第61回 戊辰戦争
○大政奉還
さて、幕府打倒を狙う薩摩、長州をイギリス公使であるハリー・スミス・パークス(1828〜85年)らが支援するようになります。パークスは中国(清)で活動していたイギリスの外交官で、日本へ転任すると、通訳として活躍していたアーネスト・サトウ(1843〜1929年)の助言を得ながら幕府や薩長などと外交を繰り広げました。この若き通訳のサトウは、堪能な日本語で西郷隆盛や桂小五郎などとも深く交流を持ち、日本の情勢を正確に把握し、的確な助言を行うことが出来ました。そして回想録「一外交官の見た明治維新」など、彼が残した著書は貴重な資料となっています。明治維新後も外交界で大活躍し、日本の外交にも引き続き影響を与えています。
一方で、巻き返しを図る幕府にはフランス公使のレオン・ロッシュ(1809〜1900年)が接近して支援を開始。ロッシュは元々、アラビア諸国にてフランスの外交官として活躍していましたが、日本に着任すると、薩長を支援するイギリスに対抗するため、江戸幕府との関係を深め、特に徳川慶喜の信任で軍事改革を進めます。
*ちなみに、当時のフランスは皇帝ナポレオン3世(1808〜73年 *有名なナポレオンの甥)の治世下。
特に幕府の勘定奉行、のち陸軍奉行となった小栗忠順(おぐりただまさ 1827〜68年)は、財政の建て直しとフランスの支援による横須賀製鉄所の建設着手と、陸軍の洋式化を一気に進め始めます。小栗忠順は1860(安政7)年、幕府が咸臨丸の太平洋横断と同時に、遣米使節団を派遣した時に目付けとして参加し、西洋の情勢も肌で感じ取っていた人物。持ち前の才能もあわせ、能力を遺憾なく発揮します。
そんなわけで、旧態依然とした幕府が必死の巻き返し。薩摩・長州側としては、このまま黙っていると幕府の反撃にやられかねません。折しも幕府を支持する孝明天皇が死去し、第二皇子である明治天皇(1852〜1912年)が即位したことを好機とし、両藩は倒幕に向けて動き出します。
一方、前土佐藩主の山内容堂が、徳川慶喜に対して大政奉還(たいせいほうかん)をするよう進言。
これは、幕府に政権の返上を朝廷に行わせるもの。幕府とすれば名目上は政権を失いますが、そうは言っても日本では最大勢力であるため、今度は朝廷の中で実権を握るチャンスが残り、薩長も手出しができないというメリットが期待されました。
これは、坂本龍馬の意を受けた土佐藩士、後藤象二郎(ごとうしょうじろう 1838〜97年)の献策であったと言われます。いや、もちろん坂本龍馬は別に実質的な幕府の存続を願ったわけではなく、平和的な政権交代を願ったのでしょうけどね。
徳川慶喜はこの案を受け入れ、大政奉還が実現。薩長側は作戦の仕切り直しを余儀なくされました。
高知城
薩摩藩、長州藩と共に幕末維新の原動力となった土佐藩。
○王政復古の大号令
ところが11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かによって暗殺されてしまいます(犯人は未だに謎)。そして岩倉具視や大久保利通らが用意周到に計画し、12月に朝廷において王政復古の大号令が出され、新政府の仕組みが発表され、これは公家社会にも大きな変革をもたらします。すなわち
1.徳川慶喜の将軍辞職
2.京都守護職・京都所司代の廃止
3.江戸幕府の廃止
4.摂政・関白の廃止
5.新たに総裁、議定、参与の三職(さんしき)の設置
王政復古というと、何だか平安時代に戻るような雰囲気ですが、そのようなものではなく、摂政、関白の廃止に象徴されるように、これまで朝廷の中枢で権力を握っていた摂関家を中心とした公卿も排除されたのです。そして、この三職(さんしき)は以下のとおりです。
1.総裁(そうさい)・・・有栖川宮熾仁(たるひと)親王
2.議定(ぎじょう)
仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王
山階宮晃(やましなのみやあきら)親王
正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)
中御門経之(なかみかどつねゆき)
松平慶永(まつだいらよしなが/越前藩主)
徳川慶勝(とくがわよしかつ/前尾張藩主)
浅野茂勲(あさのもちこと *のち長勲/次期広島藩主)
山内豊信(容堂)(前土佐藩主)
島津義久(*のち忠義/薩摩藩主)
3.参与(さんよ) *主な人物
公卿・・・岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁
薩摩藩・・・西郷隆盛、大久保利通
土佐藩・・・後藤象二郎、福岡孝弟
広島藩・・・久保田平司、辻将曹
越前藩・・・中根雪江
(翌年から)長州藩・・・木戸孝允(旧名:桂小五郎)、伊藤博文、広沢真臣
(翌年から)肥前藩(佐賀藩)・・・大隈重信
そして王政復古が宣言された夕方、小御所会議と後に呼ばれる会議が開かれ、徳川慶喜の処遇について激論が交わされました。この中で参与の大原重徳が「徳川慶喜は、官位である内大臣を辞職すること、さらに領地を朝廷へ返納すべし」と主張。
これに対し前土佐藩主の山内容堂は、徳川慶喜を排除することに強く反対しますが、岩倉具視、大久保利通らに押し切られ、徳川慶喜に対して、内大臣の辞職と、領地の返納を命じることが決定しました。しかし、この後も朝廷側も一枚岩ではなく、倒幕を目指す急進派の西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視らと、藩主による烈公会議を目指す松平慶永、山内容堂らが対立。どちらかと言えば、次第に松平慶永らの主張のほうが主導権を握りつつありました。
そんな中、あくまで薩摩藩は、幕府を武力で討伐する口実を作ろうと、西郷隆盛の命令で警備が手薄になった江戸にて放火や暴行、略奪などを行い、幕府を挑発します。案の定、これは成功することになります。
○鳥羽・伏見の戦い
年が明けて1月3日、ついに旧幕府軍と新政府軍との間で戦争が勃発します。
これは年末の江戸にて、庄内藩(現、山形県鶴岡市)が、薩摩藩の挑発に乗って、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、この知らせを受けた会津藩、桑名藩、旗本らがついに「薩長を倒すべし!」と決起したもの。
武力衝突は決定的となり、徳川慶喜も決戦を挑むことを決意。
ここに戊辰戦争と総称される戦闘がスタートします。
旧幕府軍は大坂より1万5000人の軍勢で京都に向けて進撃し、薩摩藩・長州藩の軍勢5000と激突。兵力では幕府の方が優勢でしたが、装備の近代化が進んでいた薩長軍の方が戦力は勝り、淀藩、津藩(三重県津市)の寝返りもあって僅か3日で幕府軍は敗北(鳥羽・伏見の戦い)。これを見て、近畿諸藩、中には親藩である紀州藩でさえ、新政府側に寝返ってしまいます。
鳥羽・伏見の位置関係 (Google Mapより編集)
敗北を悟った徳川慶喜は、船で江戸に撤退。これにより西日本の諸藩は新政府に従います。小栗忠順は徳川慶喜の袖をつかんで徹底抗戦を主張しますが、ついにクビとなります。そして朝廷側に捕まり、処刑されてしまいました。また、イギリスやフランスなど6カ国は1月25日に局外中立を宣言し、この内紛に介入しないことにしました。
○江戸開城と上野戦争
そして新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮に任命し、江戸に向けて軍勢を出発。道中の藩を新政府側に従わせ、ついに江戸へと迫ります。こうした中、徳川慶喜は上野にある寛永寺にて謹慎。新政府に対し、恭順の意を示します。寛永寺
徳川慶喜が謹慎した上野の寛永寺。現在も彼が謹慎した場所が残っています。
江戸城と寛永寺の位置関係 (Google Mapより編集)
江戸城から一歩引いた形で、徳川慶喜は官軍を受け入れることにします。
また新選組は生き残った面々が江戸に戻っていましたが、勝海舟は「江戸に留めておく訳には行かない」と考え、近藤勇らに軍資金や大砲を与えて、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)という名称にし、身分も近藤勇を若年寄格にするなど大幅に出世させた上で、現在の山梨県方面へ出陣させます。そして3月6日に勝沼(現、山梨県甲州市勝沼)にて官軍(新政府軍)と戦いますが、洋式の訓練を受けた相手に、あっという間に撃破。近藤勇は、ほどなく捕らえられて処刑されました。
さて、迫り来る官軍は、3月15日に江戸城を総攻撃することにします。
そこで徳川慶喜の助命、徳川家存続のために全力を挙げたのが、軍事総裁に任命された勝海舟で、3月14日に西郷隆盛へ直談判し、江戸城を攻撃しないよう訴えます。
既に薩摩藩を支援するイギリス公使のパークスが、江戸攻撃に反対していたこともあり(重要な商業地が焼失してはたまらないですからね)、土壇場で江戸への攻撃は回避されました。
そして同日、新政府は五箇条の御誓文を発表しました。
一、広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、上下心を一にして盛に経綸(けいりん)を行うべし
一、官武一途庶民に至る迄(まで)、各其(その)志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す
一、旧来の陋習(ろうしゅう)を破リ、天地の公道に基くべし
一、智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし
(*カタカナを平仮名にしたほか、読みやすいように一部句点を追加してあります)
これは越前藩の由利公正(ゆりきみまさ 1829〜1909年)、土佐藩の福岡孝弟(ふくおかたかちか 1835〜1919年)が起草し、長州藩の木戸孝允(旧名:桂小五郎)が加筆修正したもので、近代日本の建国の精神は、ここから来ています。
由利公正の像
福井市役所近くに立つ由利公正の銅像。藩主の松平慶永の側近として、主に財政面で活躍。
明治維新後すぐに東京府知事となり、東京の基礎を造ったほか、後に元老院議官、貴族院議員として活躍しました。
こうして新政府の方針を高らかに宣言し、さらに翌日、つまり江戸城の総攻撃を予定していたに日は五榜の掲示を掲げます。これは、一般庶民向けに全国に掲示されたもので、その内容としては・・・。
一札:五倫道徳の遵守
二札:徒党・強訴・逃散を禁止
三札:切支丹邪宗門厳禁(キリスト教を禁止したもので、1873年に諸外国から批判を受け廃止。)
四札:万国公法を履行
五札:郷村脱走の禁止
というもので、こちらは万国公法を履行という点を除けば、あまり旧来と変わらぬ姿勢です。
五榜の掲示 新潟県新発田市の庭園、清水園の資料館にて。こちらは1つめの掲示で、五倫を勧め、人を殺したり物を盗んだらいかんぞ、というお触れが書かれた高札。
五榜の掲示
こちらは「きりしたん邪宗門」の禁止。このように、大政官の名の下に掲示されています。
そして4月11日に江戸城は開城され、21日に有栖川宮熾仁親王が入城しました。もっとも、江戸で全く戦闘がなかったわけではなく、旧幕臣の中でも結成された彰義隊(しょうぎたい)は、先ほども登場した上野の寛永寺にて徹底抗戦の構えを見せます。
しかし多勢に無勢、長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう 1824〜69年)が率い、佐賀藩が誇るアームストロング砲を擁する新政府軍に撃破されてしまいました。これにより寛永寺は大きな被害を受け、さらに明治政府によって土地の大半を没収。こうして整備されたのが、西郷さんの銅像や、国立科学博物館など多数の文化施設で賑わう上野公園です。
五重塔が、東京都が管理する上野動物園の中にあるなど、旧建物が公園内に点在しているのは、このためなのです。
円通寺黒門 東京都荒川区の円通寺。ここの黒門こそ、上野戦争で激戦となった寛永寺の黒門を移築したもの。彰義隊の戦死者達は「賊軍」として扱われたため、戦死したあと遺体が放置されていたのですが、このお寺の和尚さんが死を覚悟で供養したとか。 おかげで政府に拘束されましたが、幸いにも許され、上野寛永寺御用商人の三河屋幸三郎の助力で、彰義隊の戦死者達を火葬し、ここに埋葬。これが縁となって1907(明治40)年、寛永寺の黒門(荒川区指定有形文化財)は円通寺に移されることになったということです。
今も弾痕が残る円通寺黒門
○奥羽越列藩同盟
ところで長州藩にとって見れば、薩摩藩は許しても、会津藩は禁門の変で京都から自分たちを追い出した、憎たらしい敵でした。また、薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩も、薩摩藩には討伐の対象でした。こうして、敵意むき出しにして東北に来るものですから、東北諸藩も態度を硬化。嘆願にもかかわらず、会津藩・庄内藩への厳しい処置が変わらぬと見るや、これらを救援するべく、仙台藩を盟主とし、米沢藩、弘前藩、盛岡藩、天童藩、山形藩、福島藩、二本松藩ら奥州諸藩と、長岡藩、村上藩、新発田藩など越後諸藩の合計31藩による奥羽越列藩同盟を成立し、新政府に対抗します。
主要地名と官軍の主な進路 (地図:白い地図工房様のものを編集)
このうち長岡藩は、上席家老の河井継之助(かわいつぐのすけ 1827〜68年)と、軍事顧問に招いたプロイセンの商人・スネル兄弟(兄のジョン・ヘンリー・スネル、弟のエドワルド・スネル)によって、ガトリング砲の購入など軍備の近代化を進めて、新政府軍に対して激しく抵抗。
官軍と戦う長岡藩は、なんと一度は奪われた長岡城を奪還するなど、5月から7月にかけて、長州藩の山縣有朋、薩摩藩の黒田清隆(くろだきよたか 1840〜1900年)率いる新政府軍に手痛い打撃を与えるも、とうとう敗北。河井継之助は負傷のため死去し、長岡藩は降伏。北越戦争は終結しました。
長岡城跡 激しい争奪戦が繰り広げられた長岡城。さて、その場所は・・・と見ても現在は見当たらない。なんと1898(明治31)年に長岡駅の敷地となり、徹底的に痕跡が消されてしまいました。近世城郭がここまで姿をとどめていない例は僅かで、意図的なものさえ感じてしまいます。
また会津藩は、年齢別に「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」を結成。土佐藩の板垣退助(いたがきたいすけ 1837〜1919年)率いる官軍を迎え撃ちますが、約1ヶ月に及ぶ戦闘の末に9月22日に降伏。少年たちで形成される最年少の部隊であった白虎隊(びゃっこたい)や、家老の西郷頼母邸で、女性や子供を含む一族が自害した悲話は、今も語り継がれています。
同様に福島県の二本松藩でも、後世、二本松少年隊と呼ばれる少年兵たちが、二本松の戦いで新政府軍に破れて多数が戦死。これも会津戦争と総称される、一連の戦争の中の悲話として名高いものです。そして9月25日までに、他の東北諸藩も次々と降伏し、こうして新政府軍は東北を制圧しました。
会津若松城 官軍の激しい攻撃にも耐え、堅城であったことが証明された会津若松城。1874(明治7)年に天守閣は取り壊されますが、1965(昭和40)年に古写真などを元に外観復元が行われています。
二本松少年隊
福島県二本松市の二本松城に立つ像。多くの若者たちが新しい世を見ることなく散っていきました。
○明治、そして東京の世へ
会津戦争のさなか、7月17日に江戸は東京と改名されます。そして、9月8日に年号を「明治」とし、さらに従来と異なり、天皇1人に対し、年号を1つとします。
さらに10月12日に、明治天皇は東京に到着し、翌日に江戸城に入ります。このときは2ヶ月で京都に戻りますが、翌年3月28日に再び東京へ行き、これより現代に至るまで、天皇の住まいは江戸城(皇居)となり、京都には戻っていません。一般的にこれを東京遷都(奠都)としますが、実態としては公家の反発を招かぬよう、既成事実を作ったようなもの。
今でも法的には京都が首都である!・・・と言えなくもありません。
○箱館戦争
そして戊辰戦争は、現在の北海道、当時の蝦夷地で最終局面を迎えます。1868年8月19日、幕府の海軍副総裁だった榎本武揚(えのもとたけあき 1836〜1908年)は、幕府海軍の軍艦引渡しを拒否して、旧幕臣の一部を率いて北上。仙台で会津戦争で敗走する旧幕臣らを乗せ、蝦夷地に到着。10月末〜11月にかけて、松前藩が防衛する箱館の五稜郭や、松前藩の福山城を占領し、箱館(現在は函館)の五稜郭に拠点を置きます。
五稜郭 1864年に完成した、日本で最初の洋式城郭。箱館奉行所が置かれた星型の要塞ですが、まさか内戦で使用されるとは、誰も思っていなかったことでしょう。(撮影:デューク)
そして、あくまで士官クラスのみの参加ではありましたが、日本で初めて選挙によって政権の首脳部を決定。榎本武揚が総裁、大鳥圭介(おおとりけいすけ 1833〜1911年)が陸軍奉行、新選組生き残りの土方歳三が陸軍奉行並に就任しました。そして、蝦夷地に独立国を造ろうとしましたが、新政府が許すはずもなく、翌年に東北諸藩を下した官軍により攻撃を開始。1869(明治2)年5月18日、黒田清隆らが率いる官軍に榎本らは敗北し、降伏。土方歳三は戦死しました。
こうして約1年半近くにわたった戊辰戦争は終結し、日本は大きく変わっていくことになります。
土方歳三の像 土方歳三のふるさと、東京都日野市の高幡不動尊に立つ銅像。剣客集団の新選組副長として活躍した彼も、最後は軍事司令官として多数の兵士を率いて活躍。壮絶な最期を遂げました。
○おまけ1:徳川宗家と徳川慶喜の運命は?
本文中に書くと、流れが大幅に阻害されそうだったので、余談はこちらにまとめます。さて、恭順の意思を示した徳川家の取り扱いはどう決まったのでしょうか。すなわち徳川慶喜は、徳川宗家当主の座を降り、御三卿の1つ田安家の当主・徳川亀之助が当主となった上で、駿府70万石へと領地を大幅に削減されることになったのです。このときに、駿府こと駿河府中は、府中=天皇に対する不忠ということで、静岡と改名されています。
このときは幼かった徳川亀之助ですが、後に徳川家達として成人し、30年も貴族院議長を務めたほか、ワシントン軍縮会議首席全権、第6代日本赤十字社社長を務め、さらに一時は総理大臣の声も出るなど(本人が固辞)、日本の中枢で大活躍していきます。
一方で徳川慶喜は、おそらく自分の発言が一人歩きすることを恐れたのでしょう。特に旧幕臣たちには極力会わないよう心がけ、その一方で元々、非常に趣味が多く、何でも自分で出来る性格であったため、当時は珍しかった自転車をいち早く手に入れて静岡を回ったり、趣味のカメラを筆頭に、狩猟、投網、囲碁、謡曲と多方面でマルチな才能を発揮。
1897(明治30)年に東京の巣鴨に移り住み、翌年に明治天皇と対面を果たし、貴族院議員となりました。
○おまけ2:坂下門外の変で失脚した、安藤信正が会津戦争でとった行動とは?
続いて会津戦争の中での出来事。このとき現在の福島県いわき市にあった平藩では、藩主の安藤信勇(あんどうのぶたけ 1849〜1908年)が京都にいたため不在。そのため、あの坂下門外の変で失脚した前藩主の安藤信正が、勝手に奥羽越列藩同盟への参加を決めてしまいました。一方で彼の養子だった藩主・安藤信勇は、「新政府に逆らうな」という意向を示し続けていましたが、平藩は官軍と戦い敗北。
このため、大幅に領地が削られそうになったものを、安藤信勇は必死に各所へ嘆願し、なんとか7万両の献金で手を打つことに成功しました。ちなみに安藤信勇、明治維新後は家督を安藤信正の八男である信守に譲ると、学習院の教授として教壇に立ったそうです。
○おまけ3:戦いに敗北した会津藩を待ち受けた運命とは?
さて、会津戦争に敗北した会津藩への処分は厳しく、所領没収!!となりました。1870(明治3)年になって、松平容保の嫡男である松平容大(かたはる)に、現在の青森県にて斗南(となみ)藩3万石としての再興が許されます(・・・まあ、ほどなく廃藩置県で藩が消滅しちゃいますが)。松平容保は日光東照宮の宮司として生涯を終えました。
ちなみに現在の徳川宗家の当主である徳川恒孝氏は、松平容保の直径の曾孫です。ちなみに、こうして戊辰戦争で多くの藩が激しくバトルしましたが、明治以降も江戸時代と同様、旧藩主の一族同士で婚姻したり、養子縁組しているうちに、現在では天皇家も含めて、徳川だろうが島津だろうが、みんな親戚状態になっています。
徳川恒孝氏の場合、曽祖父が島津久光の長男で薩摩藩主の島津忠義ですからねえ・・・。
参考文献
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社)
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史41 (石ノ森章太郎画 中公文庫) & ペリー来航と徳川幕府(青木美智男著)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
幕末・維新 知れば知るほど(勝部真長 監修 実業之日本社)
幕末百人オールキャスト(実業之日本社)
兵庫県の歴史散歩 (山川出版社)
古地図・城下町絵図で見る幕末諸州 最後の藩主たち 東日本編 (人文社)
古地図・城下町絵図で見る幕末諸州 最後の藩主たち 西日本編 (人文社)
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