第54回 改革!改革!教育!!

○はじめに

 さてさて、これまで江戸幕府を中心として見てまいりましたが、もちろん日本各地の藩でも様々な政治が行われ、そして次第に苦しくなる藩財政の立て直しに迫られ、様々な改革が行われていきました。成功したもの、ある程度の効果はあったもの、大失敗したもの、色々ありますが、ちょっと時代順に見て行きましょう。

 そして各藩では優秀な人材を育成するため、次第に独自の学校である藩校を設立していきました。
 これについても、まとめて見ていきたいと思います。

1.土佐藩山内家の場合 (江戸時代初期)

 ○中心人物:山内忠義(やまのうちただよし/藩主)&野中兼山(のなかけんざん)

 ▼改革の発端
 関ヶ原の戦いでいち早く徳川家康への味方を表明した功績で、掛川6万石から土佐20万石へ一気に加増された山内家。ところが実際のところ、当時の土佐は未開発地が多くて農作物の生産性が低く、旧大名家である長宗我部家の家臣団との争いや、大阪冬の陣・大阪夏の陣への出陣、さらに高知城の築城などで多額の出費。

 2代藩主となった山内忠義は、もう早速財政難に陥ってしまいました。そこで2代藩主の山内忠義は、野中兼山に藩政改革を命じます。

 ▼内容
 ・新田開発と、これに伴う用水路の建設など大規模な土木工事の実施
 ・森林伐採に対し伐採量の制限と、輸出用の木材の積出しに対する税金の賦課(ふか)
 ・港湾の整備により、特産品の輸出力を強化
 ・特産品として和紙の生産を奨励
 ・鯉、鱒、白魚などを他地域から取り寄せて放流。実質的に土佐で養殖を行う。

 ▼結果
 朱子学を信奉する野中兼山は、自分にも他人にも非常に厳しい人物だったとか。「土佐藩を良くするんだ」と、大規模な土木工事には農民も駆り出され、そして急ピッチな工事は苛烈なものだったらしく、「さすがに大小便ぐらいは許してくれる」という逸話があるほど、多大な負担を彼らに与えることになります。

 そして1656(明暦2)年に山内忠義が病気で隠居すると、チャンス到来!と、重臣の深尾重昌や孕石元政らは巻き返しを図り、1663(寛文3)年に第3代藩主、山内忠豊に野中兼山への弾劾状を提出。これが受理され、野中兼山は失脚して失意のうちに亡くなり、野中一族に対する粛清は苛烈なものでした。遺族は宿毛(すくも/現、高知県宿毛市)に流罪になるなど全て処罰され、子供は結婚を禁止されて家が断絶させられたとか。


 結果的に、野中兼山の政策によって土佐は豊かになっていきました。しかし、実際に働かされている方としては苦労も多かったわけでして・・・。

2.加賀藩前田家の場合 (江戸時代初期)

 ○中心人物:前田綱紀(まえだつなのり/1643〜1724年 藩主)

 ▼改革の発端
 父の急逝により3歳で藩主となった前田綱紀。祖父で第3代藩主だった前田利常の教育を受けながら立派な藩主として成長した彼は、財政的な余裕はあったものの、現状に甘んじず加賀藩の将来を見据え、立ち遅れていた農政改革など各種制度の整備、さらに飢饉の救済なども企画立案していきます。

 ▼内容
 ・農村支配体制の十村(とむら)制度を強化。
  *元々は前田利常が作ったシステムで、地方の有力な農民を十村として採用し、農村の現場監督を委任。
    これにより納税を円滑に進め、大きな藩である加賀藩の農村支配が、地元の現場主義で行えるようにします。
 ・改作法を施行し、農民の借金の帳消しや、農具を購入するためなどの銀と、当座の食料(作食米)貸付によって、農村の貧 困を改称し、じっくりと耕作に取り組めるようにする。
 ・定免制の採用により、豊作、飢饉にかかわらず年貢の税率を固定する。
  (これにより、税率以上の収穫は農民の手に渡ることになり、彼らのやる気を出し、藩は安定した収入を手にします。
   ただ、設定された税率は高めですし、飢饉じゃなければ、みんな歓迎なんですけどね・・・。)
 ・藩主独裁が可能なように組織を改革し、門閥重臣層の力を抑えた職制を整備。
 ・文化事業に力を入れ、膨大な量の資料収集や貴重な文献の保存を行う。

 ▼結果
 今回は前田綱紀を紹介しましたが、加賀藩は前田利常、前田綱紀、前田吉徳と立て続けに名君を輩出し、様々な改革を実行していきました。しかし、加賀100万石の財政運営は並大抵の容易さではなく、大藩に見合った面子を維持するための出費なども多い。


 加賀100万石の運営は、肥大化した組織を動かすために非常に大変なものだったでしょう。江戸時代初期には、実に良い藩主に恵まれたものです。
 前田綱紀の三男である前田吉徳は、御居間坊主の大槻伝蔵という身分の低い家臣の才能に目をつけ、コンビで財政再建に奮闘し、大きな効果を挙げるところまでは良かったものの、前田吉徳の没後に門閥家臣たちの巻き返しが起こり、加賀騒動といわれる権力闘争にまで発展。

 これにより大槻伝蔵は自害し、加賀藩はこれ以後、幕末に至るまで目だった動きは無く、衰退の一途をたどるのでした。

3.熊本藩細川家の場合 (江戸時代中期)

 ○中心人物:細川重賢(ほそかわしげかた/1720〜1785年 藩主) 、
         堀勝名(ほりかつな/通称:平太左衛門)、蒲池正定(かまちまさただ)

 ▼改革の発端
 こちらも財政が危機的な状況で、参勤交代の費用が捻出できずに出発が遅れることもあったほど。そんな中、5男として生まれながらも兄たちが次々と亡くなり、藩主となったのが細川重賢でした。

 ▼内容
 ・行政機構を整備し、藩主の命令が届きやすいようにする。
 ・新興商人であった加島屋と手を組み、資金を提供してもらう一方で、その資金で櫨(はぜ)や蝋(ろう)などを特産品として産業育成。そして、藩内で出来た製品は加島屋を通じ大量に販売。これにより互いに利益が一致。
 ・検地の一種である地引合(じびきあわせ)による隠田摘発と、定免制の実施。
  *ただし、定免制は農民に過度な負担がかからないよう15年かけて慎重に実施。
 ・刑法草書を策定し、死刑か追放刑・・・という厳しい刑罰に変えて、鞭打(むちうち)刑や懲役刑へ改める。
  *追放されたものは生活に困窮し、再犯の恐れがあるため。
    鞭打刑については、堀勝名が自ら身をもって体験し、その回数を決定したとか。
 ・熊本城内に藩校時習館を設立し、許可が得られれば身分に関係なく入校可能に。奨学金制度もあり。
 ・医学教育にも力を入れ、藩校再春館を設立して医学生を養成。再春館は熊本大学医学部の前身。


 通常では藩主の座など絶望的であり、貧乏生活を送ってきた細川重賢だからこそ、様々な改革を企画&立案が出来たといえます。必ずしも庶民感覚が必要とは言いませんけど、色々な立場を経験しているというのは重要だと思います。
 ▼結果
 これにより治世の後半では熊本藩の財政は大きく好転。次に紹介する上杉鷹山と並び、優れた名君として注目すべき存在です。商人と手を組んで・・・というのは、一歩間違えると癒着になってしまいますが、この場合は互いにWIN−WINの関係になることに成功し、上手くいった例というべきでしょう。また、教育や刑法改正は目を見張るものがあります。

 また、細川重賢は堀勝名を深く信頼して、改革の実行役として活躍させ続けます。堀勝名に対する誹謗中傷があったときには、堀勝名を呼んで反論の文章を書かせて、誹謗中傷してきた家臣を逆にやり込めたとか。良い仕事をするためには、「この人のためなら」と思える上司にめぐり合いたいものですね。

4.米沢藩上杉家の場合 (江戸時代中期)

 ○中心人物:上杉治憲(鷹山)(うえすぎはるのり・ようざん/1751〜1822年 藩主)
         竹俣当綱(たけまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)

 ▼改革の発端
 大河ドラマ「天地人」で久しぶりに本格的な注目が集まる上杉家。その主人公である直江兼続と、殿様である上杉景勝は、関が原の戦いで敗北し、会津120万石から米沢30万石に領地が大幅削減されるも「ついて来る奴はみんな来い!」と、人員削減を一切行わず、全員で痛みを共有。そして、米沢を豊かにすることで財政的な負担を、ある程度は軽くします。

 ところが、第3代藩主上杉綱勝が嗣子の無いままに急死したことから、本来は断絶・・・のところを、特別に15万石で上杉綱憲(吉良上野介の息子)が養子として相続するときことが承認。しかし、これにより米沢藩の財政は益々厳しくなり、とうとう第8代藩主の上杉重定は政治に興味が無かったこともあり、「米沢藩を幕府に返上する!」とまで言い出します。

 そんな中、遠い親戚(日向高鍋藩主・秋月家)から第9代藩主として迎えられたのが、17歳の上杉治憲。隠居後の上杉鷹山(ようざん)という名前の方が有名な彼は、改革の初期は譜代の家臣たちからの猛反発に遭い、クーデターまで起こされますが、上杉重定が治憲を擁護し、援護射撃。反対派は処罰され、改革が進められていきます。

 ちなみに、上杉重定にはタップリと隠居のための費用が支出されていましたが、上杉治憲は歳出削減の手をつけませんでした。そんなわけで、上杉重定にとって見れば、自分は昔と同じく贅沢をしながら、勝手に藩政改革が進んでくれるというわけ。上杉治憲には頑張ってもらわねばなりません。援護射撃をするのは当たり前のこと。

 「いいなあ。あいつだけ贔屓しやがって」と不満が出ないよう、痛みは全員で共有するのが理想ではありますが、目的を実現するためには、奇麗事だけではなく、やはり有力者に対する政治的根回しは重要、という例。全てがパーになっては、元も子もありません。

 ▼内容
 ・自ら倹約を行なうなど財政支出の削減を行い、倹約を奨励。
 ・自ら開墾を行い、収益が上がると家臣も農民もみんな集めてパーティー。藩内一丸となって農業生産力を向上。
 ・漆、桑、楮、紅花、藍の栽培行ない、米沢藩の特産品を生み出し、その利益で財政再建。
 ・細井平洲(ほそいへいしゅう)を師に迎え、藩校興譲館を再興させ身分を問わず学ばせ、人材を育成。

 ▼結果
 産業の育成、人材の育成というのは時間がかかります。実際、彼の政治の前半は思うように成果が上がらず、実質的に失敗に終わっています。しかし、治世の後半で成果が見え始め、飢饉の時も餓死者が出なかったほど。そして彼の死後になって、次々代の上杉斉定の時代に借債を完済しました。

 上杉鷹山という名前は、地元では名君として昔から尊敬を集めていますが、アメリカのケネディ大統領が最も尊敬する日本人として答えたという逸話から、爆発的に改革者としての人気を集め今に至ります。読売新聞が2007年の全国首長アンケートで理想のリーダーを尋ねたところ、上杉鷹山が徳川家康を上回り1位だったとか。


 米沢城内にある上杉鷹山公の像。彼の言葉に
 「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」
 というものがありますが、まさに真理をついた名言です。
 個人的に上杉鷹山は江戸時代でも屈指の名君だと思いますが、同時に危機的な財政を再建するためには、長い時間をかけて粘り強い努力を行うこと、長期的な視野に基づいた企画と実行力が必要なことを示してくれます。首相が漢字を1字読み間違えたことを、鬼の首を取ったかのように批判することに余念がない、腐りきったマスコミが待ち構えている昨今、こんな改革が出来るのでしょうか。

 ちなみに、この時代でありながら上杉鷹山はこのようなことを言っています。
一、国家は先祖より子孫へ伝えていく国家だから、私有すべき物では無い
一、人民は国家に属したる人民だから、私有すべき物では無い
一、国家人民の為に立てた君主であり、君主の為に立たた国家人民では無い

 これは伝国の辞(でんこくのじ)といって、上杉鷹山が次期藩主の上杉治広に対し、家督を譲る際に申し渡した藩主としての心得であり、これ以後は上杉家の家訓となりました。

5.薩摩藩島津家の場合(江戸時代後期)

 ○中心人物:調所広郷(ずしょひろさと/1776〜1849年 家老)

 ▼改革の発端
 当時の薩摩藩は500万両もの借金を抱えており倒産寸前。そこで「財政再建、ヨロシク!」と抜擢されたのが調所広郷でした。これまで見た改革は藩主主導ですが、こちらは家老主導です。

 ▼内容
 ・借金先の商人たちを脅迫し、2085年まで約250年にわたる無利子分割払いを強要
  (・・・しかも明治維新後に、債務は無効に)。
 ・奄美大島・徳之島・喜界島(きかいがしま)で生産される黒糖の生産を強化し、専売により多額の利益を上げる。
  *現地の農民たちへ苛酷な取立が行われていたといわれ(誇張されている面も多いと思いますけど)、全てが調所広郷の責任のごとく扱われています。
 ・特産品の生産を奨励。
 ・琉球王国を介して、中国(清)と密貿易を行い利益を上げる。

 ▼結果
 出だしからダーティーな改革の調所広郷ですが、財政再建と薩摩藩の産業生産力向上に成功し、官僚として超優秀、なんと250万両もの蓄財を蓄えることに成功します。

 残念ながら、調所広郷は幕府から密貿易の罪を追及され、服毒自殺という責任をとり、薩摩藩の空気は悪いことは全部彼のせいにされてしまう傾向に(恩知らずな方ばかりです)。しかし、彼の蓄えた資金は、幕末維新で薩摩藩が軍事力を一気につけて、一気に飛躍するきっかけとなります。調所広郷がいなければ、薩摩藩は幕末に何の活動も出来なかったことでしょう。今の日本もないといって過言ではありません。

6.長州藩毛利家の場合(江戸時代後期)

 ○中心人物:村田清風(むらたせいふう/1783〜1855年 家老)

 ▼改革の発端
 こちらも借金で首が回らなくなっていた長州藩。さらに1831年の防長大一揆をはじめ、一揆が頻発しており農村も崩壊状態でした。そこで藩主の毛利敬親(もうりたかちか)は「そうせい侯」とバカにされるほど、政治に消極的な一方、経済や海防にも詳しい村田清風を重用し、彼に改革を一任します。自分で余計な口出しをしない方が成果が上がると感じたのでしょう。村田清風も、その期待に応えます。

 ▼内容
 ・37ヵ年で借金を返済することを、債権者に強引に承知させる(37ケ年賦皆済仕法)。要するに、期間は大幅に短いですが薩摩藩と似たような方法ですね。
 ・藩士の借金は藩が肩代わりすることで、藩士の生活を安定させる。
 ・特産物である蝋の専売制をやめて、商人に自由な取引を許可。そこから上がった利益に税金を課して、藩の収入とする。
 ・豪商の白石正一郎らを登用し、下関に諸国の貨物に資金を貸しつける越荷方(こしにかた)を経営し、利益を上げる。
 ・軍備の改革と充実のために、江戸に武器庫を建設。
 ・藩校である明倫館の拡大のほか、隠居先に私塾「尊聖堂」を開いて自ら人材育成。

 ▼結果
 村田清風の一連の改革により長州藩の財政は好転し、さらに教育の充実はもちろん、軍備の強化にまで手をつけ、長州藩が強い藩となる礎を作り上げました。しかし、借金の踏み倒しに近いやり方と専売の自由化によって既得権益を失った商人たちと改革反対派が手を結び、村田清風は失脚。晩年に再び中枢に返り咲きますが、その直後に病死してしまいました。

7.まとめ

 以上、個人的に注目した6つの改革例を御紹介しましたが、如何でしたでしょうか。ちょっと単純化して書いた面もあるので、本当であれば、例えば一口に産業育成といっても、その方法論や取り組みの経緯には様々なケースがあり、もっと詳しく見たいのも山々ではありますが・・・。

 また、高い理想で改革をスタートしても、既得権益を奪われることに反発した家臣たちに潰されて改革に挫折した例や、松江藩の松平治郷(まつだいらはるさと)のように、財政再建に成功した途端に、今度は茶器マニアとしての才能を遺憾なく発揮して、多額の資金を使って諸国の名品を買い集めてしまうような例もあります(もっとも、これは名品の散逸を防いだ上に、松江を一大文化都市にしたというプラスの面も大きく、単純に善悪では割り切れません)。

 どこかの藩で改革に成功したから、そのやり方を真似してしまえ!でも成功するでも無し。経済面に注目するか、文化面に注目するか、あるいは儒教的立場から・・・など立場が違えば評価が全く異なることもあります。ともあれいかに、周りの反発を抑えながら組織を改革し、産業を育成し、財政を豊かにし、何より少しでも多くの人が幸せになれるか、は古今東西、永遠の課題です。

8.各地の藩校

 さて、既にいくつかは出ましたけど、優秀な人材を育成するためには、優れた学校設備も必要。現在でも、かなりの数が地方の名門学校として存続しており、また当時の建物が残っているところもあります。いくつか御紹介しましょう。


日新館
 5代藩主松平容頌の時に藩士の教育振興を目的に建設されたもの。現在は当時とは別の場所に復元された建物ですが、その代わり学校の全容が非常によく解ります。

日新館
 机を並べて儒学などを勉強するのはもちろんですが、ここでは軍事についても学びあいました。

日新館
 また、日本で初めて水泳の練習のためにプール(水練場)を設置。なんと甲冑を着けて泳ぐ訓練も・・・。

弘道館
 第9代藩主の徳川斉昭によって1841(天保12)年に三の丸へ創設された水戸藩の藩校で、武芸一般から医学・薬学・天文学・蘭学まで様々な学問が教えられました。現在も正庁、至善堂、正門の建築が残り、国の重要文化財に指定されています。最後の将軍、徳川慶喜もここで勉強しました。

閑谷学校
 1670(寛文10)年、岡山藩主の池田光政が建てさせた日本最古の庶民学校。なんと領内の藩士の子弟はもちろん、庶民もOK、それどころか他領の者も入学を許したとか。この雰囲気を見てお分かりの通り、学問をするには最適の静寂な環境です。また、池田家が岡山を去っても運営できるよう、藩財政と切り離して、独自に収益が上がるようにしていました。
 このほか、秋田の明徳館、鶴岡の致道館、米沢の興譲館、名古屋の明倫堂、萩の明倫館、熊本の時習館などが有名。

 また、藩による学校のほかにも、庶民を対象にした個人による寺子屋が江戸時代後期になると爆発的に増加。その他にも、大阪の適塾(緒方洪庵)、萩の松下村塾(吉田松陰)、長崎の鳴滝塾(シーボルト)など、優れた人物による私塾は、日本を動かすほどの人物を多数排出しています。


松下村塾
 大変小ぶりな建物ですが、ここから久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋などを輩出し、彼らは幕末から明治にかけて活躍していきます。 (撮影:リン)
参考文献
江戸大名 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
新詳日本史(浜島書店)
読める年表日本史(自由国民社)
ジャパンクロニック 日本全史(講談社)
江戸三〇〇藩バカ殿と名君 (八幡和郎著/光文社新書)
結論!日本史 古代〜近代編1 (石川晶康著/学研)
三隅町立村田清風記念館ホームページ http://ww5.tiki.ne.jp/~misumici/memorial_hall/memorial.htm
岡山県備前市「閑谷学校」 http://www.city.bizen.okayama.jp/kankou/guide/bizen/shizutani.jsp

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