第23回 鎌倉幕府の仕組みとは?

○鎌倉幕府とは?

 さて、前回は鎌倉幕府が誕生していくまでの、源平合戦を中心に見ていきました。
 ご覧のとおり、源義経や梶原景時らが戦っている間に、頼朝は着実に自分の政権の組織固めと、鎌倉の整備を行っていたわけなのですが、それではどんな組織が出来上がったのでしょうか。今回は、鎌倉幕府の仕組みを中心に見ていきます。


鎌倉の町並み (模型 国立歴史民俗博物館蔵)


鎌倉の町並み (模型 国立歴史民俗博物館蔵)
こちらは鶴岡八幡宮と、その東にあった大倉御所(幕府)、さらに八幡宮の南にある若宮大路御所(幕府)をアップしたもの。大倉御所は、1180(治承4)年に源頼朝が造らせた邸宅で、1219(承久元)年に焼失するまで鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)御所として存在しました。その後、いくつかの変遷を経て1236(嘉禎2)年に若宮大路御所へ移っています。これは1333年の鎌倉幕府滅亡まで使われました。


参堂(若宮大路) (神奈川県鎌倉市)
 鎌倉駅東口からまっすぐ歩くと出会う大通り。元々は由比ガ浜から鶴岡八幡宮に到る参道で、1182(寿永元)年に源頼朝が、妻の北条政子の安産祈願のため造らせたもの。のちに、東に将軍御所(若宮幕府)などが設置されました。
 近世になって、鎌倉駅東に位置する二の鳥居より南側が取り壊されています。なお、現在残る参道は段葛(だんかずら)といって、左右に堤を築き、周囲より一段高いのが特徴。さらに、二の鳥居付近では道幅4.5mであるのに対し、鶴岡八幡宮前の三の鳥居付近の道幅は3mと短くなっており、遠近法が利用されているのが特徴です。

鶴岡八幡宮 (神奈川県鎌倉市)
 鶴岡八幡宮の起源は1063年、源頼義が東北の豪族安倍氏を倒した前九年の役の勝利を記念し、由比に京都の石清水八幡宮を勧請(かんじょう)したのが始まり。
 現在の位置に出来たのは1180(治承4)年のことで、源頼朝が移設したもの。ただし、1190(建久元)年に火災で焼失したため裏山に改めて石清水八幡宮を勧請し、現在見られる上下両宮の形となりました。

○御家人制度

 まず鎌倉幕府の特徴として代表的なのが、御家人制度です。
 これは、鎌倉幕府のボスである鎌倉殿(将軍)と、その家来となった御家人との間に土地を通じた、ギブアンドテイク・・・じゃない、御恩奉公の関係を成立させることです。具体的には、
 1.鎌倉殿から御家人へ(御恩)
  A.本領安堵(ほんりょうあんど)・・・先祖代々の所領を支配することを保障してあげる。
  B.新恩給与(しんおんきゅうよ)・・・新たな所領を与えてあげる。地頭に任命してあげる。
  C.朝廷の官職などに推挙してあげる。
 2.御家人から鎌倉殿へ(奉公)
  A.軍役(ぐんやく)・・・合戦に参加し、鎌倉殿のために戦う。
  B.番役(ばんやく)・・・京都大番役、鎌倉番役など、鎌倉幕府の重要機関で一定期間働く
  C.関東御公事(かんとうみくじ)・・・朝廷の内裏や幕府の建物などの建築を担当したり、修理したりする。
 といったことです。ちなみに、こうした土地を通じた主従制度のことを一般的に、封建制度(ほうけんせいど)といいます。


中世武士の館 (国立歴史民俗博物館蔵 模型)
  文献から推定復元した東国武士の館。堀に囲まれ、主人が居住する主屋を中心に対屋(たいのや)、家来が出仕する侍廊や各種作業用の小屋が配置されています。

中世武士の水干(すいかん)姿 (国立歴史民俗博物館蔵 模型)
 水干は水干狩衣 (かりぎぬ) の略で、平安時代後期から江戸時代まで用いられた男子用和服の一種。元々は庶民、のち貴族にも普及した服装で、武士は鎌倉時代から使うようになりました。

鶴岡八幡宮 (神奈川県鎌倉市)
 鶴岡八幡宮の起源は1063年、源頼義が東北の豪族安倍氏を倒した前九年の役の勝利を記念し、由比に京都の石清水八幡宮を勧請(かんじょう)したのが始まり。
 現在の位置に出来たのは1180(治承4)年のことで、源頼朝が移設したもの。ただし、1190(建久元)年に火災で焼失したため裏山に改めて石清水八幡宮を勧請し、現在見られる上下両宮の形となりました。

○鎌倉幕府の機構

 続きまして、鎌倉幕府に設置された色々な役職を見ていきます。
 1.将軍(ショーグン!)
   1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことからスタート。鎌倉殿が就任します。
 2.執権(しっけん)・・・1203年設置
   1203年設置。将軍に続いて偉い人で、実質的に鎌倉幕府を取り仕切りました。北条時政が就任して以降、
   北条氏が代々世襲していきます。
 3.侍所(さむらいどころ)・・・1180年設置。
   初代別当(長官)は和田義盛。のち、北条氏が世襲。 軍事、警察、御家人の統率を担当する部署。
 4.公文所(くもんじょ)・・・1184年設置/1191年に政所(まんどころ)へ改称
   初代別当は大江広元。のち、北条氏が世襲。一般政務、財務を担当する部署。
 5.問注所(もんちゅうじょ)・・・1184年設置。
   初代執事は三善康信。当初は裁判を担当していましたが、のちに訴状を受理する事務機関へと機能を縮小。
 6.京都守護・・・1185年設置。
   京都における鎌倉幕府の出先機関で、京都にいる御家人の統率、朝廷との交渉、幕府との連絡、
   京都(洛中)における警察や、裁判など幅広く担当。
 7.鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)・・・1185年設置。
   九州(鎮西)の御家人を統率。
 8.奥州総奉行・・・1189年設置。
   東北の御家人を統率。
 9.守護・・・1185年設置。初期のころは、惣追捕使(そうついぶし)、国地頭とも。
   諸国に設置され、大犯三か条(京都大番役の催促、謀反人と殺害人の逮捕)、在庁官人の支配が任務。
   有力な御家人が任命されます。
 10.地頭・・・1185年設置。
   荘園や公領(郡、郷など)に設置。土地の管理、年貢を徴収したり、警察権を行使する。

 このほかにも色々ありますし、後に追加されたものもありますが、重要なものについてはまた紹介します。

○北条氏VS比企氏

 さて、源頼朝が亡くなると、北条政子との間に生まれた源頼家(1182〜1204年)が2代将軍となります。
 彼は梶原景時を信任して政治を行うのですが、ところが景時は周りからの評判が悪かった。例えば源義経を追い詰めたのは、彼の報告というのも1つの原因でしたし、その他にもライバルを蹴落としていました。さらに1199(正治元)年、今度は結城朝光(ゆうきともみつ)という有力な御家人を、頼家に対して
 「奴は謀反をする疑いがあります」
 と密告。これが他の御家人の反感を決定的に買うことになり、和田義盛ら66人が「梶原景時を追放せよ!」と訴え、さすがの景時も鎌倉から追放されてしまいました。そして翌年、甲斐源氏の武田有義を将軍にしようとして挙兵を企みますが、幕府に殺されてしまいました。ちなみに、武田有義は行方不明になりましたが、弟の武田信光が継ぎ、その子孫に有名な武田信玄が登場します。

 ・・・おっと、なんか余談が長くなりました。
 さて、こうしてお気に入りの御家人を失い、うるさいジジイどもの小言とバトルすることになった頼家。特に、実際の政治は祖父の北条時政ら13人の合議によって行われていました。しかも、1203(建仁3)年に頼家は重病になってしまいます。そこで、なんと北条時政は「これはチャンス!」と、頼家の権力や領地を、頼家の子である一幡(いちまん)と、頼家の弟の千幡(のち源実朝)に半分ずつにしようと企むんですね。

 もちろん頼家は怒ります。病気が回復しますと、妻の父親で、北条氏と並ぶ有力な御家人であった比企能員(ひきよしかず)と共に北条時政を討伐しようと密かに企みます。ところが、時政はこの動きを察知。能員を自宅に誘い込んで騙まし討ちで殺害し、そのまま一幡と、比企一族を滅ぼしてしまいました(比企氏の乱)。

 そして頼家は将軍職から解任され、伊豆の修善寺に幽閉。そして翌年、時政は頼家を暗殺しました。哀れ、頼家は僅か23歳でその生涯を、祖父の手によって終えることになったわけです。・・・こんな爺さん、自分の祖父だったら嫌だ・・・。


妙本寺二天
妙本寺は、鎌倉にある日蓮宗の寺院。比企能員(ひきよしかず)一族の菩提を弔うため、能員の末子である能本(よしもと)が、日蓮の弟子である日朝を開山に迎えて1260(文応元)年に創建しました。二天門は1848(嘉永元)年築。参道の石段を登ると見えてくる立派な朱塗りの門。


妙本寺比企一族の墓
境内右手は比企一族の墓が建立されています。また、幼くして亡くなった頼家の子、一幡の袖塚も存在。ちなみに、この場所は比企一族の館跡でもあります。

○実朝暗殺の首謀者は・・・?

 そこで三代将軍に就任したのが、頼家の弟である源実朝(1192〜1219年)。やはり、北条政子が生んだ子で、時に11歳でした。彼は北条時政が執権として幕府の政治を取り仕切るのを見て、自分は朝廷の官位をもらって出世することと、和歌を作ることに熱中します。新古今和歌集の編集者の一人で、歌人としても名高い藤原定家に弟子入りし、自らが作った歌をまとめた自選した「金槐和歌集」は、後世からの評価も非常に高いもの。お陰さまで、「金槐和歌集」という名前は、国語のテスト授業で勉強しないといけないこともあります(笑)。

 ところが、そんな文化人の孫ですら、邪魔だと考えた北条時政。
 時政の後妻、牧の方との間に生まれた娘の婿である、平賀朝雅を将軍にしようと考えます。
 
 そうすると、北条政子や北条義時など、時政の先妻の子としては危険な話です。
 このままでは、幕府も北条家も、牧の方の一族の思うがまま。ええぃ、親父どもは引退しろ!
 ・・・というわけで、北条時政は政子と義時に捕まり、「鎌倉から出てけ!」と、とうとう伊豆に引退させられました。

 さて、話を実朝に戻します。
 朝廷が大好きな幕府の三代将軍、ということで院政を行っていた後鳥羽上皇は大歓迎でした。もちろん実朝を使えば鎌倉幕府に影響を与えられる・・・という思惑もあって、非常に実朝を可愛がります。実朝はどんどん出世していき、異例のスピードで正二位右大臣に上り詰めるのですが、なんと28歳のとき、鶴岡八幡宮で頼家の息子、公暁(くぎょう/1200〜19年)に殺害されてしまいました。どうやら、有力な御家人である三浦義村に「あれが父親の仇だ」とけしかけられたようなのですが、実朝殺害後、公暁も三浦義村に殺され、こうして源頼朝の子孫は絶えてしまいました。

 ・・・ちなみに、実朝が殺害される少し前まで、北条義時は実朝の近くにいたのですが、「気分が悪くなった」と途中で消えます。そして実朝が・・・という、なんとも怪しい場面。さて、実朝暗殺は三浦氏によるものなのか、それとも北条氏が関与したのか、ただ利用したのか。もしくは、公暁を擁する三浦VS実朝を擁する北条だったのか・・・。いずれにせよ、なんとも不気味な話です。ていうか、母親の北条政子も加担して、子供と孫を、ことごとく殺したり、見殺しにしたわけで・・・ああ、恐ろしい。


鶴岡八幡宮

○ライバルを蹴落とす北条氏

 ところで、将軍ですら暗殺するのですから、もちろん他の御家人なんて・・・。
 ということで、北条時政や、2代執権となった北条義時は、権力基盤を強化するため、数々の御家人を排除しました。比企能員を謀殺したほか、1205年には畠山重忠を殺害、さらに1213年、侍所の別当の座を得るべく、和田義盛を合戦で戦死させています(和田合戦)。そして、その後も有力御家人の排斥は鎌倉時代後期まで続きます。

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