第22回 鎌倉幕府の成立
○今回の年表
1180年 | 後白河法皇の子、以仁王による「平氏打倒」の令旨がでる。以仁王、源頼政挙兵し、敗死。 |
平清盛、福原へ遷都を強行する。 | |
源頼朝、源義仲が挙兵する。 | |
源頼朝、侍所を設置し、和田義盛を初代別当に任命。 | |
1181年 | 平清盛が病没し、平宗盛が後を継ぐ。 |
1183年 | 倶利伽羅峠の戦い。源義仲、平維盛の軍勢を破り、そのまま平安京へ入る。 |
源頼朝、後白河法皇より東国の支配権を認める宣旨を獲得。 | |
1184年 | 宇治川の戦いで、源義仲が源範頼、義経の軍勢に敗北。 |
一の谷の戦いで、平氏が源義経に敗北。 | |
源頼朝、公文所と問注所を設置。 | |
1185年 | 屋島の戦いで、平氏が源義経に敗北。 |
壇ノ浦の戦いで、平氏が源義経に完全敗北し滅亡する。 | |
源頼朝、全国に守護、地頭を設置。 | |
1189年 | 藤原泰衡、源義経を殺害する。 |
源頼朝、奥州に侵攻し、奥州藤原氏を滅亡させる。 | |
1192年 | 源頼朝、征夷大将軍に任命。 |
1193年 | 源範頼、反逆の疑いで源頼朝に殺される。 |
1199年 | 源頼朝、死去する。 |
○源頼政、立つ!
平氏による天下は長く続きはしませんでした。1180(治承4)年、後白河法皇の次男である以仁王(もちひとおう)は、
「兄は二条天皇として、弟は高倉天皇として即位したというのに、俺だけこの扱いはなんだ! 親王にすらなれないとは」
という恨みを爆発。
「すべて平氏のせいだ! 清盛の野郎をぶっ倒せ!!」
と、各地に令旨を発し、自らは源頼政を味方に付けます。頼政は、平治の乱では源義朝を裏切り、平清盛についたことで清盛から絶大な信任を得ていましたが、なんと76歳にして大勝負に出ました。ところが、準備が整わぬうちに発覚し、あわてて挙兵する羽目になります。結局、平知盛(1152〜85年/清盛4男)率いる軍勢の前に敗北し、以仁王ともども、京都の少し南に位置する宇治で戦死しました。
平等院扇の芝
鳳凰堂で有名な宇治の平等院。この場所で、宇治での戦いに敗北した源頼政は自害したと伝わります。
源三位頼政之墓
観音堂(鳳凰堂)裏手に源頼政の墓があります。
○源頼朝、立つ!
同年、今度は源頼朝(みなもとのよりとも/源義朝の子 1147〜99年)が挙兵します。
頼朝は前に紹介したとおり、清盛に処刑されることなく、伊豆の蛭島(ひるがしま)という場所で過ごしていたのですが、表向きは仏教オタクのふりをしながら(・・・もっとも、仏教は大好きだったようですが)、貴族の三善康信(1140〜1221年)を通じて、絶えず平氏の動向を探っていました。そして来るべき日に備え、味方になってくれる地元の有力者を探していました。そこで、彼がまず目を付けたのが伊藤祐親(いとうすけちか)という人物でした。
さて、どうして味方に付けよう。
そう考えた頼朝は、なんと祐親が仕事で京都に出張中に、その娘を口説き落とし、なんと千鶴という息子まで誕生させてしまいました。こうすれば、「やれやれ、子供が生まれては仕方がない。頼朝殿の味方をしよう」「ありがとう、パパ!」となるだろう・・・と考えたわけです。
ところが、京都から帰ってきた祐親は激怒!
「これが清盛様にバレたら、わしの立場は・・・」
と、娘と頼朝の間を裂き、千鶴を川に投げ込んで殺してしまいました。頼朝、もちろん逃げます。
そこで、今度は次の作戦に移行します。
これも地元の有力者であった北条時政(ほうじょうときまさ/1138〜1215年)を味方に付けよう、と考えたわけです。そこで、やはり同じ手段を使って・・・と考えたところ、今度はなんと時政の娘、北条政子(ほうじょうまさこ/1157〜1225年)の方から熱烈なアタック! 頼朝のほうが押し切られてしまう形になりました。
やはり京都から帰ってきた北条時政は驚きましたが、「いやしかし待てよ・・・」と考えます。
「ワシの見たところ、最近の平氏はボロボロだ。もしかすると、頼朝に味方をすれば、北条家が田舎領主から一気に繁栄できるかも?」
・・・と考え、二人の結婚を許しました。
そこに、先ほどの以仁王の令旨がやってきました。頼朝と時政は協議した結果、「よし、今こそチャンス到来だ!」と挙兵を決意。仲間に引き入れた土肥実平(どい さねひら)、岡崎義実、加藤景廉、佐々木定綱、盛綱、経高、高綱兄弟らに平氏方の山木兼隆の館を襲させ、これに勝利しました。
蛭が島公園
幕末に建造された韮山反射炉の近くは、歴史の偶然と申しますか源頼朝が配流された場所。これを記念して、蛭が島公園が整備され、源頼朝と北条政子の像が建立されています。実際に源頼朝がここに住んでいたかどうかは不明ですが、この辺りにはいたんですね。
北条氏館跡
鎌倉に本拠を移すまで北条氏が本拠としていた場所。先ほどの蛭が島公園からも比較的近い場所にありますね。なお、この地には鎌倉幕府滅亡後、第14代執権であった北条高時の母である覚海円成を中心とした北条一族の女性たちが韮山へ戻るにあたり、一族の菩提を弔うために円成寺を建立しました。
▲現在の山木兼隆館跡
これと云って遺構が残っているわけではありませんが・・・。
ところが、続く石橋山の戦いでは大庭景親(おおばかげちか)、伊藤祐親の前に大敗。北条時政は、嫡男の北条宗時を失っています。しかも、洞窟の中にしばらく隠れていたところ、平氏方の梶原景時(かじわらかげとき/?〜1200年)に見つかってしまったのでした。
「やばい、こ、このままでは・・・」
と、覚悟を決めたところ、なんと景時はこれを見逃し、のちに頼朝に仕え重用されます。さらに、三浦義澄、千葉常胤といった有力者も頼朝に味方し、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入りました。
これに対し、平清盛は孫の平維盛(これもり)を大将とする軍勢を派遣。しかし、富士川の戦いで兵士たちが鳥の羽の音に「敵が攻めてきた!」と驚き、戦わずして敗走するという失態を演じてしまいます。その後しばらく、頼朝は東国での支配権を確立することを優先していき、東国武士団を統率する侍所(さむらいどころ)を設置。和田義盛を初代別当に任命します。
また、弟の源範頼(みなもとののりより ?〜1193年)、さらにやはり弟で、奥州藤原氏第3代の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の下で養育されていた源義経(みなもとのよしつね 1159〜89年)が参入してきます。もっとも、頼朝は平氏と異なり、「弟といえども特別扱いはしない」という方針を採っていきます。平氏が一族を重用しすぎて不満を買ったことを見ていたから、ということと母親が違う&母親の身分が低いことから、「オレと同じ源氏でも格が違う」と考えたのでしょう。
ところで鎌倉といえば、覚えていらっしゃいますでしょうか。
元々は北条時政が祖先と称する、平直方が居を構えていたところでした。そこを、娘婿の源頼義に譲った場所であり、時政と頼朝にとって互いにゆかりある地だったのです。その上、三方向が堅固な山で囲まれ、もう一方は海という地形は、天然の要害でした。ここを拠点に、街づくりを行っていきます。
一方の清盛は、都を周りの反対を押し切り福原(現、神戸市兵庫区)へ遷都(ただし、半年程度で平安京へ戻ります)。さらに歯向かう東大寺、興福寺を焼き討ちにするなどし、勢力を立て直そうとしますが、1181(養和1)年、64歳で病死しました。続いて平氏を率いることになったのは、息子の平宗盛(1147〜85年)でした。しかし、不幸にも飢饉が起こるなど、平氏にとって状況は悪化していきます。
○源義仲、立つ!
ところで、時を同じくして信濃国の木曽で育っていた源義仲(1154〜84年 頼朝の従兄弟)も挙兵します。まずは信濃を押さえ、嫡男の源義高(みなもとのよしたか)を、頼朝に人質として派遣することで同盟。東方の安全を確保し、平安京に向けて進軍を開始します。特に、1183(寿永2)年には、今の石川県と富山県の県境近くで、平維盛が率いる軍勢を撃破(倶利伽羅峠の戦い)。そのまま平安京になだれ込み、平宗盛らは安徳天皇(位1180〜85年)を奉じて瀬戸内方面へ逃走。一時は大宰府にまで逃れますが、のちに福原へ戻りました。いずれにせよ、まず平安京から平氏を追い出したのは源義仲でした。
ところが、前述のとおり平安京は飢饉で補給もままらならない。
義仲軍が食料を求めて次第に横暴になっていく一方、後白河法皇は「早く平氏を倒せ」と仰られる。おまけに、義仲は自分が保護していた以仁王の遺児、北陸宮を次の天皇にしようとしますが、後白河法皇は安徳天皇の弟を次の天皇にしようと考え、両者は対立していきます。
「そうじゃ、頼朝にコイツを倒してもらおう」
そう考えた後白河法皇は、頼朝に「早く上洛せよ」と手紙をおくります。これに対し、頼朝は
「解りました。ただし、東国の支配権を認めて欲しい」
と要求。後白河法皇はしぶしぶOKし、頼朝は弟の源範頼、義経を中心とした軍勢を派遣しました。これに対し、義仲は後白河法皇を幽閉。頼朝軍との戦いに備えます。
こうして、平氏を倒すという目的はひとまず置いておいて、源氏のトップをめぐる戦いがスタート。1184(元暦元)年、源義仲は瀬田、宇治で防衛線を張りますが、宇治川の戦いで源義経に率いられた頼朝軍はこれを突破します。結局、義仲は北陸に逃れようとしますが、粟津(現、滋賀県大津市)で戦死しました。
宇治川
この川を渡るときに源義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣争いを行ったところから戦いがスタート。佐々木高綱が先陣の名誉を勝ち取り、義経軍は一気に木曾義仲の軍勢を打ち破りました。
宇治川先陣争いの碑
源義仲(木曽義仲)の墓 (滋賀県大津市 義仲寺)
京都に程近い、滋賀県大津市にある義仲寺にある源義仲の墓。松尾芭蕉も訪れ、自らの墓を遺言によって隣に建立しています。
ちなみに、弟たちが戦っている間、頼朝は自らの政府機能を着実に整備し、政治を行う公文所(=くもんじょ)と、裁判事務を行う問注所(=もんちゅうじょ)を設置しました。公文所の初代別当、つまりトップは、頼朝が京都から招いた貴族の大江広元(おおえのひろもと 1148〜1225年)が任命。問注所の初代執事は三善康信が任命されています。ちなみに、鎌倉幕府の機構については次回で詳しく紹介します。
○平氏、ついに滅亡へ
源氏の間で争っている間に、平氏一門は摂津の一の谷(現、兵庫県神戸市須磨区)で防衛体制を整えていました。
前面は海、背後は断崖絶壁の谷・・・と天然の要害で、「さあ源氏の諸君、どう攻めてくるのか?ムフフ・・・」と構えていたところ、なんと鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる急な坂から、突如として源義経率いる軍勢が登場。不意をつかれた平氏の軍勢は、一門の有力な武将を数多く失い敗走。船に乗って屋島(現、香川県高松市屋島)へわたりました。
そこで、源範頼は九州へ向かって進撃しますが、武器や兵糧の補給が上手くいかず苦戦。
一方、源義経たちは海を渡ろうとしましたが、船があまりないのです。どうやって、屋島に向けて進軍すればいいのか。
1つは、水軍を味方につけることです。しかし、それだけでは海での戦いに勝てるかどうか。ですが、時間が経てば経つほど、平氏は勢力を立て直します。そこで1185(文治元)年、義経は梶原景時の制止を振り切り、阿波国の勝浦(現、徳島市)に上陸。まさか、陸から攻めてくるとは思っていなかった平氏は、またもや敗北し、彦島(現、山口県下関市)まで逃れます。ちなみに、この戦いにおいて源氏方の那須与一は、平氏方が船上に用意した扇の的を遠くから射落とせるか・・・というゲームに挑戦。
船の上ですから、当然のことながら的は動きます。
ですが、見事にこれを射落とし、那須与一は敵味方から大喝采を受けました。
・・・真偽のほどは不明ですが、この時代の戦いって、多少優雅だったということです。
さて、扇を射落とされた平氏は滅亡に向けてまっしぐら。義経たちの進撃は止まらず、さらに水軍を味方に付け、いよいよ決戦。現在の山口県下関市付近で行われた壇ノ浦の戦いでは、本格的な海戦となり、見事に源氏が平氏の軍勢を打ち破ります。清盛の妻、平時子は8歳の安徳天皇を抱えて、海に飛び込み死亡。平宗盛は死にきれずに生け捕りにされ、後に処刑されました。
▲壇ノ浦古戦場跡には、源義経と平知徳の像が建立されています。
こうして、源義経は軍事のエースとしてその名をとどろかせました。
しかし、仮にも大将でありながら真っ先に突っ込んでいく姿は、「手柄を独占しようとしている」と周りから反感を買うようになります。また、天皇家に代々受け継がれる三種の神器のうち、宝剣を平氏から取り戻すことが出来ませんでした。
ところで、平氏滅亡と書きましたが、あくまで平清盛を中心とした勢力の話であり、源頼朝に味方した北条氏や三浦氏、畠山氏など主要なメンバーは関東に所領持つ平氏です。俗に源平合戦とも云われますが、実態は随分と異なっています。
○源頼朝VS源義経と奥州藤原氏の滅亡
さて、義経は「私は鎌倉殿(=頼朝)の弟であり、そして戦いを勝利に導いたの私の功績だ」と自信満々です。ところが頼朝は、自分を中心とした政権を作ろうとしているのに、弟が力を持ってくることは防がなければなりません。そこで、「私の推挙がない者は、勝手に朝廷の役職に任官してはならない」と命令を出しました。そして、義経は頼朝に冷遇されることになります。どう処遇したものか、頼朝も悩んだことでしょう。
当然、義経は不満たらたらです。そこに手を差し伸べたのが、後白河法皇。
「義経、可哀想よのう。よかろう、そなたを検非違使に任命してやろう」
「法皇様〜!」
この動きに対し、当然のことながら頼朝は激怒します!
「法皇が私と義経の仲を裂いて、対立させようとしているのが解らないのか!」
しかし、義経には解らなかったようで、兄が怒っているというので鎌倉に向けて弁明にやってきました。しかし、鎌倉の直ぐ手前にある腰越で、「それ以上、こちらに入るな」と命令され、会うことが出来ませんでした。やむを得ず、義経は弁明書である「腰越状」を執筆。兄には向かう気はまったくないことを切実に訴え、平安京に帰還しました。
満福寺 (神奈川県鎌倉市)
当時の鎌倉への入り口近くにある満福寺。鎌倉入りを拒まれた源義経が逗留した場所で、腰越状を執筆しました。
満福寺 (神奈川県鎌倉市)
手前は義経の忠臣といわれる武蔵坊弁慶が腰掛けたと伝えられる石。
ところが、そんな義経には後白河法皇や、頼朝と対立する叔父の源行家からの甘い言葉が。
頼朝は先手を打っておいたほうが無難と考えたのでしょう。もしくは、あえて挑発したのか、暗殺者を送り込むのですが、撃退されてしまいました。さすがに怒った義経は、後白河法皇に迫り、頼朝討伐の院宣を引き出します。
「法皇様が、頼朝を倒せと命令を下された!」
・・・ところが、味方はあまり集まりません。
一方、源頼朝は北条時政を後白河法皇の下に派遣。法皇に圧力をかけ、逆に義経討伐の院宣を引き出し、全国に守護(軍事・警察を担当)、地頭(土地を支配・管理し、年貢などを徴収)を設置することを認めさせます。実質的に、鎌倉幕府が始まった瞬間でした。
結局、義経は奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って亡命。
ところが、秀衡はまもなく病没し、その子である藤原泰衡が後を継ぎます。泰衡は頼朝からの圧力に屈し、義経を攻め殺してしまいました。そして、その泰衡も頼朝の軍勢の前に敗北し、部下に殺されてしまいます。こうして、栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡し、絢爛豪華な平泉はこれ以後衰退していきました。
そして、後白河法皇も亡くなり、1192年に源頼朝は征夷大将軍に任命されました。よく言われる、「いい国作ろう、鎌倉幕府」というのは、この時のことですが、別に征夷大将軍になったから幕府が始まったわけではありません。頼朝自身は「今日から幕府を開きます!」と宣言したわけではありません。そのため、何を持って鎌倉幕府の始まりとするかは諸説あります。
さて1193年、源頼朝の弟である源範頼は反逆の疑いで伊豆の修善寺にて殺害されてしまいます。頼朝に対して従順な姿勢を取り続けていましたが、それでも疑われてしまったようです。
また、頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇のもとに入内(じゅだい)させることによって、朝廷との結びつきを強化しようとしますが、その工作は上手く行かず、そのうちに大姫が亡くなってしまい、失敗に終わりました。そして1199(建久10)年、源頼朝は死去しました。相模川で橋の供養に出席した帰りに落馬し、重傷を負ったのが原因とされますが、詳しいことは定かではありません。
一族を犠牲にしながらも、武士による政権確立のために奔走した生涯でした。
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