秀吉は奥州を平定して天下統一。
1592年  ( 文禄 )の役。秀吉、朝鮮侵略を開始する。


コラム:なぜ無謀な朝鮮侵略をしたか
 
 理由・・・諸説あり、これも1つの説ではあるが、どうもこれは秀吉の恐怖心からきた行為だったらしい。秀吉には譜代の家臣がいないうえ、そして彼の出自が農民であることもあり、秀吉の天下を苦々しく思っている者も多い豊臣家内に多かったのである。そこで、恩賞を与えつづけなけば豊臣家は安泰できなかったらしい。

 しかし、豊臣家に絶対的な忠誠を誓う者は少なく、いつ自分に取って代わる者がでるかと思うと不安で仕方なかっただろう。特に、それまで豊臣家の統率を担当していた、弟の秀長死後は一層不安が大きくなっていたものと思われる。狂気ともいえる朝鮮侵略の背景は、ある意味で秀吉にとって悲しいものであった 。

 そして死の間際、息子秀頼のことを頼むと泣きながら懇願する秀吉の姿を、家康はどう見たであろうか。そして、秀吉に絶対的な忠誠を誓っていた石田三成によって、豊臣家が崩壊してしまったことは何とも皮肉なことである。

1596年  ( サン・フェリペ号 )事件。スペイン船が土佐に漂着。
1597年  ( 慶長 )の役。秀吉、またも朝鮮に出兵。
1600年  オランダ船( リーフデ )号、豊後に漂着。ここで家康と仲良くなったのが( ウイリアム・アダムス )<日本名三浦按針>である。
        (関ヶ原)の戦い。徳川家康率いる東軍が、石田三成が実質的な指揮を執った西軍を何とか破る。
        実は結構際どい東軍の勝利で、小早川秀秋の裏切りが勝因だったが、さすがに東軍諸将も後味
        悪かったようだ。ちなみに、西軍の名目上の総大将は毛利輝元(元就の孫)である。
 


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