第52回 新たな時代、蘭学花開く田沼時代
○今回の年表
1745年 | 徳川吉宗、将軍位を徳川家重に譲る。 |
1748年 | モンテスキューが法の精神を著す。 |
1746年 | 七年戦争。 イギリス・プロイセン(フリードリヒ大王)VSオーストリア(マリア・テレジア)・フランス・ロシアなど |
1758年 | 宝暦事件。尊王思想を唱える竹内式部が捕らえられ、公家17人が処罰。 |
1760年 | 徳川家治が第10代将軍となる。 |
1762年 | ルソーが社会契約論を著す。 |
1767年 | 田沼意次が側用人となる。 |
タイのアユタヤ朝が滅亡。 | |
1769年 | (イギリス)ワットが蒸気機関を改良。 |
1772年 | 田沼意次が老中となる。 |
1774年 | 前野良沢、杉田玄白らが解体新書を著す。 |
1775年 | アメリカ独立戦争(〜83年) |
1776年 | 平賀源内、エレキテルを完成。 |
アメリカ独立宣言。 | |
1783年 | 工藤平助が赤蝦夷風説考を著す。司馬江漢が銅版画を創始。 |
1784年 | 若年寄の田沼意知が佐野政言に暗殺される。 |
1785年 | 田沼意次、蝦夷地調査隊を派遣。 |
1786年 | 田沼意次が失脚する。 |
1787年 | 徳川家斉が第11代将軍となる。松平定信が老中に就任。 |
アメリカ合衆国憲法が制定。 |
○再び将軍様は飾り物へ?
前回は「江戸と大坂」をテーマにお話しましたが、徳川吉宗以後の幕府を見ていくことにしましょう。吉宗は生前である1745(延享2)年、将軍位を長男の徳川家重(とくがわいえしげ 1712〜61年)へ譲り大御所となります。ところが、この徳川家重という人物、どうも障害があったようで言語不明瞭、さらに猿楽(能)を好きで文武を怠たる、酒と女にうつつをぬかし・・・という状態。老中の松平乗邑は公然と、「弟の徳川宗武様が将軍となるべきである」と運動を展開。
戦国時代であればバカ殿は滅亡を招くきっかけになりますが、平和な時代では後継者争いが発生することのほうが一大事。そこで吉宗は、かつて徳川家康が徳川家光を将来の後継者として指名したときと同じ理由である、長子相続を元に、生前に将軍位を家重に譲ったわけです。
治世の初期は徳川吉宗が引き続き政治を主導し、吉宗死後は大規模な百姓一揆に悩まされながらも幕府の組織でなんとか乗り切ったといった感じ。そして徳川家重の言葉は、次第に家重が小さい頃から小姓として仕えた、側近の大岡忠光(おおおかただみつ 1709〜60年)しか理解出来ないという状況になり、家重は自分のことを理解してくれる忠光を側用人として取り立てます。せっかく徳川吉宗が側用人制度を廃止したのに、また逆戻りです。
さあ、将軍様の言葉は何を言っているのか普通の人にはわからず、ただ自分しか理解出来ない。しかも、側用人という権力を行使できる地位まで手に入れてしまった。もし貴方が大岡忠光の立場だったら・・・? そりゃあ、何でも「上様の命令である」として、やりたい放題ですよね。
な〜んて考えちゃうものですが、大岡忠光は意外にも真面目な官僚で、決して不正に私服を肥やしたり、気に食わない人物を蹴落としたり、という人間ではなかったそうです。ちなみに、あの大岡忠相の親戚です。
ところで治世の末期に当たる1758(宝暦8)年には宝暦事件(ほうれきじけん)というのが起こります。これは、朱子学者・神道家の竹内式部が、京都で若手の公卿に「幕府がなんだ!朝廷の政権回復を!」と講義していたことが告発され、処罰された事件。江戸幕府による尊王論弾圧でした。もっとも、単に公卿間の争いが発端だったとの話もあります。
○御三卿の成立
ところで、徳川家康は将軍家の後継者が全滅した場合に備え、御三家という制度を確立。これに基づいて徳川吉宗は紀州藩から将軍家を相続したわけですが・・・出来れば、これから後継者問題が発生したときは、自分の血筋から将軍が出て欲しいですよね。そこで吉宗、さらに家重も、息子を使って御三家に代わる新たな将軍家の相続資格のある家を創設することにしました。この結果、成立したのが御三卿と総称される3つの家。すなわち
田安徳川家(田安家)・・・初代は徳川宗武(徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家)・・・初代は徳川宗尹(徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家)・・・初代は徳川重好(徳川家重の次男)
御三家と決定的に異なるのは、この3つの家は独自の領土は実質的に持たず、幕府から10万石が支給されました。また、後継者がいなくなっても取り潰しとなることは無く、時期を見計らって他から養子を迎えることもありました。清水家に至っては、さっそく重好の代で子孫が無く断絶し、第11代将軍家斉の子である敦之助が4歳で再興するも直ぐに断絶し・・・と、めまぐるしく当主が変わったり、いなくなったり、の状況です。
○異色の政治家? 田沼意次
続く10代将軍である徳川家治(とくがわいえはる 1737〜86年)の治世で、中心的な役割を果たしたのが田沼意次(たぬまおきつぐ 1719〜88年)という人物でした。彼の父、田沼意行(もとゆき)は紀州藩の出身で、徳川吉宗が8代将軍に就任するときに江戸幕府に転勤し、600石の旗本となりました。そして田沼意次は15歳で、吉宗の長男で後に9代将軍となる徳川家重の小姓になります。そして家重が9代将軍となると、意次は御小姓組番頭となり、禄高も2000石へ。1751年にはさらに御側役、その4年後には5000石へ加増され、この時32歳。1761年に家重が亡くなったとき、彼は家治に「意次の能力は高いから是非使いなさい」と遺言しました。
徳川家治も「彼はなかなか有能だ」と思ったらしく、田沼意次は1767年には側用人に登用され、なんと2万石に。そしてその2年後にはなんと老中格になり、2万5000石へ。1772年には老中にもなり、最終的には遠江相良5万7000石へ出世するという破格の出世コースに乗りました。
当然、彼に対して「大した家柄でもないのに、うまく出世しやがって・・・」「あいつはワイロをたくさん受け取っているんだ」と恨み、ねたみの声も出てきます。そういう場合、手っ取り早く批判の声を押さえつけるには、有力者を味方につけるのがベターですね♪ そこで彼は、大奥の信頼を得ることに腐心します。それから、譜代大名などからの反発を軽減するために、一橋徳川家当主の徳川治斉(はるさだ)を味方につけます。
もっとも、それは田沼意次にとって最後は命取りとなり失脚してしまうのですが、それはまた後ほど。そろそろ、田沼意次がどんな政策をやったか見ていきましょう。時代的な背景や、いわゆる抵抗勢力の妨害で成功しませんでしたが、荻生狙来と並んで、幕府には数少ない経済通。重商主義政策をとるという、先見性の持ち主でした。
a.予算システムの導入
まずはこれですね。意次は、予算という考えを導入します。 元々幕府は裕福なため、というべきか、この時代になってもまだ「徳川家」という家庭的なノリで政治をやっていたというべきか、何か必要になったら、その度に金蔵からお金を引っ張り出してきていました。が、当然財政が悪化するとこんな事はやっていられない。 そこで意次は、前もってどこの部門にいくら予算を使うか、きちんと予定を立てさせることにしました。
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