第21回 平氏でなければ人ではない?

○今回の年表

1154年 イギリスでヘンリ2世が即位し、プランタジネット朝が成立する。
1156年 保元の乱。後白河天皇VS崇徳上皇の結果、崇徳上皇方が敗北。
1159年 平治の乱。平清盛、源義朝らを倒す。
1164年 平清盛、厳島神社に書写経33巻を奉納。
1165年 二条天皇、病気のため皇太子の順仁天皇に譲位。六条天皇が即位する。
1167年 平清盛、太政大臣に就任。
1169年〜71年 サラディン(サラーフ・アッディーン)が、エジプトにアイユーブ朝を成立させる。
1170年 奥州藤原氏の藤原秀衡、鎮守府将軍に任命される。
1171年 六条天皇が譲位し、高倉天皇が即位。
1172年 平徳子を、高倉天皇の中宮とする。
1177年 鹿ケ谷の陰謀が発覚する。
1179年 平清盛、院政を停止し、後白河法皇を幽閉する。
1180年 平清盛、大和田泊を大修築。
1180年 後白河法皇の子、以仁王による「平氏打倒」の令旨がでる。以仁王、源頼政挙兵し、敗死。

○海に目を向けた平清盛

 さて、宿敵源氏をコテンパンにたたきのめし、さらに後白河上皇とも太いパイプを築いた清盛は、武士界、公家界双方で君臨することになります。次々と高い官職につき、1167(仁安2)年には太政大臣という最高位にまで上り詰め、一族を各地の有力国司へと次々と任命していき、荘園も拡大していくので、藤原氏にとっては突如現れた強烈なライバルになってしまいました。


 ところが、ただ貴族化していったのかといえばそうではない。清盛は同時に、海外貿易によって利益を上げようと考えます。当時の東アジアは、朝鮮半島では新羅が滅び、高麗がその後継国家となっています。一方、中国では宋(北宋)が、中国東北地方から起こったによって南方に追いやられ、臨安(現在の杭州)を首都にする南宋が誕生していました。

 菅原道真の建議によって、遣唐使は廃止になりますが、民間レベルでは九州の博多(現・福岡市)や大宰府(現・太宰府市)を中心に、こうした国家と貿易が続けられており、沿岸の荘園領主の中には少なからぬ利益を上げている者もいました。ならば、と清盛は、もっと盛大に貿易を行おうと考えたわけです。

 実は親父の平忠盛も、鳥羽上皇の荘園があった肥前国神崎荘(現、佐賀県神埼町)で日宋貿易を始めていました。これが平氏の経済的基盤となっており、もちろん清盛も「貿易って儲かるんだなあ」と学習したんだと思います。しかし、さすがに肥前国は遠い。




 そこで、清盛は九州北部で行われていた貿易を、平安京に近い、現在の神戸で直接行いたいと考えました。そのためには、貿易船を受け入れる体制を整えないといけません。具体的には、瀬戸内海航路の難所であった音戸の瀬戸(現・広島県呉市)を広げて貿易船を通りやすくすること、そして大輪田泊(おおわだのとまり)の修築による貿易港の整備です。大輪田泊は江戸時代末に兵庫港、そして現在は神戸港として日本有数の港として発展していますので、清盛の目の付け所のよさをうかがい知ることが出来ます。

 では、具体的にはどんな貿易をしたのでしょうか。
 日本からは黄金、刀剣、磁器、漆器などが輸出されます。
 一方、宋からは陶磁器、宋銭、書物、香料、織物などが輸入されました。このうち、非常に重要な意味合いを持ったのが宋銭。つまり、宋で発行されている通貨です。何でこんなものを輸入したのかと言うと、日本でそのまま宋の通貨を流通させてしまおう、というわけです。当時の日本で銅は貴重だったため、流通している国産の銅銭が少なかったんですね。

 そこで外国から直接、通貨を買ってしまえ!そうすれば、みんなが一般的に代金の支払いで使うことが出来る。
 この考えは大ヒットし、宋銭を利用する形で、ようやく貨幣経済が定着していきます。
 これって、平清盛の大きな功績の1つだと私は思います。



三十三間堂
 1164(長寛2)年12月、後白河上皇が平清盛に造営させた蓮華王院が完成。その本堂が、三十三間堂です。平安末期、救いの無い時代である末法の世になるといわれ、救いを求めて人々は多くの仏像を造らせましたが、ここには1001体の千手観音が安置されました。
 現在の建物は、1249(建長4)年に焼失したことに伴い、1266(文永3)年に再建されたもの。

厳島神社
 平清盛と縁の深い安芸国(現、広島県)の厳島神社。厳島神社を信仰したことが一族繁栄につながったと考えた清盛は、こちらも1164(長寛2)年に平家納経と総称される経典を奉納しました。巻物の表紙、見返しが金銀で装飾されるなど華麗であり、平安末期の美術工芸品としても一級品。

○大きな力を持つ平氏

 こうして政治力、軍事力、経済力で圧倒的な力を持つようになった平氏一族。しかし、次第に既存の貴族たちから反発の声が上がるようになっていきます。そんな声はお構いなし、と清盛は娘の平徳子(建礼門院)高倉天皇(位1168〜1180年)の妃とし、のちの安徳天皇を生ませ外戚となりました。この絶頂を表現する言葉に、平時忠(1128〜89年)の以下の言葉があります。

「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし。(平氏ではない人間は、人間ではない)」
*一般には、「平家にあらずんば人にあらず」と表記されていますね。

 ちなみに、時忠は姉の平時子が清盛の妻となり、妹の平滋子(建春門院)が後白河上皇の妃となっていて、大きな権力を持っていました。まあ1161(応保元)年には、ちょいと焦って滋子が生んだ皇子(後の高倉天皇)を天皇にしようとし、出雲国に流されたこともありますが・・・。なお時忠は、平氏ではありますが、清盛が桓武天皇の子、葛原親王の三男の高望王を祖とするのに対し、時忠は葛原親王の長男の高棟王を祖とし、中流の公家として都にいた一族の出身です。

 さて、平氏政権の特徴を箇条書きで書くと、次の点に集約できます。
 1 一族で高位・高官を独占
 2 藤原氏同様、天皇家の外戚となることで公家社会に強い影響力を持つ
 3 全国に約500箇所の荘園や、30カ国ほどの知行国を所有し、大きな経済的基盤を持つ
 4 日宋貿易で大きな利益を上げた
 5 部下(家人)を地頭(じとう)として任命し、各地に派遣して統治
 6 軍事力を背景とした政権(寺院などを弾圧)

 公家化した政権と誤解されがちですが、実際には様々な性格を持っていました。
 特に、経済に目を付けたのは非常に特筆できることだと思います。

 ところで、前述のように太政大臣になった清盛でしたが、その翌年(1168年)に重病にかかり、病気が治るようにと出家し、頭を丸めました。これに併せ、当時は仲の良い友達だった後白河上皇も出家。そのため、ここからは後白河法皇と表記します。

○奥州藤原氏

 ちなみに少し話はずれますが、1170(嘉応2)年には、奥州藤原氏のボスとして、東北で絶大な権力を持っていた藤原秀衡(1122?〜87年)が、鎮守府将軍に任命され、朝廷から正式に東北の支配権を認められたような形になります。これに対し、右大臣の藤原(九条)兼実(1149〜1207年)は「乱世の元だ」と嘆きました。

 藤原秀衡は、もちろん京の藤原氏ともつながる血筋を持ってはいますが、都の貴族には野蛮人のように映っていたわけですね。しかし、奥州藤原氏の首都である平泉は、まさに絶頂期にあり、それは京に匹敵するほどの繁栄だったといわれています。今の北海道や中国との交易もしていたようです。



▲藤原秀衡の父、基衡が建立した毛越寺(もうつうじ)の庭園と伽藍の復元図

○打倒平氏!の陰謀発覚

 1177(治承元)年、平安京の東山、鹿ケ谷(ししがたに)にあります俊寛(法勝寺の偉いお坊さん)の別荘で、秘密の会合が開かれました。出席したのは、大納言の藤原成親西光法師(成親の弟)、俊寛など。特に藤原成親は、妻が平清盛の娘であり、さらに清盛の嫡男である重盛の子、平維盛(たいらのこれもり)に自分の娘を嫁がせているという、平氏と非常に関係の深い人物であったにもかかわらず
「俺が就任したかった、左近衛大将の位を、重盛のヤローが持っていきやがった!」
 と、恨み爆発。後白河法皇のお気に入りの近臣だった事もあり、「後ろ盾はある。平氏を倒してやるぜ」と企んだ次第です。後白河法皇自身も、「それは面白そうだ」とひょいひょい、お忍びで会合に参加したこともあったとか。ところが、味方に付けたはずの摂津源氏の多田行綱が裏切り、清盛に報告。
 「ゆ、許せん・・・!!」

 そもそも、藤原成親は平治の乱で藤原信頼に味方し、死罪になるところを、平氏と姻戚関係にあるというので助けられ、復職したようなものでした。清盛にしてみれば、「恩をあだで返しおって!」という気持ち、ごもっともです。
 
 西光法師とその息子たちは斬首。藤原成親は備中国に配流が決定(もっとも、途中で斬首)。そして、俊寛は九州の南にある鬼界ヶ島という、名前を聞くだけでもぞっとするような場所へ配流されました。おまけに、この翌年に先ほどの安徳天皇が生まれ、この事件の関係者のほとんどが赦されましたが、俊寛だけは赦されず、鬼界ヶ島で世を去りました。

 これを、鹿ケ谷の陰謀といいます。
 そして、後白河法皇による平氏への嫌がらせが本格的にスタートします。

 まずは、清盛の娘だった平盛子が亡くなると、彼女が夫(藤原基実)の死後に管理していた所領を「没収じゃ!」
 さらに清盛の嫡男、平重盛が42歳で亡くなると、彼の所領であった越前を「没収じゃ!」 などなど・・・。

 おまけに、とうとう後白河法皇自身が清盛らを打倒するという陰謀を計画中、という不穏な声まで聞こえるようになってきました。清盛にしてみれば、自らが危なくなっていきます。やむを得まい、と1179(治承3)年、清盛は後白河法皇を逮捕し、鳥羽殿に幽閉しました。しかし、平氏の下で没落した人々からの恨みと反発は強く、これ以後、打倒平氏の動きが加速していくのです。

○カラオケ好きの(?)後白河法皇

 ところで、後世になってこの時代の様々な政治的な動きに介入した後白河法皇は、何か得体の知れないような怪物のように評価されることになりますが、その実態といえば歌が大好きなお騒がせオヤジだったようです。若い頃から、今様(いまよう)といわれる、七五調四句の流行歌に熱中し、周囲から「あいつはバカだ」と散々な評価だったとか。

 しかし、歌の研究家としての後白河法皇は、「梁塵秘抄」という研究本を執筆し歴史に名を残すことになります。
 なんと全20巻!! お疲れ様でございました。

 政治の世界では、うまく立ち回っているように見えて、例えば平治の乱の際に、お気に入りの藤原信頼を見殺しにしたり、のちに源義経を使って源頼朝を倒そうと企んで、結局は自ら義経討伐の命令を出す羽目になるなど、肝心なところで決断が出来ず、周りに流されまくっている状況でしたが・・・。

○増えすぎた藤原氏、ならばこうします。

 さて、この時代になると藤原氏も膨大な数になり、右も左も藤原氏という状況になります。
 これでは、誰がどこの家に藤原氏なのかがわからない。そこで、住居がある地名を家名とし、藤原氏の中でも最も格の高い家は、近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の、通称「五摂家」に分立します。以後、明治時代まで関白、摂政はこの5つの家で独占しました。太平洋戦争時の首相である、近衛文麿はもちろん、五摂家の出身ということになります。

 そのほかにも、三条家・西園寺家・四条家・勧修寺家・日野家なども登場。さらに、武士になった家もあり、有名どころでは先ほども登場した奥州藤原氏や、関東の小山氏、宇都宮氏、比企氏、それから蒲生氏などがいます。特に、平将門の乱で活躍した、藤原秀郷の子孫には武士になった連中が多いみたいですね。

 ついでに書いておきますと、この時代になると源・平・藤・橘という4つの代表的な姓とは別に、特に武士は自分の領地のある地名を、「苗字」(みょうじ)として採用していきます。ですので、例えば小山氏の場合、今の栃木県小山市を領有したことから、苗字を「小山」とし、さらにそこから分家し、現在の茨城県結城市を領有することになると、その子孫は結城氏を名乗る・・・といった具合です。

 今までに登場した人物で例を挙げれば、鹿ケ谷の陰謀で登場した多田行綱。彼は源氏ですので、姓名で書けば、源行綱というのが正しいわけですが、通常は苗字+名前で呼ばれるようになるため、今の兵庫県川西市多田(当時は摂津国川辺郡多田)を領有したことから、多田行綱・・・となるわけでございます。

 な〜んてやっているうちに、地名の数だけ苗字が誕生していき(笑)、うちの先祖は藤原氏だとか、あ、やっぱり平氏だったかもしれない・・・ウソウソ、本当は源氏だったんだよなんて、家の格を上げるために臨機応変に先祖を脚色する家も沢山出てくるわけでございます。

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