第66回 自由民権運動
○今回の年表
1874年 | (1月)板垣退助らが愛国公党を結成する。 |
(1月)板垣退助ら、民撰議院設立の建白書を提出。 | |
(2月)佐賀の乱が起こる。 | |
(4月)板垣退助ら、立志社を設立。 | |
1875年 | (5月)樺太・千島交換条約が結ばれる。 |
(6月)讒謗律・新聞紙条例を制定。 | |
(9月)江華島事件が起きる。 | |
1876年 | (2月)日朝修好条規を締結。 |
1877年 | (1月)インド帝国が成立。皇帝はイギリス国王が兼ねる(初代はヴィクトリア女王) |
(2月)西南戦争が起きる。 | |
1878年 | (11月)大久保利通が暗殺される。 |
1879年 | (12月)琉球処分。琉球藩を沖縄県とする。 |
エジソンが電灯を発明。 | |
1880年 | 国会期成同盟結成 |
集会条例を制定 | |
1881年 | 北海道開拓使官有物払下げ事件 |
明治十四年の政変。大隈重信ら罷免される。 | |
国会開設の勅諭が出る。 | |
板垣退助、自由党を結成。 | |
大蔵卿の松方正義、紙幣整理を開始(松方財政の始まり)。 | |
1882年 | 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ。 |
大隈重信、立憲改進党を結成。 | |
福島事件が起こる。 |
○自由民権運動の始まり
さて、時代を少し西南戦争の前に戻します。西郷隆盛の下野、血税一揆など、各地で政府に対する不満が暴発する中、武力とは異なる形として自由民権運動というのが起こります。その先駆けは、1874(明治7)年に板垣退助らが結成した愛国公党であり、民撰議員設立の建白書(受験生の方は撰の字に要注意!)を出したのは、第64回でご紹介したとおりです。
さらに板垣退助は、4月に故郷の土佐に戻り、戊辰戦争の時に板垣の部下だった片岡健吉(かたおかけんきち 1843〜1903年)らと共に立志社を設立し、自由民権運動を開始(1883年に解散)。続いて翌年、板垣は大阪にて愛国社を結成し、自由民権運動を全国に呼び掛けます。
一方、薩摩系の大物、西郷隆盛らの下野に続いて、今度は、長州系の派閥のトップである木戸孝允も
「台湾出兵には反対である!」
と政府を辞職。要するに、薩摩、長州、土佐の大物が政府を去ってしまったわけです。
これには大久保利通は孤軍奮闘状態となり、伊藤博文と井上馨は「木戸さんと板垣さんを政府に戻しましょう」と動き出します。こうして1875(明治8)年4月に大久保、木戸、板垣が大阪で会談することになりました(大阪会議)。
この結果に基づき木戸、板垣が政府に復帰する条件として合意して出されたのが、漸次立憲政体樹立の詔(みことのり)。憲法を制定し、これを基本にした国家造りを少しずつ(漸次)進めることを進めることを宣言。木戸、板垣は参議として政府に復帰しました(ただ、板垣は大久保に反対して直ぐに辞任)。
その一歩として、政府の体制が次のようになります。
1.行政:左院、右院を廃止して正院のみとする。
2.立法:外国の上院、下院に対応するものとして、元老院、地方官会議を設置
3.司法:大審院(現在の最高裁判所)、上等裁判所、府県裁判所(翌年に地方裁判所)を置く。
一見すると今の三権分立に近いような形がしますが、まず、どの機関の人間も国民が選ぶわけではありません。そして、元老院議員は任命制、地方官会議は府知事、県令(いずれも内務卿の部下にあたる)が議員となります。さらに裁判所の人事権は司法卿にあり、しかも当面は地方官が判事を兼ねる、と、全ての分野において政府の関与を強くかかわる内容です。
○政府による弾圧策
いずれにせよ、これらは自由民権運動の始まりに対する政府の懐柔策。その一方で、これ以上運動が広がらないように手を打つことも忘れてはいません。すなわち1875(明治8)年に讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例を制定し、取り締まりの強化を図ります。
*讒謗律・・・官吏の公私生活に対する一切の批判を禁止
*新聞紙条例・・・新聞社の社主と新聞の編集人を政府に届けさせ、反政府的な記事を書いた場合には、新聞の発行停止はもちろん、責任者にも刑罰を科す。例えば第13条には
「政府を変壊し国家を転覆するの論を載せ、騒乱を煽起せんとする者は禁獄1年以上3年に至る迄(まで)を課す」
となっています(原文のカタカナは平仮名に直しています)。
これが6月8日のことでしたが、まだ不十分だと考えたようで、9月3日には出版条例を改正し、出版物は事前に内務省に届け出て、内容の検閲を受けないといけないことになりました。これにより、もちろん逮捕される人も出ましたし、明六社の明六雑誌のように、自主的に廃刊を選ぶ例も出ました。いや〜、今では考えられない法律ですね。
また元老院では、1876(明治9)年から憲法草案の策定を始め、1880(明治13)には「日本国憲按(けんあん)」としてまとめますが、岩倉具視に「天皇中心の日本には似合わない」と反対され、ボツになりました。
○自由民権運動の展開
そして1877(明治10)年、片岡健吉らは立志社建白を政府に提出。国会開設などを求める建白書を出しますが、天皇に対して不遜(ふそん)の部分があるとして却下されました。さらに1880(明治13)年3月、愛国社は国会開設を目指す大会を大阪で開催し、国会期成同盟を結成。各地の政社(せいしゃ=民権運動の政治結社)の代表が署名した国会開設請願書を太政官、元老院に出しますが、またも受理されませんでした。それ以上に、この民権運動の高まりに危機感を覚えた政府は、さらに取り締まりの強化に動き出し、翌月に集会条例を制定。
この集会条例では、政社や集会を届出制とし,さらに集会場に制服警察官を臨席させるようにしたもの。当然,演説の内容によって集会を解散させることを可能にしており、集会場での反政府的な発言は徹底的に取り締まられることになり、また国会期成同盟も運動方針を一本化することが出来ず、バラバラになっていきました。
○明治十四年の政変そんな中、政府内では、参議であった大隈重信が「イギリスのような政党政治による国会をすぐに作るべきだ」と主張し始め、伊藤博文ら他の参議と対立していきます。そして、北海道開拓使長官の黒田清隆(くろだきよたか 1840〜1900年/薩摩出身)が、1400万円余もする船舶・鉱山などの官有物を、同郷である鹿児島の政商、五代友厚(ごだいともあつ 1836〜85年)らの関西貿易商会に38万円余、無利子30年賦という破格の安さで払下げようとしたのが政治問題となり、世論の激しい反発を買います(開拓使官有物払下げ事件)。 伊藤博文らは、これは大隈重信が背後で世論を操っているのだろうと判断し罷免を決定。その一方、官有物払い下げの中止と、欽定憲法(天皇が定める憲法)の制定を政府の基本方針として決定し、国会開設の勅諭により10年以内の国会開設を公約することで、バランスをとろうとしました。 これを明治十四年の政変と言い、肥前(佐賀)出身の大隈が政府から追い出されたことで、ますます薩摩・長州の色の濃い政府となります。 開拓使札幌本庁舎(復元) ともあれ、政府が正式に国会開設を決定したことで、人々の動きも「国会開設要求」から、どんな国会にするのか、という動きへ変化が始まります。まず1881(明治14)年に、慶応義塾大学の創立者として有名な福沢諭吉(1835〜1901年)の影響を受ける交詢社が、「私擬憲法案」を発表します。この案では議院内閣制と、国務大臣連帯責任制を定めたのが特徴です。 さらに民権派の植木枝盛(うえきえもり 1857〜92年)は「東洋大日本国国憲按(こっけんあん)」を発表。一院制、連邦制、抵抗権、革命権を定めたもので、今の憲法と比較してもかなり先鋭的な内容です。 ちなみに、この払い下げ事件のイメージが強い五代友厚ですが、彼は14才の時に、 世界地図を模写して藩主に献上したほど、若くして世界に目を向けた人物。幕末のヨーロッパで勉学に励み、帰国後は明治元年に外国事務局判事として大阪に赴任したことが縁で、当時、首都が東京に移って地盤沈下が始まった大阪の劣勢を挽回すべく、翌年に官僚を辞め、実業家に転身。 大阪株式取引所(現、大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)、堂島米商会所、大阪商業講習所(大阪商科大学の前身)、共同運輸、神戸桟橋(現在の川崎汽船K-LINE)などを様々な機構や会社を設立し、大阪の経済活性化と近代化に多大に貢献。東の渋沢栄一と並び称されました。 1885(明治18)年に51歳の若さで亡くなったときには、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだそうです。 ○政党の誕生そして国会の開始を見据えて、いよいよ政党も本格的に結成が始まります。○自由党 まず、立志社のメンバーの一部は1881(明治14)年10月に板垣退助を総理(この場合、党首のこと)、副総理に中島信行(1846〜99年)とする自由党を結党しました。フランス流急進主義を手本に、一院制、主権在民、普通選挙を目指すのが基本的な考え方で、地方農村を支持基盤とします。 主なメンバーは後藤象二郎、河野広中、片岡健吉、星亨などです。 ○立憲改進党 また、罷免された大隈重信ですが、黙ってはいません。イギリス風の国会開設を目指す立憲改進党を1882(明治15)年に結党し、都市部の実業家や知識層の支持を集めます。日本と同じく君主制の国家であるイギリスをモデルにした立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張・君民同治が基本的な考え方です。 結党時の副総理は河野敏鎌。その他、主なメンバーには矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人などがいます。 自由党と立憲改進党は、政党政治を目指した点では一致していましたが、仲が非常に悪く、1898年に憲政党として合同するも分裂し、戦前の日本の政治においてはライバルであり続けました。 ○立憲帝政党 さらに同じころ、福地源一郎(ふくちげんいちろう 1841〜1906年)は政府の支持を打ち出した保守政党「立憲帝政党」を結党するものの、世論の支持は得られず、翌1883(明治16)年には解党に追い込まれました。 ○政府の反撃と政党間の対立しかし政府は、自由党や立憲改進党の成立に対抗すべく、1882(明治15)年に先ほど登場した集会条例を改正。政党の支部設置を禁止することで、地方への運動の広がりを防ぐ作戦に出ます。さらに、伊藤博文、井上馨ら政府首脳は、自由党の懐柔を狙い、総理である板垣退助と、後藤象二郎のヨーロッパ視察を、財閥である三井を通じて支援。これに党勢拡大のチャンスと、大隈重信の立憲改進党は「自由党は政府の支援を受けている!」と批判。すると自由党は、「立憲改進党こそ、三菱と癒着している!」と反撃し、泥仕合を展開しました。こうして指導部同士が罵り合っているうちに、末端は統制が効かなくなります。さらに詳しくは後述しますがこの頃、大蔵卿の松方正義が進める財政政策(次回紹介します)によって、経済はデフレ状態となり、様々な品物の価格が下落、しかし地租は定額なので税金が高くつくことによって農村は深刻な不況になります。 こんな状況、もはや実力行使で現状を打破するしかない、と過激な行動が起こるようになります。 ○民権運動の激化まず1882(明治15)年に、福島事件が発生します。これは県令の三島通庸(みしま みちつね 1833〜88年)による多大な土木工事に負担を強いられた農民たちが自由党員とともに決起。これは三島が県会(県議会)を無視して、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道(会津三方道路)の建設を進めたことについて、住民が負担に耐えかね反発したもので、県会議長の河野広中が中心に運動を起こしました。 そして、喜多方警察署にて抗議活動を行いましたが逮捕され、河野広中は軽禁獄7年の刑に罰せられるなど、関係者が処罰されました。そのほか、こんな事件が続きます。 (Gooogle Mapを加工) 1.高田事件(新潟) 1883(明治16)年3月、新潟県高田(現、上越市高田)にて赤井景韶(かげあき)らが大臣暗殺・内乱の陰謀を企てたとして検挙された事件。北陸の自由民権運動への圧力となりました。 2.群馬事件(群馬) 1884(明治17)年5月、松方デフレによる困窮に苦しんでいた農民に対し、群馬県の自由党が反政府運動の機運を盛り上げ、農民たちと共に妙義山麓で蜂起した事件。松井田警察分署などを襲撃しますが、指導者らは逮捕され、運動は終結しました。 3.加波山事件(かばさんじけん)(栃木・茨城) 1884(明治17)年、今度は栃木県令となっていた三島通庸らを暗殺しようと、河野広体(河野広中の弟)、天野市太郎ら自由党の急進派が爆発物を作成。しかし誤爆したため計画が明らかになり、9月に茨城県の加波山山頂付近に立てこもります。その後、参加者は次々と逮捕されて終結しました。 このような中で、自由党は統率がとれなくなり、加波山事件の後に解党。その後は解散・再結成・再編等を繰り返すという、迷走を始めます。改進党も大隈重信ら指導部が離党して、実質的に解党状態になりました。 4.秩父事件(埼玉) 1884(明治17)年10月、埼玉県秩父地方で負債に苦しんだ農民たちが、その減免を求めて数万人規模で蜂起。これは松方財政によるデフレもさることながら、世界的な生糸価格の大暴落によって、輸出産業として養蚕が盛んであった秩父地方に大打撃を与えたことに伴うもの。 自由党員らが中心となり、困民党を結党し蜂起しますが、政府はいち早く警官隊や鎮台兵を投入し、これを鎮圧することに成功しました。このように、自由民権運動と従来の農民一揆的な要素が結び付て各地で反政府運動が発生します。 7.名古屋事件(愛知) 1884(明治17)年10月、名古屋の自由党員による政府転覆計画。事前に発覚され、処罰されました。 8.飯田事件(長野) 1884(明治17)年12月、愛知県と長野県の自由党員による政府転覆計画。事前に発覚され、処罰されました。 9.大阪事件(大阪) 1885(明治18)年11月、旧自由党の大井憲太郎(1843〜1922年)が朝鮮の政府を倒し、改革派の独立党(金玉均ら)を支援して立憲国家を造ろうと計画。事前に大阪で検挙されるという事件が発生します(大阪事件)。国内の自由民権運動が衰退する中で、海外に活路を求めようとしたものでした。 10.静岡事件(静岡) 1886(明治19)年6月、静岡の自由党員が箱根離宮落成式に政府高官の暗殺を計画。これも事前に発覚されて処罰されました。 参考文献・ホームページ ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 詳説 日本史 (山川出版社) 結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研) この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房) マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫) 読める年表日本史 (自由国民社) 新詳日本史 (浜島書店) 図解近代史(成美堂出版) CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社) 日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社) 大阪商工会議所 五代友厚(初代会頭)について http://www.osaka.cci.or.jp/Shoukai/Rekishi/godai.html 次のページ(第67回 松方財政)へ 前のページ(第65回 西南戦争)へ |