52回 クリミア戦争とセポイの反乱

○今回の年表

1825年 ジャワ戦争。オランダに対する反乱が起こる。
1834年 第1次アフガン戦争
1853年 (日本) アメリカの使節としてペリーが浦賀に来航。
1853年 ロシアVSトルコの、クリミア戦争が勃発。翌年、フランス・イギリスがロシアに宣戦布告。
1857年 大英帝国統治下のインドでセポイの反乱が起こる。
1859年 (エジプト) スエズ運河が建設開始。
1861年 プロイセンでヴィルヘルム1世が即位。
サルディーニャ王国がイタリア半島を統一し、イタリア王国が成立。
1863年 ロンドンで世界最初の地下鉄が誕生。
1863年 フランスがカンボジアを保護国化。
1866年 ノーベルがダイナマイトを発明
1868年 (日本) 明治維新。江戸幕府が崩壊し、明治政府による国家運営が始まる。
1870年 ナポレオン3世、プロイセンとの戦争に敗北し降伏。フランスは共和制へ。
1871年 プロイセン王ヴィルヘルム1世、ドイツ皇帝として戴冠。ドイツ帝国が成立。
1877年 ヴィクトリア女王、インドで女帝宣言。
1894年 朝鮮で東学党の乱。さらに日清戦争が勃発し、日本が勝利。
1900年 清で外国人排斥を訴えた義和団の乱が発生し、列強各国が鎮圧。
1901年 ヴィクトリア女王没。

○ロシアの南下を阻止せよ!

 今回はこの時代に各地でヨーロッパ列強が覇権をかけた戦いを見ていきます。
 まずは、クリミア戦争から見ていきましょう。

 そもそも東ヨーロッパでは地中海への進出を目指すロシア帝国と、かつてはウィーンまで包囲したこともあるほどの勢いのあった、逆にいえばこの当時、弱体化の進んでいるオスマン帝国が争っていました。特に1828〜29年にロシア・トルコ戦争が勃発すると、ロシアはこれに勝利。勢いを駆って1833年には、ロシアがオスマン=トルコ帝国を保護国化しようとしますが、当然、ロシアが強大になるのはイギリスやフランスも黙ってみているわけにはいきません。さらに、オーストリアも「まった」をかけました。

 そこで1841年、ヨーロッパ列強各国とオスマン=トルコ帝国はロンドン海峡協定をむすび、オスマン=トルコ帝国はヨーロッパ全体の保護国となったのです。これでオスマン=トルコ帝国はヨーロッパの支配下に入ったとは言え、強力な後ろ盾を得たとも言えます。しか〜し、ロシアが面白いはずがありません。ロシア皇帝ニコライ1世(1796〜位1825〜55年)は戦争の口実を虎視眈々と狙っていました。そして、それは見つかったのです。

 一体何だったのでしょうか。
 それは、今でも何かと問題となるパレスティナをめぐる話でした。当時、その地域はオスマン=トルコ帝国の領土だったのですが、聖地の管理をめぐってカトリックとギリシャ正教が対立していたのです。どちらも元々は同じキリスト教系ですから「聖地を保護するのは我々だ!」となったんですね。自分の領土で起こった問題ですから、オスマン=トルコ帝国は事態の収拾に乗り出すのですが、前述のように特に(カトリック国である)フランスの影響化に入っていましたので、カトリックに有利な決定をしたのです。

 ところが、ギリシャ正教と言えばロシア正教もその一派。そしてその上には、当然のことながら背後にはロシア帝国がいます。ニコライ1世は「これは放っておけない問題ですなあ、オスマン帝国殿!」と圧力をかけ、オスマン=トルコ帝国領だった、ルーマニア地域周辺のモルダビア公国ワラキア公国を占領。

 これに対しオスマン=トルコ帝国側、イギリスとフランスの支援を得て1853年10月、ロシアに宣戦布告しました。
 クリミア戦争のスタートです。そして、翌年にはイギリスとフランスが正式にロシアに対して宣戦布告しました。

○クリミア戦争とナイチンゲール

 さて、緒戦ではロシア側が黒海のオスマン=トルコ海軍を撃破するなど優勢でしたが、イギリスとフランス、さらにはイタリア西部のサルディーニャ王国まで戦いを挑んでくるのですから厳しくなります。そして1854年9月、戦いの名称由来となったクリミアのセバストポリ要塞に対し、イギリス・フランス・サルディーニャ連合軍が攻撃を仕掛けます。

 この要塞、ウクライナ南部、クリミア半島南西岸にある都市にあり、1783年にロシアの支配下にはいるとロシア黒海艦隊の本拠地となっていた場所なんです。そのため、戦略的に非常に重要な拠点。なんとしても連合軍としては陥落させたい場所です。しかし、ロシアも連合軍も多くの兵士の命を落とすだけでなかなか決着がつかない。約1年経った1855年9月、ようやく陥落すると、ロシアは講和することを決定。

 翌年3月のパリ条約で、それまで占領した地域の大半をオスマン=トルコ帝国へ返還し、モルダビア、ワラキア、セルビアは、ヨーロッパ全体の管理下へ、さらにロシアは黒海に海軍を持ってはいけない、というロシアにとって非常に屈辱的な内容になりました。しかし、連合軍全体で7万人の死者に対し、ロシア単体で13万人の死者を出したのですから、やむを得ないといったところでしょうか。それにしても、随分と多くの人が亡くなったものです。

 さて、ここで活躍したことで有名なのがイギリスのフローレンス・ナイチンゲール(1820〜1910年)です。
 看護婦(看護師)としてその名を残した彼女は、実はイタリア・フィレンツェ生まれのイギリス育ち。裕福な家庭に育ちましたが、親の期待とは裏腹に社会問題、とりわけ病院の問題に関心を持ち、結婚を拒否してヨーロッパ各地の病院を研究し、学びます。

 ・・・と、ここまでで既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、彼女は看護婦というよりも病院というもののシステムを研究し、改善を目指す人間だったんですね。ですから、彼女自身が生涯、看護婦として献身的な介護を・・・とすると、それは彼女の功績を誤って評価してしまうことになります。

 そしてクリミア戦争が勃発すると奉仕活動に志願し、現在のイスタンブールにあった野戦病院に赴きます。
 そこで彼女が目にしたのは、劣悪な衛生環境でした。つまり、当時の兵士はイギリスの中で身分の低い人間が多く、戦いにさえ勝ってくれれば、治療なんて二の次、という状況だったのです。そこでイギリスの中でも身分が上だった彼女は、自らの地位を利用して陸軍大臣と協力し、衛生状態の改善と効率の良い医療品の輸送体制の確立に尽力。こうして、彼女と、彼女が指揮した38人の看護婦のおかげで多くの兵士の命が救われることになります。

 戦争が終結すると、それまで召使いのような扱いだった看護婦に専門的な教育を施し、医療スタッフとしての地位向上を図るべく、ロンドンでナイチンゲール看護学校を設立。自らも世界初の看護婦の教科書を執筆するなど精力的に活動し、数々の勲章をもらい、ロンドンで死去しました。1820年に生まれて1910年に亡くなったのですから、随分と長生き(笑)。

 余談ですが、スイス人のデュナン(1828〜1910年)の尽力によって1863年10月からは赤十字国際委員会と各国1社の赤十字社の設立が決定され、今に至るまで中立的で国際的な人道活動が続けられています。戦争の規模が従来よりも拡大し、深刻さが増す中で医療が改善していくというのは喜ばしいのか、悲しいことなのか。

○些細なことが大きな・・・セポイの反乱

 クリミア戦争が終結して間もなくの1857年5月10日。
 イギリスの支配下にあった北インドの軍事基地でシパーヒーセポイ)達が反乱を起こしました。シパーヒーというのは、当時インドを統治するイギリスの機関であったイギリス東インド会社が雇っていた傭兵。イスラム教徒とヒンドゥー教徒が中心ですから、現地人が中心です。

 そして反乱を起こした直接的な理由ですが、東インド会社軍が採用した新しいエンフィールド銃の弾薬を包む袋に、ヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂、さらにイスラム教徒が不浄なものとみなす豚の脂が塗ってあるという噂が発端でした。これが事実なら、両教徒にとって弾を取り出す時に宗教的な禁忌(タブー)を侵すことになります。

 さらに彼らの中にはイギリスによるインド支配への不満、イギリスによるシパーヒーの海外派兵検討への反対、産業革命に伴う生産力の増大でイギリスが強制的にインドに対し綿製品を売りつけ、本来インドの特産であった綿産業を壊滅させたことへの反発、イギリスのインド文化への無理解への不満がたまっていました。こうして、とうとう我慢の限界に来た彼らは反乱を起こしたのです。

 そして名目的な存在になっていたムガル帝国皇帝バハードゥル=シャー2世を担ぎ出し、イギリスに反対する様々な人々と共にインド全土でイギリスと戦いました。しかし農民からの支持があまり得られなかったこと、これといった指揮系統が確立していないこともあり反撃に転じたイギリス軍に次々と撃破されていき、1859年頃までに全て鎮圧されてしまいました。

 そして戦後処理ですが、反乱が収束しかけた1858年に東インド会社は政治機能をイギリス本国に奪われ、以後、イギリス政府が本格的にインド併合へ動き出します。そして、反乱の中心となったバハードゥル=シャー2世は流刑に処され、これによってムガル帝国は名実共に滅びました。

○その他・ヨーロッパVSアジア

 アジアにおける、ヨーロッパ列強とアジアの動きもこの際ですから見ていきましょう。
 ▼パトリ戦争
 オランダVS(インドネシア地域の)スマトラ・ミナンカバブ地域のパトリ派イスラム教徒の戦い。
 断続的な戦いの繰り返しの末、オランダ側が勝利し、これ以後次第にスマトラ島を征服していきます。

 ▼ジャワ戦争
 1825〜30年、オランダの植民地だったジャワ島で、現地の王族ディポネゴロ(1785〜1855年)にひきいられた幅広い層の人々がおこした対オランダの反乱。王位が親オランダのディポネゴロの弟、さらにその息子が継いだことと、税金の厳しさ、現地の貴族がオランダに迫害されたことから幅広い層でオランダに対する反乱が発生。直接的な原因は、ディポネゴロの所領にオランダが無断で道路を造ったことにあるとか。

 ディポネゴロは、農民から預言書にある正義王(ラトゥ・アディル)で、魔力をもつ剣で彼らをたすける解放者とみなされたことで強力なバックアップを得ることが出来ました。しかしオランダのコック将軍は要塞を造り防戦に努め、ディポネゴロ軍を食糧不足にさせました。結局、ディポネゴロは降伏し流刑となり、反乱は終結しました。ですが、オランダは莫大な戦費を投じねばならず財政赤字を招きました。

 ▼イギリス−ビルマ戦争
 1824年、52年、85年の3回にわたってイギリスがしかけたビルマ侵略戦争で、コンバウン朝ビルマ(1752〜1885年)を倒してビルマ(現ミャンマー)全土をイギリス領としました。最後は、コンバウン朝側がフランスと手を結ぼうとしたことでイギリスが先手を打った、という感じのようです。

 ▼アフガン戦争
 第1次アフガン戦争(1838〜42年)、第2次アフガン戦争(1878〜79年)、第3次アフガン戦争(1919年)の3回に分けて行われます。第1次の場合、ロシアと手を結びイギリスと対抗しようとしたアフガニスタン国王ドースト・ムハンマドに対してイギリスが戦いを仕掛けたもので、ムハンマドは一時は敗北しますが、その息子のアクバル・カーンがイギリスを撃ち破り、和平を結びました。

 第2次は、やはりムハンマドの3男シェール・アリが親ロシア政策をとったために、イギリスが攻め込みます。首都カブールが陥落し、1880年にムハンマドの孫のアブドゥル・ラフマーンが王位を継ぐと、一部のアフガニスタンの領土をイギリスに割譲し、さらにアフガニスタンの外交権もイギリスに譲ることで和平。ただしイギリスもゲリラ戦に戦費を増大させ、当時のディズレーリ内閣は予想外の財政的打撃を受け、選挙での敗北につながったのは前回見た通り。

 そして第3次ですが、ラフマーン孫であるアマーヌッラーがイギリスに宣戦布告し、イギリスに勝利。これによりアフガニスタンは独立を勝ち取りますが、その後の道のりは平坦ではなかったことは、ご承知の通りだと思います。

 さあ長くなってしまいましたが、このようにヨーロッパ列強各国は植民地獲得を目指して各地で戦争を繰り返していました。こうした中で日本はアメリカのペリー艦隊がやってきたことから開国し、さらに江戸幕府が倒れ明治新政府が誕生。そして外交政策巧みなタイ王国と共に独立を保ったことが強調されますが(むしろ日本は侵略側になってしまいましたが)、清を除けば、その他のアジア各国、地域でもかなり良く抵抗し、決してヨーロッパ各国の植民地経営を順風満帆にさせたものではなかったことを付け加えておきたいと思います。

○おまけ:型破りの王族?

 ところで、この時代のイギリスにはユニークな王族にして、イギリス陸海軍の最高司令官がいました。それが、ロンドンの官庁街で銅像として立派に讃えられている、この人。



ケンブリッジ公 ジョージ・ウィリアム・フレデリック・チャールズ  1819年生まれ、1904年没。1856年から1895年の長期にわたってイギリス陸海軍の最高司令官を務め、王族ながらも名誉職に退くことを良しとせず、クリミア戦争に職業軍人として実際に従軍したり、結婚も王室結婚令に基づく政略結婚を「そんなものは失敗するに決まっている」と拒否して女優と結婚し、王位継承権及び公位継承権を放棄するなど、型破りな王族だったそうです。
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