第65回 西南戦争
○奪われる士族の特権
さて、多くの士族たちの血を流して明治維新が成りましたが、明治政府は廃藩置県をはじめ、近代国家へ脱皮する過程において、一部の士族が今でいう公務員として転身しただけで、多くは失業状態となります。それでも当初は俸禄(家禄)という形で、政府からお金をもらえていました。まあ、年金みたいなものですね。ところがこれは、国家財政の30%を占め、財政圧迫の要因となり、四民平等と合わせて特権のはく奪が始まります。
まず「公式的には」武士など一部だけが名乗れた苗字を1870年に平民に許可、1875年には義務化されます。「公式的には」と書いたのは、元々一般庶民の家でも、江戸時代を通じて非公式に苗字を持っている場合もあったということです。
1873(明治6)年に徴兵制が施行され、士族に限らず国民全体が徴兵の対象となりました(国民皆兵)。
さらに同年には「今後の秩禄を返上するなら、秩禄数年分の債権を渡しますよ」という秩禄公債の発行を開始します。しかし、これは不人気でさほどの効果をあげません。
そして1876(明治9)年、ついに家禄の支給をやめ、代わりに金禄公債を強制的に支給することとし、給与的な特権はすべて剥奪されてしまいました。秩禄公債、金禄公債ともに、いわゆる国債みたいなものですから、これを持っている人は多少の利子は入ってきますが・・・。
中には商売に手を出す人間も出てきますが、いかんせん慣れない分野。「士族の商法」と揶揄(やゆ)されるように、ずさんな商売や経営で失敗し、没落する人間も出てきました。さらに同年には、廃刀令が出され、軍人や警察官などを除き、刀を持ち歩いてはいけないことに。つまり、とうとう武士の魂である刀を奪われ、士族と平民の同化が進められます。
これが決定的となり、士族たちの不満は非常に高まっていき、前回みた佐賀の乱に代表されるように、特に西日本で政府に対する反乱が頻発していきます。主なものとしては、熊本で発生した敬神党(けいしんとう)による神風連の乱、現在の福岡県朝倉市秋月で秋月党が起こした秋月の乱、山口県の萩で前参議の前原一誠(1834〜1876年)が起こした萩の乱があげられます。
○神風連の乱と秋月の乱
敬神党というのは、明治5年に結成された結社で、神道を尊び、攘夷を行うことを目的としていました。服装も腰に長刀、頭に烏帽子というスタイルで、通称として「神風連」と呼ばれていました。そして彼らは政府の開化政策、すなわち洋風化への動きに強く反発し、千島・樺太交換条約にも「弱腰外交だ!」と激怒します。彼らを決起させた決定的な理由は廃刀令で、太田黒伴雄(おおたぐろともお)や加屋霽堅(かやはるかた)らに率いられた神風連170人余りが決起! 熊本県庁、鎮台司令部を襲い、県令の安岡良亮、鎮台司令長官種田政明らを殺害することに成功します。
しかし翌日には鎮台側が反撃に出て、太田黒や加屋等を戦死させます。こうなると指揮系統がズタボロになり、この反乱はあっさりと平定され、多くは戦死または自害、生き残ったものは逮捕されました。
さらに、これに呼応する形で、熊本より北である秋月(現、朝倉市秋月)の地で、旧秋月藩士の宮崎車之助、益田静方、今村百八郎らが率いる秋月党約400名が決起します。彼らも政府の対外政策に憤慨している集団ですが、決起はしたものの兵力が圧倒的に不足していました。結局、乃木希典(1849〜1912年)率いる小倉鎮台によって鎮圧され、多くが戦死、斬首になっています。
秋月城跡
○萩の乱
ところが、これで終わりではありません、今度は明治維新の主力である長州藩にて、士族たちの反乱が起こります。これが萩の乱で、リーダーである前原一誠は、吉田松陰の門下生。幕末は討幕運動で活躍し、維新後は政府の参議、兵部大輔を務め、政府の中心的人物として活躍しますが、徴兵制など政府の方針に反発し、明治3年に病気を理由に辞任して、萩へ帰ったのでした。
そうすると、長州藩士の中で、新政府のメンバーとして活躍する機会の与えられなかった士族たちから、リーダー的存在に担ぎ上げられます。そして、秋月の乱の知らせを聞いて約200名と共に決起。最大で500人までに膨れ上がりましたが、三浦梧楼少将(1847〜1926年)率いる広島鎮台などによって鎮圧。前原一誠は島根県まで逃れますが、逮捕され斬首されました。
これらの反乱は、結局のところ散発的に発生したために連携がとれず、各個撃破されるだけになりました。
○西南戦争
そして1877(明治10)年、ついに鹿児島に引きこもっていた西郷隆盛が反乱を起こします。当時の鹿児島は、西郷隆盛が鹿児島県全域に私学校を設立して若者の教育に当たり、さらに西郷の息のかかった人間たちが県令の大山綱良を後ろ盾にして県政の実権を握り、独立王国のようになっていました。私学校跡 石塀
これには内閣顧問の木戸孝允らが「いつまで放置しているんだ!」と、内務卿に大久保利通に迫り、手をつけないわけにはいかなくなります。そこで大久保の腹心で、大警視である川路利良(かわじとしよし 1834〜1879年)は、私学校に対するスパイ活動を開始。鹿児島出身の警察官を帰省させ、情報収集と私学校の分裂活動を行わせます。さらに、鹿児島にある政府の武器・弾薬の一部を大阪に移送させます。
これが政府に対する決定的な不信につながり、とうとう1877(明治10)年1月29日に、私学校の生徒たちが暴発してしまいます。
西郷隆盛も「しまった!」と暴発の事態に陥ったことを悔やんだようですが、もはや政府との対立は決定的となり、反乱をおこさざるをえませんでした。決起日は2月17日、兵力は1万3000人と、これまでの士族の反乱とは規模が違います。そして西郷軍は、熊本に向けて進撃します。
これに対し、政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)とし、山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将(1836〜1904年)を参軍(副司令官)とし、本腰を入れて抑えにかかります。
そして谷干城陸軍少将(1837〜1911年)が守る熊本城に攻撃をかける西郷軍でしたが、この日に備えて食料、弾薬をたっぷりと準備し、なにより名将、加藤清正が造りあげた堅固な熊本城の防衛力は尋常ではありませんでした。熊本城を前に西郷軍は兵力と日数を消耗し、その間に政府軍は増援を次々と熊本県へ送り込みます。
復元された熊本城天守閣 西南戦争で建造物に大きな被害の出た熊本城。天守閣も戦闘開始前に炎上します。
理由は不明ですが、谷干城(たにたてき)が参謀の児玉源太郎に命じて、時代遅れの天守閣を焼かせることで、兵士たちに覚悟を決めさせたというのが有力な説です。
そして、熊本から少し北にある田原坂(たばるざか)で、政府軍と西郷軍は激突。麓からの標高差は約80m、頂上までは1.5kmの距離、そして道路の幅は3〜4m程度、曲がりくねった道がある田原坂。今のように各地に道路網が発達している時代ではなく、熊本へ大砲などを運ぶには、この道を使うしかありませんでした。戦略的に非常に重要な場所です。
ちなみに「たばるざか」です。九州では原という字を「ばる」と読むことが多いので、「たはらざか」と読まないように要注意。
田原坂一の坂
田原坂二の坂
西郷軍は緒戦で政府軍を敗退させるも、体制を整えて反撃に出た政府軍に大敗。これ以後も人吉、宮崎、都城と次々と追い詰められ敗退していき、西郷隆盛は9月24日、ついに鹿児島にて自害し果てました。
半年にわたったこの戦いを西南戦争といい、西郷の死と、徴兵令によって平民出身の兵士も多い官軍の勝利は、武士の時代の終わりを決定づけ、これ以後は士族による反乱は終了。これが日本における最後の内戦となりました。
政府軍、西郷軍の進撃ルート
政府軍、西郷軍の進撃ルート(熊本県)
いずれも田原坂にある解説板より。各地から政府軍に追い詰められる様子がわかります。
さて、士族による反乱だけではありません。徴兵令や学制の実施による負担増加、低米価による収入不足にあえぐ農民たちによる一揆は頻発。特に三重県、茨城県では大規模な一揆が発生。事態を重く見た政府は、士族の反乱を結びつくのを防ぐため、西南戦争が発生する2ヶ月前に地租を減免し、2.5%へ引き下げます。
○木戸と大久保の死
さて、西郷の自害より少し前に木戸孝允が「西郷もいいかげんにしないか」と言い残し病死。そして西郷が自害した翌年、すなわち1878(明治11)年、大久保利通が暗殺されます(紀尾井坂の変)。大久保が霞ヶ関にある自宅から、赤坂にある仮御所へ向かう途中で起きた事件で、犯人は石川県士族の島田一郎ら6人。その足で自主し、大久保を中心とした体制への批判、民権への抑圧への反発、民会の設立などを訴えました。なお、6人は斬首されます。これによって、大久保、西郷、木戸という明治初期の日本を主導した3名が相次いで亡くなり、政府における力関係も大きく変化。特に、伊藤博文や山縣有朋を中心とした長州閥が力を持つようになりました。
ちなみに西郷隆盛は満49歳、大久保利通は満47歳、木戸孝允は満45歳で世を去ります。いまの政治家の年齢を考えると・・・、皆さん本当にお若いことで。
参考文献・ホームページ
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社)
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
歴史ドラマ- 【熊本城公式ホームページ】 http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=446
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