第16回 安和の変〜藤原氏最盛期への道
○今回の年表
939年 | 藤原純友の乱が起こる(941年に鎮圧) |
946年 | 村上天皇が即位。 |
960年 | 宋が建国され、次第に中国が統一される。 |
962年 | 東フランク王国のオットー1世が戴冠し、いわゆる神聖ローマ帝国が建国される。 |
969年 | ファーティマ朝がエジプトを占領。 |
969年 | 安和の変が起こる。円融天皇が即位。 |
970年 | 藤原伊尹が摂政に就任。 |
972年 | 藤原兼通が関白及び内大臣に就任。 |
986年 | 花山天皇が即位僅か2年で出家し退位。一条天皇が即位し、藤原兼家が摂政となる。 |
987年 | フランスでカペー朝が建国。 |
990年 | 藤原兼家が出家し、長子の藤原道隆が関白に。さらに道隆の娘、定子が一条天皇の中宮となる。 |
993年 | 藤原道隆、道兼兄弟が相次いで死去。 |
○天暦の治
さて、946(天慶9)年に、村上天皇(926〜967,位946〜967年 醍醐天皇の子)が即位します。21歳で即位したこの天皇も、度重なる社会の混乱に立ち向かうべく、様々な改革を実行しようと奮闘するのです。そのパートナーとなったのは、右大臣の藤原師輔(もろすけ)。藤原忠平の息子です。ただし、村上天皇は従来のように関白はおかず、自ら政治運営に乗り出します(即位後2年目までは、忠平が関白を務めましたが)。
まずは、国司に任命されておきながら、赴任しない貴族を処罰することにします。国司に任命されたら、近国は20日、中国は30日、遠国は40日以内に赴任先に到着しろ!さもないと・・・という法令を出したのです。
*余談:中国地方の中国は、都から見た位置関係から来ています。なぜか、あの辺だけ地域名として定着しました。
また、これまで戦時を除けば高貴な貴族の方々の武装は許可されていませんでしたが、まさか非武装で”兵(つわもの)”と戦うわけにはいきません。しかも実際、国司や郡司が殺害される事件が相次いで起こっていました。そこで、国司や郡司、下級官人達が普段から、帯剣できるように許可を出しました。
この他、朝廷による最後の貨幣となった乾元大宝の発行や、和歌の勅撰集である「後撰和歌集」の編纂など文学の振興など様々な分野に手を出した村上天皇の政治は、天暦の治と呼ばれますが、世の中の混乱、荒廃に疫病の流行は何ともしがたく、失意のまま967(康保4)年、42歳の若さで亡くなりました。
なお、この頃「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば西方浄土へ往生できる、という教えを説いた空也という僧が貴族から民衆まで、幅広い人気を集め、以後の仏教にも大きな影響を与えています。
○貴族の世界はド〜ロドロ、安和の変
さて、村上天皇が亡くなると、その息子である冷泉天皇が即位します。すると、ここで再び藤原氏による他氏排斥が起こります。969(安和2)年、源満仲(みつなか 経基の子)と藤原善時(よしとき)は「橘繁延と源連(つらぬ)が、皇太子の守平親王を廃し、兄の為平親王を皇太子しようと企んでいる」と、密告しました。
直ちに右大臣の藤原師尹(もろただ)は、関白・太政大臣の藤原実頼に通報し、橘繁延らが取り調べたところ、罪を自白。しかも、この計画には藤原千晴(秀郷の子)や、為平(ためひら)親王の妃の父である左大臣源高明も関わっていると断定。
橘繁延は土佐、藤原千春は隠岐に流され、源高明は太宰権帥に左遷されました。そして、冷泉天皇は弟の守平親王へ譲位し、円融天皇(位969〜984年)が即位します。これを安和(あんな)の変といい、これにより摂関家としての藤原氏の地位は不動のものに。
どうやら、為平親王の即位と、名声の高かった源高明を恐れた藤原氏の陰謀だったようですね。さらに、源満仲は、都や東国で急成長していた藤原千春を追い落とし、これに取って代わると同時に、摂関家の藤原氏に接近したかったようです。
○今度は藤原家の中で・・・
別に今回が初めてというわけではないですが、政敵を倒すと今度は藤原氏の中で「誰が摂政、関白になるか」ということが問題になります。しかも、藤原氏なら誰でも摂政、関白になるというわけではなく、基本的に藤原忠平の子孫が就くのが慣例となります。そうなると・・・その兄弟、叔父、甥で激しく争うようになります。
例えば、藤原忠平の孫、藤原兼通と兼家兄弟の争いは有名です。兼通のほうが兼家より四歳年上です。
出世レースは冷泉天皇の頃になると、兼家のほうが兼通より一歩リードしていました。ところが円融天皇時代の972(天禄3)年、長兄で摂政及び太政大臣であった藤原伊尹が病気のため辞表を提出すると、兼通・兼家兄弟は後継者争いを本格化させます。さあ、どうする兄弟。
・・・ピーン、あの手があった!
と、先手を打ったのは兄・兼通の方でした。実は、既に亡き妹にして村上天皇の皇后であった安子が遺言として書いていた手紙があったことを思い出したんですね。そこには、「関白は兄弟の順序に従いなさい」という意味の言葉が書いてあったわけです。それを円融天皇(当時14歳)に見せ、「母の遺言に違いない。よし、解った」
ということで、目出度く兼通は弟に負けていた出世競争に勝利し、関白へ就任するのです。
兄は偉いのだ。解ったか、弟よ。
・・・しかし、兼通の春は長くは続かず、関白就任から5年後の977(貞元2)年、彼は病気で重体になって亡くなろうとしていました。それを聞いた弟、兼家は屋敷を突如出発し、兼通の屋敷に近づいてきました。その情報を家人(部下)から兄、兼通。
「ああ、日ごろから弟とは仲が悪かったが、やはり実の兄弟だ。見舞いに来てくれるとは本当に嬉しい。」
と感激し、早速迎えの準備を開始させました。さあ、いらっしゃい・・・あ、あれれ・・・?
なんと、弟は非情にも兄の屋敷を通過して行ったのです。向かった先は、天皇の住居である内裏。
さあ、読者の皆さん。これはどういうことなんでしょう。もちろん、兄が亡くなった後の後継者は自分だ!とPRしにいったわけなんですよ。直ぐに兄も気がつきました。兼通はフラフラしながらも内裏へ向かい、
「私の関白職は従兄弟の頼忠(実頼の子)に譲るぞ。そして我が弟、兼家よ。貴様は右近衛大将から治部卿へ左遷じゃ〜〜。ワッハッハ〜!! グフッ。」
と決定すると、1ヵ月後に病没しました。
やはり兄は偉いのだ。今度こそ解ったか、弟よ。
○逆襲の兼家
兄によって野望を潰された兼家でしたが、チャンスは虎視眈々と狙っていました。次の花山天皇の時、藤原兼家は自分の娘である藤原詮子と円融天皇の間に産まれた子を即位させるべく、一計を巡らします。すなわち、花山天皇(当時19歳)が、お気に入りの女御(天皇の妃の一種)が亡くなり、悲しんでいるのを見て、
「さぞお悲しみのことと思います。私もお供しますから、出家して俗世間を離れましょう」
と、兼家の次男である藤原道兼(961〜995年)に進言させます。
「そうか、お前も一緒に出家していくれるか。では・・・」
と花山天皇も承諾し、いざ剃髪(髪の毛を剃り、頭を丸める)の作業に入ったところで、なんと道兼が消えているじゃありませんか。
「しまった! だ・ま・さ・れ・た!!」
と思うも、後の祭り。花山天皇は出家し、法皇となります。
かわって藤原兼家の思い通りに、自分の孫である一条天皇(980〜1011年/位 986〜1011年)が即位。兼家は摂政の地位を得ました。
兼家は約4年ほど摂政を務めたあと、990年に関白の地位を得た途端に病没。
ついで、兼家の長男である藤原道隆(953年〜995年)が関白、摂政、また関白を計約5年務め、995年に亡くなります。この間、彼は一条天皇に自分の娘である藤原定子を嫁がせ、当時、天皇の妃としては最上位であった中宮(ちゅうぐう)にすることに成功します。なお、この藤原定子に仕えて、有名な日記文学である「枕草子」を執筆したのが清少納言(966頃〜1025年頃)です。
さて、道隆のあとは、その弟で先ほど登場した藤原道兼が関白に就任します。ところが、「よし、これで俺の時代だ!」と喜び勇んだ瞬間、在職わずか7日で病没してしまいました。さあ、次の関白は誰の手になるのか。この話は次回へ続く!
東三条殿(とうさんじょうどの)
摂関家藤原氏が伝領した邸宅の1つで、藤原良房(804〜872年が創設。模型は南半分を復元したもので、寝殿造の一例として名高いものです。
これは、中心に寝殿と称した建物を置き、東、西、北などに対屋 (たいのや) を設け、これらを廊でつないだ構造です。また、東・西対屋から池に向けて中門廊を突き出し、先端に池に臨む釣殿を建てています。なお、左右対称ではありません。
さて、藤原兼家は、娘である藤原超子が三条天皇、同じく娘である藤原詮子が一条天皇が生むと、ここで外祖父として養育しました。
この屋敷はその後、兼家の五男である藤原道長へ引き継がれた後、平安時代後期には師通、忠実、忠通、頼長が領しますが1166(仁安元)年に焼失しました。
(写真:国立歴史民俗博物館/撮影:裏辺金好)
場所は現在の二条城の少し東にありました。
寝殿の室内
先ほど東三条殿の模型を紹介しましたが、その中心である寝殿の室内です。広い空間を持ちますが、壁は殆ど無く、必要に応じて御簾(みす)や几帳(きちょう)などの布製のカーテン状の障子や、屏風(びょうぶ)や衝立(ついたて)などのパネル状の障子を移動させて、仕切りました。また、床は板敷で、その上に必要な量の畳を置きます。
(写真:国立歴史民俗博物館/撮影:裏辺金好)
○訴えてやる!
ところで、花山天皇が出家して2年後の988年。尾張守である藤原元命(もとなが)が、「国司(受領)として不適格である。至急クビにしろ!」と訴えられました。原告(訴えた人)は尾張の郡司から農民まで多くの人々。さてさて、その理由は9000字にものぼる文章にしたためられています。例えば
・法律で定められた以上の稲を農民に強制的に貸し付け、不法に利息を取り立てている。
・灌漑施設の修繕費を支給しない。
・前年度予算の残額を、勝手に京都の自分の家に運ばせた(業務上横領罪ですな)。
・国衙で働く下級官人の給料を支払わない。
・私用であるにもかかわらず、農民を勝手に徴発して働かせた。
・元命の子弟郎党が、郡司や農民から財物を徴発した(強盗に近いですね)。
などなど・・・。
こういったことが9000字も書かれているんですから、よほどのワルだったと思います。さすがに朝廷も事態を重く見て、翌年に藤原元命の罷免を決定しました。しかし、悪い国司はこれ以外にも数多くいたようで、私腹を肥やすため多くの人々を苦しめました。そして、国司任期中に得た収入の一部を、摂関家などに献上し、ご機嫌を取ることで、また次の国司の座や官位を得よう・・・というわけだったんですね。
その一方、美濃守であった源遠資は逆に、「こんな良い国司が、任期切れで美濃から去ってもらっては困ります。何とか任期を延長してください」と朝廷に請願が起こっています。国司にも色々。もっとも、国司の強欲ぶりを表すエピソードは、1000年を経た今も数多く伝わっていますがね。
○貴族の服装
このページの最後に、貴族の服装(※夏装束 旧暦4月〜9月に着るもの)を3つご紹介します。直衣(のうし)姿
こちらは上級公家男子の平常服。頭は烏帽子(えぼし)をかぶっています。
束帯(そくたい)
朝廷の儀式で上級公家男子が着る正装。頭は冠(かんむり)をかぶっています。なお、写真は武官の姿を再現したもので、太刀と弓箭(きゅうせん)を持っています。
女房装束(にょうぼうしょうぞく)
上級公家女子の正装。いわゆる十二単(じゅうにひとえ)ですが、十二枚着ているわけではありません。
(いずれも写真:国立歴史民俗博物館/撮影:裏辺金好)
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