第69回 黒田内閣から第一次松方内閣まで

○はじめに

 それではここからは時系列順に、内閣ごとにどんなことをやったのか見ていきましょう。

▼第一次伊藤博文内閣(初代総理大臣) 
  1885(明治18)年12月〜1888(明治22)年4月

○主な政策

・内閣制度の設置(1885年12月)
・北海道庁の設置(1886年1月)
・憲法を起草(1887年6月〜)
・保安条例を公布(1887年12月)

○総辞職の理由

 伊藤首相が大日本帝国憲法の制定に専念すべく、初代枢密院議長に転出するため。
 また、井上外務大臣による条約改正交渉への反発が高まったため。

○解説

 近代内閣制度としては初の総理大臣となった伊藤博文。この後も何度か組閣することになりますが、なんと言っても後の大日本帝国憲法の制定に着手したことが特筆されます。伊藤内閣については前回、大体見ていますので省略します。

▼K田清隆内閣(第2代総理大臣)
  1888(明治21)年4月〜1889(明治22)年10月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:K田内閣を参照のこと。ちなみに、閣僚は伊藤内閣から引き継ぎました。
*ちなみに新字体では「黒」、旧字体では「K」です。

○主な政策

・大日本帝国憲法発布(1889年2月11日)
・超然主義演説を行う
・メキシコとの間に平等条約である日墨修好通商条約を締結

○総辞職の理由

・大隈重信外相による条約改正交渉への反発(特に大隈外相がテロにより重傷)

○超然主義

 そもそも黒田清隆首相は、憲法制定に反対。
 首相になったのも、長州出身の伊藤の次は薩摩・・・と見回したときに、実力者が黒田清隆か西郷従道ぐらい、という中で、西郷が首相にはならんと固辞したから黒田に立場が回ってきた、という感じ。憲法発布の式典では、恭しく明治天皇から憲法を受け取る儀式を行いましたが・・・。

 何と翌日、鹿鳴館に地方官を集めて、
「然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。」
 と宣言。要するに、「政府の方針は政党の意向には左右されない!」ということ。これを超然主義と言います。

 とは言え、いざ議会が始まってみると議会対策なしに政治を行うことは出来ません。特に新年度予算が年度内に成立しなかったとしても、前年度予算と同じ内容が、新年度から執行できるように、大日本帝国憲法第71条に規定されていますが、裏を返せば新しい政策を予算に盛り込もうとするのであれば、新年度予算を通すしかありません。

 この時代、新しい産業の育成と発展、軍艦建造などの軍備拡張など、やらないといけないことは山ほどあります。前の年と同じでいいよね、なんて悠長なことは言ってられません。結局、議会と何とかうまくやっていくしかないのです。

 黒田内閣の期間中は、議会は始まっていないものの、実際に黒田清隆は立憲改進党前総裁の大隈重信を外務大臣として留任させたり、途中から逓信大臣に後藤象二郎(土佐出身で大同団結運動の提唱者の1人)を内閣に取り込み、民党と妥協と分裂を図ろうとします。

○大隈外相の条約改正交渉

 1889(明治22)年4月19日、イギリスの新聞ロンドン・タイムズに大隈重信外相が進める条約改正交渉の内容が掲載。これが翻訳されると、日本で反対運動が激化します。問題となったのは、治外法権撤廃の代わりに、外国人を大審院の裁判官として登用するという内容。

 様々な反対運動が各地で展開され、ついに10月11日には、枢密院議長の伊藤博文まで条約改正案に反対して、辞表を提出。10月18日、大隈重信は閣議で条約改正の審議を受けますが、山縣有朋内務大臣が条約改正案に反対し、閣議は散会。そして、大隈外相が馬車で官邸に戻ろうとしたところ・・・。

 なんと、超国家主義団体「玄洋社」のメンバー、来島恒喜(くるしまつねき/31歳)に爆弾を投げつけられ、右足を切断する重傷を負ってしまいます。来島はその場で、皇居に向かって正座し、自害しました。

 この事件に進退窮まった黒田首相は、条約改正交渉を注視すると共に、全閣僚の辞表を提出。ただ、明治天皇は黒田清隆の辞表のみを受理し、代わりに内大臣の三条実美を臨時の首相として、暫定内閣を2ヶ月間率いさせました。

▼第一次山縣有朋内閣(第3代総理大臣)
  1889(明治22)年12月〜91年5月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第一次山縣内閣を参照のこと。

○主な政策

・教育勅語を発布(90年10月)
・府県制・群制を公布(90年5月)
・第一回衆議院議員総選挙を実施(90年7月)
・第一回帝国議会を招集(90年11月)

○総辞職の理由

・第一議会(第一回帝国議会)閉会後、議会運営に自信がないとして辞職を決断

○選挙

 憲法の規定に従い、第一回衆議院議員総選挙が行われますが、今とは随分異なるものでした。
 まずは、選挙できる人の資格は、直接国税15円以上を納める、25歳以上の男子。当時の総人口4000万人のうち、僅か1%の40万人しか該当しませんでした。

 しかも、投票者は住所氏名を明記し、実印を押さないといけません。誰が誰に投票したか丸わかりです。
 さらに滑稽なことに、全国300の小選挙区制。小選挙区は、1つの選挙区から1人しか当選できません。で、繰り返しになりますが投票者が全部で40万人しかいませんし、投票に行かない人もいますから、1人の選挙区で多くても数百票確保できれば当選できるような状態でした。

 これから、ちょいと政府が圧力をかければ、政府系の候補者が当選できそうですね。しかも、かつて板垣退助が率いた自由党は、3つの組織
 ・大同倶楽部(河野広中・犬養毅など)
 ・自由党(大井憲太郎など)
 ・愛国公党(板垣退助など)
 に分裂して選挙を戦っている状態。さらに九州では、独自に九州同士連合会という民権派グループが選挙に臨みました。そして、大隈重信系の立憲改進党も別にいます。民権派、百花繚乱です。


 ・・・ところが、7月1日行われた選挙の結果は民権派各党の大勝利。
 大同倶楽部55、立憲改進党46、愛国公党35、九州同士連合会21、自由党17と過半数を超えます、このうち、立憲改進党以外は議会開催までに合同し、立憲自由党となりました。

 そのほか、議会開催前までに組織が固まり、こんな分布になります。
 赤系統が民党、青系統が吏党です。

○第一議会

 第一議会において焦点となったのが予算。山縣内閣としては、軍備拡張を柱とした予算案を出しますが、民党(野党)は政費節減・民力休養を主張し、予算を削減するよう抵抗します。

 このため、農商務大臣である陸奥宗光によって、立憲自由党の土佐派というグループが説得、もしくは買収され、一部予算を削減した上で、予算案を可決させました。これによって分裂の危機に陥った立憲自由党は、星亨の仲介によって組織の改革を行い、自由党と改称。板垣退助を総理、星亨と河野広中らを幹事とする体制に改められました。

 ちなみに陸奥宗光はこの後も名前が出てきますが、幕末には坂本龍馬の片腕として海援隊で活躍した人物。明治維新後は兵庫県知事などを務めるも、薩長藩閥政府に反発して官を辞職。なんと1877(明治10)年の西南戦争の際に政府転覆を図って、投獄されます。

 このときから目をかけたのが伊藤博文。1883(明治16)年に陸奥は特赦で出獄し、伊藤博文の勧めでヨーロッパへ留学。このときに猛勉強し、外務省へ。黒田内閣のとき、駐米公使兼駐メキシコ公使として日本初の平等条約である日墨修好通商条約をメキシコと締結することに成功。この後、陸奥外交と名前が残るほど、外交でその才能を開花させます。

 ちなみに明治天皇は、政府転覆計画の前科がある陸奥が嫌いで、農商務大臣に対して不満を漏らしますが、伊藤博文は陸奥を擁護し、活躍させたそうです。

▼第一次松方正義内閣(第4代総理大臣)
  1889(明治22)年12月〜91年5月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第一次松方内閣を参照のこと。

○主な政策

・民法と商法の施行を延期(1892年)

○総辞職の理由

・閣内不一致

○青木周蔵の条約改正交渉と大津事件

 第一次山縣内閣と第一次松方内閣で外務大臣を務めたのが、青木周蔵(あおきしゅうぞう 1844〜1908年)でした。やはり至上命題は条約改正問題。このような改正案を目指しました。

1.領事裁判権の撤廃は条約実施5年後
2.関税自主権は条約実施後6年で一部を回復

 そして交渉の中で、イギリスはこの条約案に理解を示し始めました。

 ところが発足から僅か5日の、松方内閣を揺るがす大事件が発生します。なんと、ロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で、皇太子警備に当たっていた津田三蔵巡査に襲われたのです。これを、大津事件といいます。ニコライ皇太子は、シベリア鉄道起工式に参列する途中に来日し、国を挙げて歓待していたのでした。なんという事件でしょう・・・。



ニコライ皇太子が襲われた現場
(滋賀県大津市)
 驚いた政府は、明治天皇が京都、そして神戸にまで2回もニコライ皇太子の見舞いに訪れるなど、国内全体が「ロシアを怒らせたら大変なことになる!」と恐れおののく状況。さらに、政府は刑法第116条(当時)の大逆罪(天皇三后皇太子に対し危害を加え、又は加えんとしたものは、死刑に処す)を適用するよう、大審院(現在の最高裁判所)に圧力をかけます。

 一方、大審院長の児島惟謙(こじまいけん 1837〜1908年)らは、事件を担当する裁判官を説得し、ロシア皇太子を特別扱いせず、普通謀殺罪の未遂事件として無期徒刑としました。これは司法権の独立を守った事件とされ、日本の司法制度の歴史の中で、非常に重要なものとされています。海外にも、日本が法治国家であることを示すことにもなりました。

 ただし、児島惟謙は裁判の担当者ではないので、大審院長という立場で、他の裁判官に圧力をかけたとも言えますし、そもそも大津地方裁判所で裁判を行うべきところを、いきなり大審院で裁判したのも如何なものか、という疑問点も残ります。

○議会との関係

 さて、1891年11月〜12月の第二議会でも、民党は民力休養・政費節減を主張。軍艦建造費を含む予算案に反対し、海軍の予算要求をカットした予算案を対案として提出します。

 これに激怒した樺山資紀海軍大臣(1837〜1922年 薩摩出身)が、本会議でいわゆる「蛮勇演説」を行い、要約すると「薩長政府とか何とかおまえ等は批判するが、今日この国があるのは誰のおかげだと思っているんだ!」と言ってしまいます。

 これで議会は大紛糾し、松方内閣は衆議院を解散し、選挙に打って出ます。そして品川弥次郎内務大臣は、内務省の白根専一次官に陣頭指揮を取らせ、地方官吏、警察官を使って、死者25人、負傷者388人を出すほどの選挙干渉を行います。さらに吏党の人間が、昼間から堂々と刀を振り回して、民党側の人間を脅迫したり、監禁したり・・・。


 それでも、選挙の結果は左図の通り。自由党、立憲改進党と、政府と一定の距離を保つ独立倶楽部の3党が過半数を獲得。ちなみに中央交渉部(中央交渉会とも)というのは、大成会をベースに結成された、松方内閣の与党です。

 ついには枢密院議長の伊藤博文が、関係者の処分を求めると共に辞表を提出。

 この圧力により品川内務大臣は辞任しますが、さらに陸奥宗光農商務大臣も(おそらく抗議の意味で)辞任。貴族院までも政府に反省を促す決議を行いました。

 この後、品川弥次郎は、政府派の議員とともに西郷従道を会頭(かいとう/党首・代表のこと)とし、自らは副会頭とする国民協会を結党しました(これに参加するか否かで、中央交渉会は分裂し、自然消滅)。ちなみに西郷従道は西郷隆盛の弟で、各内閣で海軍大臣を歴任。台湾出兵のところでも名前が出ましたね。

 また、松方内閣は河野敏鎌(こうのとがま 1844〜95年)を内務大臣任命しますが、河野内務大臣は、品川前内相の下で選挙干渉を行った白根専一次官をクビにし、安馬保和福岡県知事を更迭することで、選挙干渉の責任を取らせます。これが、陸軍大臣の高島鞆之助(1844〜1916年 薩摩出身)、海軍大臣の樺山資紀の怒りを招き、両名は辞表を提出。

 これにより、松方内閣は進退窮まり、閣内不統一を理由に総辞職しました。
 そして、再び伊藤博文が内閣を組閣することになります。

参考文献・ホームページ
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)

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