第59回 ペリー来航と日本の開国

○元々はペリーが来る予定は無かった?

 だいぶ横道にそれましたが、ようやく本編へ話を戻します。
 さて、これまでに見たとおり松平定信の時代の頃から、オランダや明の船を除いた外国船が、日本近海に次々と出没するようになり、限定的ながらも幕府との接触もありました。しかしながら、いずれも通商を行うまでには至らず、幕府はいずれも追い返していました。

 ところが、蒸気機関の登場などによる産業革命を進めたヨーロッパ列強各国は、国外の市場や植民地の獲得を目指して、次々とアジアやアフリカへ進出してきました。琉球王国にも1816年、イギリス艦隊が来航し、さらにフランス、オランダ、アメリカ、ロシアと次々と来航しています。大小含めるとかなりの数があったようで、庶民といえば外国船や、漂流した外国人の見物に、外国船をかたどった菓子の販売など、意外とのびのびとやっていたようです。

 そして、イギリスはインドを支配下にほぼ治め、さらに1839〜42年にはアヘン戦争で清(しん)を屈服させ、南京条約で5港開港、香港の割譲、没収アヘンや戦費の賠償を認めさせたことは、日本の知識人の間に大きな衝撃を与えました。

 幕府はそれまで、異国船打払令により、たとえば1837(天保8)年にアメリカのモリソン号が漂流民を届けようとしたときには打払って追い返していましたが方針を転換。1842(天保13)年、老中の水野忠邦は薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出し、漂着した外国船に食料や燃料などを与えることにします。

 多少は外国船に対する扱いを友好的に変えました。


 以前に見たとおり、水野忠邦は上知令などへの反発が強まり罷免されますが、外国船が次々と出没する中で、将軍の徳川家慶は復帰を早々に決定します。

 すると1844(弘化元)年、日本と通商していたオランダの国王ヴィレム2世が「日本も開国したほうがいい」と勧告する親書を送ってきました。

 これに対し、水野忠邦は「忠告を受け入れるべきではないか」と提案するも、「これまでの鎖国を変えるとはもってのほか!」と反発に遭ったこともあり、また以前に見たように、かつての政敵への報復も目立ったことから再び罷免。勧告は無視されました。

 今度は1846(弘化3)年にはアメリカより、東インド艦隊司令長官のジェームズ・ビッドル(1783〜1848年)が浦賀(現、横須賀市浦賀)に来航。開国を要求しましたが、幕府はこれを拒絶しています。

 しかしアメリカは1848年、米墨戦争(べいぼくせんそう)によりメキシコからカリフォルニアを獲得。そうしますと、中国へ進出することを考えると、大西洋を横断するのが最も近道になります。

、すなわち、日本を補給基地として活用できれば、アメリカ東海岸から中国(香港)へインド洋経由で134日かかっていたものが、アメリカ西海岸から日本へ、太平洋経由で18日でいけるという驚異的な時間短縮が見込まれるため、ヨーロッパのアジア戦略に対抗するためにも、日本の開国は是が非でも実現させたいものになりました。

 また、当時は捕鯨業が盛んであり、その補給と漂流した人の保護をする場所を確保するのに、日本は良い場所にありました。

 そこで1851(嘉永4)年、アメリカのミラード・フィルモア大統領(1800〜74年/ホイッグ党)は、アメリカ東インド艦隊司令長官のジョン・H・オーリックを遣日大使に任命。南鳥島付近で救助した、栄力丸という樽廻船の乗組員たちを送還することを交渉の手がかりとし、準備を開始したのです。ところが・・・、なんとオーリック氏。艦隊旗艦サスケハナ号のインマン大佐と大喧嘩。これが問題視され、クビになってしまいました。

 続いて任命されたのが、マシュー・カルブレイス・ペリー(1794〜1858年)でした。彼はブルックリン海軍工廠(こうしょう)の司令官であった人物で、蒸気船海軍の父と称えられた人物です。



ペリーの胸像(静岡県下田市にて)
 そして艦隊は1852(嘉永5)年にアメリカ東海岸のノーフォーク港を出発。翌年1月24日には現在の南アフリカ共和国のケープタウン、そしてセイロン島、シンガポール、香港、上海・・・と日本に迫ります。

 これに先立ち、長崎オランダ商館のカピタン(商館長)であるクルチウスは、幕府に対して「ペリー率いるアメリカの艦隊が来年、固い決意の下に通商を求めて日本にやってくる。拒否すれば戦争の可能性もある」という、オランダ領インド総督の書簡(阿蘭陀別段風説書)を送付します。

 しかし、情報は老中首座の阿部正弘(1819〜57年/福山藩主)ら、一部の幕府首脳にしか知らされず、「事前に阿部正弘らはアメリカが来ることを知っていた」と暴露されたのは、なんと38年後の1891(明治24)年、旧幕臣でジャーナリストの福地源一郎によるものでした。

○ペリー来たる!

 上海を出たペリーは、日本に到着する前に、琉球王国(現在の沖縄県)へ上陸します。
 そして武力をちらつかせて首里城へ出向き、開国を要求。琉球王国側は、一応は友好的にもてなしたことにより、武力衝突は回避。ペリーは続いて小笠原諸島を調査し、5月26日に那覇を旗艦「サスケハナ」、それから「ミシシッピ」という2隻の蒸気船、それから「サラトガ」「プリマス」の2隻の帆船、計4隻の艦隊で出港。

 そして7月8日(*当時の日本の旧暦では6月3日)に浦賀に現れた4隻の船に、人々は「黒船だ!」と大騒ぎ。何しろ、これまで幕府は大型の船の建造を許可していなかったので、人々は船の大きさに仰天。さらに羽田の近くにまで船を進めて幕府を恫喝しました。

 案の定、驚いた幕府は久里浜(現、横須賀市久里浜。さっきの地図で場所を確認しよう!)への上陸を許可。浦賀奉行の戸田氏栄(とだうじよし/1799〜1858年)、井戸弘道(いどひろみち/?〜1855年)がペリーと会見。とりあえず国書を一旦受け取り、翌年に返答するという形でペリーは退去しました。

 さらに、ロシアからはエフィム・プチャーチン(1803〜83年)が来航。こちらは日本に配慮して、幕府が主張する「長崎で交渉すべし」の要求に応じますが、イギリスとロシアがクリミア戦争を開始。イギリス船との衝突を恐れたプチャーチンは、一旦は上海へと離れざるを得ませんでした。



北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑(神奈川県横須賀市久里浜)  浦賀と同じく現在、横須賀市内にある久里浜は、浦賀奉行の戸田氏栄がペリーを応接した場所で、ここでフィルモア大統領の国書を受け取りました。ペリー公園にある記念碑は1901年(明治34年)に米友協会が建立したもので、碑文は 伊藤博文によるもの。

ペリーの航路
 この問題に対し、阿部正弘は、「これはみんなで考えるべき問題だ!」として、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで意見を募集。これまで、外交のことは幕府が独断で決めていたにもかかわらず、政治的に大きな転換を行います。しかし、名案は出ることなく、かえって幕府の威信低下を招く結果となります。

 さらに、将軍の徳川家慶が死去。第13代将軍に、彼の息子である徳川家定(とくがわいえさだ 1824〜1858年)が就任しますが、病弱であったため、早くも後継者争いがスタート。これについては後述します。



今も残る品川台場跡
 なお、阿部正弘は江川英龍(太郎左衛門)(えがわひでたつ/1801〜55年)に命じて、品川に洋式の海上砲台を建設させ、翌年のペリー再来航に備えます。財政難もあり、6つが完成、7つ目が未完成の状態で終了。射程距離が短く、実戦の役には立ちそうになかったようで・・・。結局、一度も使用されることはありませんでした。

 ちなみに、現在は第三台場と第六台場のみが保存され、付近の埋立地は「お台場」として親しまれています。

○日米和親条約

 というわけで1854(安政1)年1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて、今度はいきなり江戸湾に侵入。

 品川に砲台を造った効果か、今度は羽田まで進入されませんでしたが、驚いた幕府は鎖国を続けることを多少諦め、横浜村にて日米和親条約(神奈川条約)の締結が行われました。12条からなりますが、主な内容としては・・・。

 1.アメリカ船に薪(まき)・水・食料・石炭などを供給するため、下田と箱館(後の函館)を開港する。
 2.漂流民の救助・引き渡しを定める。
 3.下田(現、静岡県下田市)に、アメリカ人遊歩区域を設定する。
 4.片務的最恵国待遇

 というもの。最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)というのは、現段階ではアメリカには許可していない有利な条件を、将来ほかの国に与えた場合、アメリカにも同様の内容を許可する、というもの。片務的ですから、日本がアメリカに対して義務を負うだけの、不平等なもの。アメリカが他国とどんな条件を許可しても、日本には何の影響もありません。

 そして下田にて、この条約の細則を定めた下田条約を締結し、日本を立ち去りました。そしてペリーは帰国後、「日本遠征記」を執筆。既に日本が経済大国化し、アメリカと通商競争を行うであろうことを予言。そして日本の開国から僅か4年後に亡くなりました。



了仙寺(静岡県下田市)  下田は幕末の激動の舞台となった場所の1つで、1854年3月に日米和親条約が結ばれると、箱館(現、函館市)と共に開港されました。上写真の了仙寺は上陸したペリー提督一行の応接所となりました。

了仙寺(静岡県下田市)  そしてアメリカとの間で下田条約がここで結ばれるのですが、当時を描いた絵と現在を比較してわかるとおり、本堂はペリーがやってきた当時のままで現存しています。
 こうして太平の眠りをといた日本は、イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結ぶことになり、幕府の権力低下ともあいまって、いよいよ激動の幕末の時代がスタートするのです。

 ちなみに、オランダは幕府と友好的な態度を取ったがために、条約締結は1855年12月にまで先送りされてしまいました。ペリーのように大砲で脅したほうが、幕府との交渉は早く、そして優位に進んだということで、なんとも幕府の対応も情けない限りです。

○日露和親条約

 ところで、日米和親条約ばかりが注目されますが、ロシアから派遣されたプチャーチンは、日露和親条約の締結に成功しました。この中で・・・。
 1.千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線を引く。
 2.樺太は日本・ロシア両国の人が雑居する。
 3.下田、函館に加えて長崎を開港する。
 と定められています。日本の北方領土問題は、実はこの条約がベースの1つなのです。

○安政の改革

 そこで阿部正弘は、この難局に対処すべく、従来の門閥枠にとらわれない人材登用を進めます。
 まずは、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき 1800〜60年)、越前藩主の松平慶永といった親藩、それから宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬といった外様大名とも密接な連携をとります。いずれも従来は幕政に深く参加できない立場ながらも、有力な大名たちでした。

 さらに幕臣の中でも、身分が低いながらも優秀な人材を登用します。
 1.川路聖謨(かわじとしあきら/1801〜68年)・・・ロシアとの交渉を始め、幕府きっての名官吏として活躍。
 2.岩瀬忠震(いわせただなり/1818〜61年)・・・外国奉行として諸外国と条約締結に活躍。
 3.永井尚志(ながいなりゆき/1816〜91年)・・・目付として登用後、外国奉行として活躍。
 4.勝海舟(義邦)(かつかいしゅう/よしくに 1823〜99年)・・・長崎海軍伝習所に入門、後に咸臨丸で太平洋を横断
 5.江川英龍(太郎左衛門)(えがわひでたつ/1801〜55年)・・・韮山の反射炉や品川の台場を築造。
 6.高島秋帆(たかしましゅうはん 1798〜1866年)・・・幕府の砲術訓練の指導に尽力



復元された観光丸(神奈川県横浜市にて)  観光丸は、1855年にオランダ国王ウィレム3世から徳川幕府に献上され、長崎海軍伝習所の練習艦として使用されたもの。日本初の蒸気帆船で、勝海舟、榎本武揚などが航海術を学びました。ちなみに復元された観光丸は、長崎県のテーマパークであるハウステンボスが所有。

 国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図と模型を元に、内装材や甲板の材料にいたるまで、かつての観光丸と同質のものとするほど往時の姿にこだわったもの。そのため、2007年11月には、復元されたものであるにもかかわらず、初代「観光丸」の功績が非常に大きいこともあり、経済産業省から国の「近代化産業遺産」認定されています。
 さらに、江戸に講武所(武芸訓練機関)や、長崎に海軍伝習所を創設。また、西洋の学問を深く研究するため、洋学所を蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称(東京大学の前身の1つ)。さらに、伊豆の韮山(にらやま)に反射炉を建造し大砲の鋳造を開始しました。

 また、譜代大名の反発を和らげるために、佐倉藩主の堀田正睦(ほったまさよし/1810〜64年)を老中として迎え、老中首座の座を譲りながら、政策の実行を続けます。

 しかし1857年に39歳の若さで急死。開明的な思想の持ち主で、これから・・・という矢先でした。
 阿部正弘の改革を安政の改革といい、彼が登用した人物は幕末の時代に大きく活躍しています。

 なお、安政の改革のさなかである1854年11月4日には、マグニチュード8.4と推定される東海地震、さらに翌日には同じくマグニチュード8.4と推定される南海地震が発生。東海から九州まで大打撃を一斉に与えました。さらに、翌年の10月2日にはマグニチュード6.9の直下型の地震が江戸を直撃。人々を大きな不安に陥れました。

○ハリスの着任

 日本にしてみれば、地震の被害対策の方が優先と叫びたかったでしょうが、アメリカは1856(安政3)年、タウンゼント・ハリス(1804〜78年)を、総領事として下田に着任させます。彼は、本来の目的である通商に関する条約を幕府と結ぶべく、交渉を開始します。



下田の風景
 まずは日米和親条約追加条約(下田協約)を結ぶことに成功。長崎の開港、箱館にアメリカの官吏を置くこと、下田におけるアメリカ人居住権、領事の国内旅行権、領事裁判権などを認めさせました。また、日本はオランダ、ロシアとも同様の条約を結びます。

 ハリスは引き続いて、「江戸で将軍と交渉したい」と粘り強く要求。
 これが認められ、1857(安政4)年10月21日、将軍の徳川家定との謁見が行われました。

 ハリスは立ったまま英語で挨拶、徳川家定は座ったままで返礼したとのこと。従来では考えられなかったことです。折りしも、隣の大国である清(しん)は、アロー戦争によってイギリスとフランスにコテンパンにやられている最中。ハリスはこれを引き合いに出して
「今のうちにアメリカと友好的な関係を作っておけば、他国も日本に手が出せませんよ」
 とささやく。

 堀田正睦ら幕府首脳は、通商条約を結ぶことにしました。
 しかし、尾張藩主の徳川慶勝などから「朝廷の勅許を得ておくべきだ」と意見が続出。さらに、前水戸藩主の徳川斉昭は、そもそも猛反発。

 さらにこの時期、病弱だった将軍徳川家定の後継者をめぐって、
 一橋派・・・徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(21歳)を推薦(堀田正睦、松平慶永、島津斉彬など)
 南紀派・・・紀州藩主の徳川慶福(12歳/のち家茂)を推薦(井伊直弼ら譜代大名)
 が争っているという状況。

 1858(安政5)年、こうして様々な思惑が絡み、各陣営が朝廷を巻き込んで工作を行っている中、堀田正睦は孝明天皇(1831〜66年)に条約締結の勅許を求めますが、これを拒絶されてしまいました。

 その直後に大老に彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ 1815〜60年)が就任するや、孝明天皇の勅許を得ないまま、日米通商修好条約を締結。将軍の跡継ぎは徳川慶福に決定。一方で堀田正睦は罷免されてしまいました。

○日米通商条約

 さて、この条約の内容ですが・・・。


 1.神奈川、長崎、箱館(函館)、新潟、兵庫の開港
 2.江戸、大坂の開市
 3.通商は自由貿易とする
 4.開港場には居留地を設け、一般外国人の国内旅行を禁じる。
 5.居留地内では領事裁判権を認める。
  (*日本に裁判権がない)
 6.関税は日本に決定権がなく、相互で協議して決める(協定関税
 という、不平等なもの。

 なお、実際には神奈川から近い横浜、兵庫から近い神戸が開港。両方とも小さな村でしたが、これによって日本を代表する都市へと発展。

 また、新潟も城下町ではありませんでしたが、これより明治以降は県庁所在地として発展を遂げます。

 幕府はこの後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を締結しました(安政の五カ国条約)。そして、居留地にて銀貨を使用して外国商人と日本商人で取引が行われるようになり、横浜が圧倒的に貿易額が高く、さらに貿易相手は意外にも、開国を実現したアメリカではなく、イギリスでした。

 なお、この時代の貿易は
  日本からは・・・生糸、茶、蚕卵紙、海産物 を輸出
  海外からは・・・毛織物、綿織物、鉄砲、艦船 を輸入

 が主な貿易品目です。なお、この時代は輸出の急増に伴い、原材料が品不足に。これに加えて、日本と欧米の金銀交換比率が大きく異なっていたため、金貨が海外に多く流出してしまいます。なにしろ

 日本では、金:1 に対して 銀:5
 欧米では、金:1 に対して 銀:15

 単純にいえば、金と銀を日本で交換するだけで大もうけです。幕府は大慌てで、金貨の中に含まれる金の量を大幅に減らした万延小判へ改鋳します。お決まり、何かあったら貨幣の質を換えてしまえ!政策。

 品不足に、貨幣不足。人々の中には「外国との貿易が人々の生活を悪くしている!」と考える人も出始め、これが外国排斥、すなわち攘夷(じょうい)を行うべし、との主張を生み出す1つの要因となりました。

 ちなみにアメリカは1861年から、黒人奴隷の解放問題等に端を発した南北戦争という内戦に突入し(1865年まで)、余裕が無くなり、日本の幕末史には、イギリスとフランスが主に介入してきます。さらに貿易の割合についても、1865(慶応1)年にはイギリスのシェアが86.0%を占めます。これに対し、アメリカはわずか1.5%のシェアしか獲得できませんでした。



横浜の赤レンガ倉庫  当時の地域の中心は、東海道の宿場町があった神奈川でしたが、開港後は横浜が急激に発展。今も残る赤レンガ倉庫は、1911(明治44)年と1913(大正2)年に造られたもの。

旧神戸居留地15番館  同じく神戸も急速に発展。こちらは1880(明治13)年頃に造られた旧アメリカ領事館です。
開港後は、こうした洋風建築が次々と誕生。日本の風景が変わっていきます。
参考文献
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史41 (石ノ森章太郎画 中公文庫) & ペリー来航と徳川幕府(青木美智男著)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
兵庫県の歴史散歩 (山川出版社)

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