53回 イタリア統一と建国への道

○イタリアなんて国はなかったのですが

 ドイツという国家が調べれば調べるほど、一体いつから成立したのか、何だかよく解らなくなって来ることってありませんか。東フランク? ドイツ騎士団領? ザクセン? プロイセン王国? 神聖ローマ帝国??? まあ、このあたりの話は今度扱いますが、ある意味でもっと解らなくて、ある意味で解りやすいのがイタリアでございます。

 さて、イタリアなんて国家はいつから登場したんでしょうかね。
 まあ、そもそも明確な形で国民と国家なんて概念が誕生し、さらに国境線が原則として確定したのは最近のことと言っても過言ではないのですけれど、ドイツ側にはプロイセン王国や神聖ローマ帝国など、ある程度まとまった大きな国家が登場しているのに対し、イタリアの場合は中世以降、都市国家がメインだったので小国乱立の分裂状態でございました(まあ、ドイツも内情は似たようなものか)。

 取り敢えず、イタリア王国という名前の国家は3回登場しています。
 まず西ローマ帝国が崩壊し、東ゴート王国とランゴバルト王国が誕生(懐かしい名前だ)。と、そこへフランク王国が侵攻してきて、ランゴバルト王国を征服します。そして781年、カール大帝は次男のピピンにイタリア王の称号を与えたのです。こうしてイタリア王国が誕生しますが、962年に神聖ローマ帝国皇帝オットー1世が侵攻して占領。イタリア王国は崩壊しました。

 それから時代は降ってナポレオンの時代。
 イタリア北部を占領したナポレオンは、この地域をチザルピーナ共和国としてまとめますが、1802年にイタリア共和国と改称。さらにナポレオンがフランス皇帝になると、イタリア王国とします(王位はナポレオンが兼任)。もちろんこれは、ナポレオン失脚に伴い崩壊しました。そして3回目が今回紹介する話でございます。パチパチパチパチ・・・。

○リソルジメント運動

 3回目のイタリア王国誕生、それもイタリア半島全域と北部を支配する国家を成立させたのがサヴォイア家によるサルディーニャ王国(1720〜1861年)です。まずは、この国家から話をせねばなりますまい。

 この王国は元々、サヴォア(現フランス領)を支配していた名門貴族ウンベルト1世(白手公)を始祖とし、戦争と政略結婚によって領土を拡大していったのがスタート。1416年、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントよりサヴォイア公に任命されたことから、サヴォイア公国が誕生しました。領域は現在のスイス、フランス南東部、北イタリアにまたがっています。

 さらにスペイン継承戦争(1701〜14年)でサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデオ2世は、オーストリア(神聖ローマ帝国)に味方し、戦後処理で結ばれたユトレヒト条約によってシチリア島を獲得し、各国に王家を称することを認めさせました。サヴォイア王国の誕生です。え、サルディーニャ王国じゃないのかって? いやいや、ちょっと待ちなさいよ。

※復習:スペイン継承戦争とは?

 ブルボン家出身のフェリペ5世のスペイン王位継承をめる、フランス、スペイン VS オーストリア、イギリス、オランダ、デンマーク、ポルトガルの戦争のこと。当時のスペイン王はハプスブルク家のカルロス2世だったのですが、病身で子供がいなかったため、あのフランス王国のルイ14世の孫、アンジュー公フィリップに王位を継がせようとしたんです。なんで?と思われるかも知れませんが、ヨーロッパの王家なんて親戚同士。このフィリップは、カルロス2世にとっては姉(ルイ14世の最初の妃)の孫だったんです。

 そうは言っても当然、ハプスブルク本家のオーストリア皇帝レオポルド1世は面白いはずがありませんし、ブルボン家はスペインにまで手を伸ばすのかと、ヨーロッパの各国家も反発したのです。特にイギリスは、フランスと植民地獲得競争をしていましたしね。こうして

 当初はフランス連合が優勢でしたが、のちにオーストリア側が優位に。しかし、各国とも疲弊し和平を結ぶことに。
 フェリペ5世即位が認められる代わりに、ジブラルタルのイギリス割譲などフランス、スペインが領土面で譲歩することで決着がつけられたのです。おかげで、ジブラルタルは未だにイギリス領で、スペイン側が現在に至るまで何度も奪還や共同統治の提案を試みていますが成功していません。
 おっと、話がずれました。
 1720年、サヴォイア王国はシチリア島をオーストリア(神聖ローマ帝国)に譲り、代わりにサルディーニャ島を獲得したことから、サルディーニャ王国と呼ばれるようになります。また、フィレンツェなどのルネサンス時代以来の都市国家がオーストリアやフランスの支配と圧力によって衰退する中、力を着々と蓄えていました。ちなみに、サルディーニャ島の直ぐ上がナポレオンの出身地であるコルシカ島。そして、フランス革命が発生しナポレオンが即位すると、この支配下に入ったことからフランス流の近代統治システムが導入。他のイタリア半島に先駆けて、むしろ国力が高まります。と、サルディーニャの話はいったんここで休憩。

 ナポレオン没落後、オーストリアが再びイタリア半島を支配することになるのですが、これに対して不満の声が上がり、イタリア半島を統一して対抗しようというリソルジメント運動が起こります。そして数々の秘密結社が結成され、この中で南イタリア(ブルボン家の両シチリア王国)のカルボナリ党は、1820年に蜂起。これはオーストリア軍によって鎮圧されましたが、大きな影響な波紋を投げかけます。
 *ナポレオンによって、神聖ローマ帝国という枠組みは名実共に崩壊していますので要注意。

 さらに1830年には、カルボナリ党に参加していたこともあったマッツーニという人物が亡命先のフランス・マルセイユで青年イタリア党を組織。イタリア半島に共和制の統一国家誕生を目指します。これがなかなか上手くはいかないのですが、それでも1848年初めには両シチリア王国、トスカーナ大公国、サルデーニャ王国、教皇領で、ようやく憲法が発布されました。

 そして同年2月、フランス国王ルイ・フィリップが、パリの労働者蜂起によって退位を余儀なくされ王政が崩壊します。
 これに影響されてオーストリアのウィーンでも3月革命が発生し、宰相のメッテルニヒが失脚。オーストリア領のハンガリーではコッシュート率いる反乱が発生し、一時は独立を宣言するにまで到ります(結局、これは鎮圧されるものの、のちにプロイセンとの戦争に負けたオーストリアは、1868年にハンガリーを独立させ、ハプスルブルク家がオーストリアと王位・帝位を兼任するオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立します)。

○カブールとガリバルディ

 この混乱をチャンスとして、イタリア半島各地でオーストリアを追い出す動きが発生します。
 このうち、ミラノとヴェネチアでは成功するのですが、北イタリアのロンバルディアではガリバルディ(1807〜82年)率いる義勇軍が敗北。サルディーニャ王カルロ=アルベルトも踏ん張りますが、やはりオーストリアによって鎮圧されます。ならばと、ガリバルディはさらに、マッツィーニがローマに建国したローマ共和国防衛に向かいますが、これはフランス軍に征服され、一時はアメリカに亡命することになります。

 しかし直ぐにガリバルディは動き出します。
 みんなで共和制実現・・・なんて甘いことを言っているようではダメだと考え、イタリア系の国家の中では、そこそこ強かったサルディーニャ王国を中心にイタリア半島を統一してもらったらどうか、と考えます。これに対し、サルディーニャ王国宰相のカヴール(1810〜61年)も「その話、乗った!」と承諾し、しかし今度はフランス、オーストリア双方と戦うことになってはまずいので、1858年、当時フランス皇帝だったナポレオン3世と交渉を開始。支援の密諾を得ます(プロンビエールの密約)。

 何故こういう外交が出来たのか。
 ひとつは、新国王ヴィットーリオ・エマヌエレ2世とカブールのコンビで、内政面を急速に充実させたことにあります。
 具体的には
 @産業の近代化(鉄道の建設と、当時スタートした電信網を充実)
 A軍隊のシステムと装備を近代化
 B修道院や教会に課税をすることで、税収を増やす

 それから、スペイン継承戦争の時にも見せたように、「サルディーニャ王国、ここにあり!」をアピールする必要があります。
 そこで前回解説した、クリミア戦争(1853〜56年)にイギリス・フランス連合側に参戦し、特にフランスとの関係を強化することが出来たのでした。こうして、ナポレオン3世と仲良くなったんですね。

 こうしてオーストリアVSサルディーニャ王国がスタートし、一時はナポレオン3世が「やっぱりやめよう」と休戦してしまったりもするのですが、サヴォアとニースを割譲することで軍事面も含め、再支援を取り付けます。そして、ガリバルディは「赤シャツ隊」「千人隊」などと呼ばれる義勇軍を組織し、南イタリアの両シチリア王国を征服し、進軍を開始。

 そして1860年10月、サルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエレ2世とナポリで合流し、ガリバルディはこれまで獲得した領土を献上します。こうして目出度し目出度し・・・と思いきや、ガリバルディ自身が受けた仕打ちは思ったよりも厳しく、これほどサルディーニャ王国に貢献しておきながら、その人気度を恐れたカブールによって政治的なポストは与えられず、大した恩賞を与えませんでした。怒ったガリバルディは僅かな恩賞も拒否し隠居。

 ともあれ、1861年にサルディーニャ王国をを母体としたイタリア王国が成立するのです。カブールはイタリア王国の初代首相に就任するも、発足3ヶ月で死去。一方、ガリバルディは「イタリア王国と言っても、ローマ教皇領とヴェネツィア(オーストリア影響下)が含まれていないではないか!」と憤慨し、再び義勇軍を結成し獲得に乗り出します。

 ところが勝手なことをするな!と逮捕されてしまいました。
 ガリバルディ話を続ければ、その後プロイセン・フランス戦争(普仏戦争)が勃発すると息子2人と義勇軍を組織し、フランス軍を支援。しかしフランスは敗北し、ナポレオン3世が退位させられるものの、この恩返しはフランスを感激させます。のちにはフランス議会の議員に、との話まで来るのですが、この戦いではフランスが敗北し、ナポレオン3世は退位します。1870年になるとローマがようやくイタリア王国領に。そして、1874年にガリバルディはイタリア議会の議員に当選しました。

○ローマ教皇との対立

 話を戻して、1861年にヴィットーリオ・エマヌエレ2世を国王とするイタリア王国が成立します。
 当初の首都は、1720年よりサルディーニャ王国の首都だった、イタリア北西部のトリノが、そのままイタリア王国の首都になりましたが、1865年にはフィレンツェに遷都。1871年にはローマが首都になり、現在に至るわけですが・・・。これがなかなか大変だった。

 まず1866年、プロイセン・オーストリア戦争が勃発するとプロイセン側に味方し、勝利。オーストリアよりヴェネツィアを獲得することに成功します。そして先ほどガリバルディが参戦したプロイセン・フランス戦争ではイタリア王国自体は、引き続きプロイセンに味方。何と、こちらはフランスに反旗を翻したのです。・・・と言うのもですよ、1849年に青年イタリア島がローマ共和国を建国し、フランス軍に鎮圧されたことは覚えていらっしゃいますよね? その後、ローマにはフランス軍が引き続き駐留していたんです。

 そして、そのローマにはローマ教皇がいらっしゃる。ていうか、ここは長らくローマ教皇領として存在していましたね。
 しかしローマを併合せずしてイタリア統一は成立しない、てなわけでプロイセン・フランス戦争に勝利したイタリアは、1870年、ローマのフランス軍も撃退し、ローマを占領したのです。そして、ここをイタリア王国の首都としました。

 これに激怒したのが、ローマ教皇達です。
 彼らは、ローマ市内のバチカンの丘に立てこもり、長らく「ローマ問題」としてイタリア政府と対立することになります。解消されたのは、1929年。イタリア王国首相ムッソリーニとローマ教皇領国務長官ガスパリ枢機卿との間で、ラテラノ協定が結ばれ、ローマ教皇はバチカン市国を建国することなどが認められるのです。余談ですがムッソリーニというのは、あの第2次世界大戦でお馴染みのムッソリーニです。ローマ教皇と和解することは、保守派からの支持を得るのに必須だったんですね。

○イタリア国民を作れ

 さて、最後になりますが、一般庶民にとっては突如として頭の上にイタリア王国が出来たような感覚でした。
 王国成立時に「貴方は何人(なにじん)か?」と質問をすれば、当たり前のように「ヴェネツィア人だ」なんて解答が帰ってくるような状況だったんですね。つまり、政治的に統合しただけの状態だったのです。そこで、政府としては「お前らはイタリア人だ」ということを教育しないといけなかったのです。

 そこで重要になるのが教育。
 その道具として投入されたのが、国定教科書である「クォーレ」でした。これには、様々なイタリア王国国民としての心得的なエピソードが込められており、子供達のイタリア人意識を高めていくことになりました。ただまあ、そうは言ってもイタリア北部とイタリア南部の経済的格差は今持って解消していないこともあって、現在でもイタリア国民として一体化している・・・とまでは、少々言えないのが現状のようです。

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