第17回 藤原道長の時代
○甥、伊周との争いの末・・・
今回取り上げる中心人物は、藤原氏最盛期を作ったといわれる藤原道長。尊敬する歴史上の人物で上位にランクインすることは殆ど無いと思いますが、知名度は抜群の人物でしょう。
しかし、最初からその地位が約束されていたわけでなく、むしろ通常であれば、そこそこの地位を持つ貴族程度の人生で終わるはずだったでしょう。ところが、長兄の道隆、兄の道兼が相次いで亡くなったことから、突如として道長の前に藤原氏トップの地位である「氏の長者」の座が見えてきました。
そんな道長のライバルとなりそうだったのが、藤原道隆の子、藤原伊周(これちか 974〜1010年)でした。
果たしてどちらが、藤原家トップの座を確保するのか。誰もが注目していた時、歴史を動かしたのは道長の姉で、円融天皇の皇后だった藤原詮子でした。彼女は一条天皇の母として大きな政治力を持っていたので、
「道長、そなたを内覧(ないらん)とする」
として、関白に準ずるような地位を道長に与えたのです。あくまで「準ずる」なのに要注意。まあ、道長は名前よりも実質的な地位を狙っていたので、べつにこれで十分だったようです。そんなわけで、以後も摂政に少しだけ就任したことはありましたが、関白になったことはありません。
ともあれ、実質的に藤原氏トップの座に王手をかけた藤原道長。
藤原伊周は、よほど悔しかったのか悪い遊びに手を出します。
996(長徳2)年、弟である藤原隆家と共に、
「花山法皇め。俺が好きな女の所に通って会っているな。恋のライバル、覚悟!」
・・・と、威嚇のつもりで夜道を歩く花山法皇に矢を放ったのですが、なんと法皇の服の袖を貫通。威嚇どころか、暗殺犯扱いに。おまけに、法皇が通っていた女と、伊周君が通っていた女は別人というオチ。
これを長徳の変といい、犯人として捕まった伊周君は太宰権帥へ、隆家君は出雲権守へ左遷されました。
ちなみに、花山法皇は女性を巡るスキャンダル、トラブルには事欠かない人物で、しかも意味不明な服装をするなど、奇行の絶えない人物だったそう。青少年の健全な育成のため、このページでは公開できそうも無い危険なエピソードも沢山あります。親父の冷泉天皇も狂っていたとして、当時から有名だったようですが・・・
「花山院の狂いは父親以上で、つかみどころがない」
というのが、当時の歴史書である『大鏡』の評です。ていうか、藤原氏を中心とする当時の貴族の「おぼっちゃま」一般に、手が付けられないような危険な人物が多く、殺人未遂に近いぐらいの暴力沙汰なんて日常茶飯事だったようで・・・。
例えば、道長だってこんなエピソードがあります(まだ可愛いぐらいですけど)。
彼がまだ若い頃、988(永延)年、道長はお気に入りの人物を官人採用試験をパスさせるため、なんと試験官の橘淑信を拉致、それも屈強な従者達に彼を連行させ、道長の家まで歩かせるという、恐るべき実力行使に出ます。
・・・さすがに、これを聞いたオヤジの藤原兼家は激怒し、たっぷりとお説教をしたとか。
もっとも、大変な屈辱を受けた橘淑信としてみれば「その程度で済んでしまうのか」と、落胆したことでしょう。とにかく身内に甘い貴族社会。特に相手が藤原家のトップ集団だと、被害者は殆どが泣き寝入り状態です。
○道長、氏の長者へ
こうして、道長はライバルに勝ち、藤原氏の頂点に立つ氏の長者となったのです。そして道長は、やはり娘を天皇の皇后にすることで外戚として権力を掌握しようとします。一条天皇には既に藤原定子(兄・道隆の娘)が中宮としていたのにもかかわらず、これを皇后として祭り上げ、自分の娘である彰子を中宮としました。この彰子に仕えた女性の中に、源氏物語の作者として有名な紫式部がいます。そして、三条天皇が即位すると、娘の妍子(けんし)を彼の中宮としますが、三条天皇が眼病であることが判明すると、これを理由に彰子が産んだ敦成(あつなり)親王を即位させ(後一条天皇)、道長は念願の摂政の地位に正式に就任します。もっとも、今後のことを考えたのか、僅か1年で息子、藤原頼通(よりみち 992〜1074年)にその地位を譲ってしまう。
しかし道長が引退するのかと思いきや、全くそんなことは無し。
摂政を譲ったその年のうちに、娘の威子を後一条天皇の中宮にしました。
さらに、その妹の嬉子(きし)は、後一条天皇の弟、後朱雀天皇の妃とします。
ちょっと復習しましょうね。こんな婚姻関係。
一条天皇(位986〜1011年)=彰子
三条天皇(位1011〜1016年)=妍子
後一条天皇(位1016〜1038年)=威子
後朱雀天皇(位1038〜45年)=嬉子
ちなみに、当時の貴族における結婚形態は、結婚すると男が女性の家に通うという妻通婚。子供は妻の家で育てられますから、必然的に女性の家の権力が強いのが常識だったのです。もっとも、男の方は色々な女性と結婚し、色々な女性の家に通っていたので、女性としては「今日は旦那が来てくれなかった」と寂しい想いをする人が多かったようですね(逆に、好き放題遊んでいた女性もいたようですが)。
○権力絶頂も、仏教三昧の日々へ
そんな道長の自信の表れは、藤原実資(実頼の孫)が記した日記「小右記」の中に端的に記されています。(当時の人々はよく日記を書いているので、貴族の暮らしが良く解ります。特に、この「小右記」は貴族の不祥事なんかも、びっしり書かれておりまして・・・)
すなわち、娘の威子が後一条天皇の皇后となったとき、道長は盛大なパーティーを開催したんですね。そこで、気分が良くなった道長は和歌を詠んだわけでございます。それが
「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の かけたることも無しと思へば」
とまあ、もう我が世の春に満足である、というもの。
そんな道長さん。どうも体が丈夫ではなかったらしい。今度はあの世のことが気になったようです。
1019(寛仁3)年、出家して法成寺という超豪華なお寺を造り、仏教三昧の生活をおくるのですが、糖尿病に苦しんだようです。1027(万寿4)年、藤原道長はその生涯を終えました。
そして、既に親父の後を継いでいた藤原頼通も摂政、関白として大きな権力を保持します。
ところがどっこい!
頼通の娘は皇子を産まなかった。
そうこうしているうちに、道長の孫でもあった後冷泉天皇(位1045〜68年)の後を継いだ、その弟の後三条天皇(位1068〜72年)は、後朱雀天皇と三条天皇の娘である禎子内親王の子供だったわけ。この、禎子内親王というのは妍子の娘でもあるので、もちろん藤原氏との関係は濃いのですが、頼通との血縁関係はちょっと薄くなってしまう。
おまけにこの頃、結婚形態も変化。
妻の所に住みつく結婚形態から、新居を造って、そこの夫婦で住むようになったのです。当然、妻の実家の影響力が弱まることになります。そうすると藤原氏は、今までのような影響力を行使できなくなってしまったんですね。
頼通が亡くなると、藤原氏から有力者も消滅。
後三条天皇は自ら国政改革に乗り出します。さあ、どうなる、どうする藤原氏?
○刀伊の入寇
ところで道長が出家した1019年、九州北部に刀伊と呼ばれる集団(当時、朝鮮半島を支配していた高麗が北方の蛮族を表す時に使う名称)が大船団を率いて攻めてきました。この集団、のちに中国で金や清といった国家を樹立する女真族の一部であると考えられていますが、ともかく、まずは壱岐、対馬を襲い、さらに博多(現在の福岡市)の辺りまで暴れまわったとか。日本では極めて珍しい、海外からの侵略です。放置しておけば、多くの人々が働き手として連れ去れたり、またはさらに攻め込まれる危険性もありましたが、そこでこれの撃退を指揮したのが、当時、太宰権帥だった藤原隆家でした。そう、あの花山法王のときに登場した、隆家です。「それ、戦え!」と九州の豪族や武士を率いて出撃していきました。
こうして日本の平和は彼らが守った! ・・・わけですが。
道長の息子、頼通を中心とする朝廷は、「ほほほ、西のほうがなにやら騒がしかったようじゃのう。」程度の認識であり、これといった報償はしませんでした。とんでもない話です。それにしても隆家は貴族でありながら、「武士」としてよく頑張ったじゃありませんか。そして年月は流れ、九州の武士団はモンゴル(元)と戦うことに。九州は海外との玄関口だったのであります。
○末法の世と平等院
さて、この頃に建立された有名な建築が、平等院鳳凰堂です。平等院は元々、嵯峨天皇の皇子であった源融(みなもとのとおる)の別荘だったものを藤原道長が購入したもの。
道長の息子である藤原頼道は、この別荘を相続すると「そうだ、これを寺にしよう」と思いつき作業に着手します。当時は、1052年から仏法が衰滅するという「末法」の世が来ると貴族たちの間で信じられており、少しでも救いを求めるべく、こうした行動をとったものと思われます。
こうして1053(天喜元)年、現在は鳳凰堂として親しまれる阿弥陀堂【国宝】が完成。当時は極彩色に塗られていた華麗な建築で、中央に仏師・定朝の大作である、金色の阿弥陀如来坐像(なんと3m近い巨大なもの)を鎮座させています。さらに、背後の壁に極楽浄土図を描き、左右の壁の上部に52体の雲中供養菩薩像を懸けるという、まさに極楽浄土の世界を表現しています。
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