第81回 二・二六事件

▼斎藤実内閣(第30代総理大臣) 
  1932(昭和7)年5月〜1934(昭和9)年7月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:斎藤内閣を参照のこと。

○主な政策

・満州国の独立を承認し、日満議定書を締結
・国際連盟を脱退


○総辞職の理由

 帝人事件で閣僚が逮捕されて総辞職

○解説

 前回見たとおり、陸軍がもはや政党出身者が首相になることを承服しなかったこともあり、次の総理に選ばれたのは海軍出身で、歴代内閣の海軍大臣や朝鮮総督を務めた斎藤実(さいとうまこと 1858〜1936年)でした。岩手県の水沢藩士の長男として生まれた人物です。

 斎藤首相は軍部の中でも穏健派で、組閣は陸軍大臣と海軍大臣は通常通り軍人を、立憲政友会から3名、立憲民政党から2名、貴族院から3名、閣僚から1名という布陣で挙国一致内閣とします。

 外交方針は、軍部の方針に沿った形で、満州国の独立を正式に承認。その後に出されたリットン報告書を巡って、ついに国際連盟脱退を選択してしまいます。

○帝人事件

 斎藤内閣が総辞職する理由となったのが、帝国人造絹絲株式会社(帝人)の株をめぐる贈収賄疑惑。時事新報がこの問題を取り上げ、議会でも鳩山一郎文部大臣が追及を受け、嫌気がさした鳩山文部大臣は辞職します。さらに検察によって帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴され、厳しい拷問もあったそうです。

 この贈収賄疑惑に国民からの批判が高まり、斎藤内閣は総辞職しました。

 ところが。
 このあと、起訴された全員が無罪に。実は裏で糸を引いていたのが、司法官僚出身で当時は枢密院副議長であった平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう 1867〜1936年)。犬養首相の後の総理の座を狙いますが、元老の西園寺公望に右翼的な思想、行動が嫌われており、後継総理に指名されませんでした。これを恨んで、事件をでっち上げたと言われています。

○ヒトラー、ドイツの政権を獲得

 ここで国際政治に目を転じてみますと、後に日本と大きく関わることになるドイツで、1933年に「反ユダヤ主義」などを掲げたアドルフ・ヒトラー(1888〜1945年)がヒンデンブルク大統領によって首相に任命され、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を獲得します。

 ヒトラーは、第一次世界大戦の敗北で過酷な賠償を負わされ、さらに世界恐慌に苦しむドイツで「この恐慌はユダヤ人と共産主義の陰謀である!」と訴え、強いドイツの再建と仕事の確保、民族の栄光を掲げて、ナチスの支持を拡大してきました。

 そしてヒトラーは、国会で全権委任法を通過することに成功。なんと国会の同意なくして法律を制定できる権利を得ます。そしてナチス以外の政党を禁止し、翌年にヒンデンブルク大統領が死去すると総統に就任。独裁体制を確立するのでした。

 国家秘密警察ゲシュタポと監獄と収容所によって反対勢力を弾圧する一方、積極的な軍備拡張と財政支出により失業問題を解決し、国民の熱狂的な支持を得ます。後に周辺国への侵攻を開始し、さらにユダヤ人を強制収容所に送って虐殺を始めますが、それはまた後ほどご紹介するとしましょう。

▼岡田啓介内閣(第31代総理大臣) 
  1934(昭和9)年7月〜1936(昭和11)年3月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:岡田内閣を参照のこと。

○主な政策

・ワシントン海軍軍縮条約の破棄をアメリカに通告
・美濃部達吉の天皇機関説問題に際し、国体明徴声明を出す。


○総辞職の理由

 二・二六事件の発生によるため

○解説

 引き続き海軍出身者に組閣の大命が下り、岡田啓介(おかだけいすけ 1868〜1952年)が首相となります。福井藩士の長男として生まれ、海軍大将、連合艦隊司令長官、田中義一内閣の海軍大臣を務めています。


○天皇機関説問題

 1935(昭和10)年2月19日、貴族院本会議で菊池武夫(貴族院議員)が、美濃部達吉(東京帝大教授)の天皇機関説の批判を行います。美濃部教授の学説は、主権の主体は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関であるという、至極当然の憲法のお話でしたが、天皇を神格化する思想からは反発の声が挙がっていました。

 これに対し、美濃部教授は国会で理路整然と憲法論を説明し、菊池武夫も「これなら問題ない」と唸らざるを得ませんでしたが、天皇の統帥権を利用して国会の枠組みから外れたい軍部は、この動きを利用。右翼と共に、もはや理屈や理論を抜きに激しく攻撃を行うようになり、ついに岡田首相も天皇機関説を排斥する国体明徴声明を出しました。

 このようにして、社会主義や共産主義はおろか、自由主義や民主主義的な考え方についても、軍部の気に食わないものについては弾圧されるようになり、思想の統制が図られていくようになります。


○二・二六事件

 そして1936(昭和11)年2月26日、「官僚・財界と結ぶ陸軍統制派を倒し、天皇に直結する政治体制をつくる「昭和維新」を断行せよ!」と、陸軍皇道派と呼ばれるグループの青年将校たちが1500名の兵力でクーデターを起こします。

 内大臣(天皇補佐の宮内官)で前首相の斎藤実、教育総監の渡辺錠太郎、大蔵大臣の高橋是清らが次々と殺害。岡田首相も狙われますが、秘書の松尾伝蔵が岡田首相と誤認されて射殺され、岡田首相自身は難を逃れました。

 この動きに陸軍首脳は当初は理解を示しましたが、昭和天皇が勅命を出して青年将校たちの撤収が命令されました。翌日に青年将校たちは包囲され、武装解除。軍法会議で17名に死刑判決が下され、彼らに思想的な影響を与えたとして、超国家主義者の北一輝西田税(みつぎ)も死刑判決が下されました。

 岡田内閣はこれで総辞職し、一方で陸軍は皇道派を粛清して組織を引き締めると共に、この事件を利用して発言力を拡大します。



旧歩兵第三聯隊兵舎
国立新美術館の建設に伴い壊されてしまった旧歩兵第三聯隊兵舎。青年将校たちの根拠地として使われました。
2001(平成13)年までは東京大学生産技術研究所として使われていました。

旧歩兵第三聯隊兵舎
現在は僅かな部分が保存されていますが、中央玄関部分ではないため往時の雰囲気を感じることは出来ません。

▼廣田弘毅内閣(第32代総理大臣) 
  1936(昭和11)年3月〜1937(昭和12)年2月


○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:広田内閣を参照のこと。

○主な政策

・五相会議で軍備増強と国家総動員体制の構築を目指す「国策の基準」を定める。
・軍部大臣現役武官制を復活
・日独防共協定を締結
・文化勲章の制定



○総辞職の理由

・衆議院の解散を巡って内閣不一致のため

○解説

 元老の西園寺公望は、外務省の官僚で、斎藤内閣、岡田内閣の外務大臣を務め、国際協調路線を推進していた広田弘毅を口説き落として、次の首相に推薦。こうして広田内閣が誕生しました。

 しかし西園寺の思惑とは裏腹に、広田首相は軍部の意向に従順で、前内閣の高橋是清蔵相が、景気が回復してきたことから予算の節減を行っていたのを転換し、軍事費の拡大を決定して歳出を増加させます。また、陸軍の中国進出と海軍の南方進出を基本方針とする国策の基準を定め、戦時体制への布石を打ちます。

 さらに致命的なのが、軍部大臣現役武官制を復活したこと。これによって、陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人が就任することになり、逆にいえば軍の気に食わない内閣は、大臣辞任というカードを使って倒閣できるようになります。
 事実、広田内閣は立憲政友会の浜田国松議員と寺内寿一陸相の間で「割腹問答」(浜田議員による軍部批判と寺内陸相による激論。ヒートアップするうちに、浜田議員から割腹せよとの発言まで飛び出た)が起こった際に、激怒して衆議院の解散を要求する寺内陸相と、ほかの閣僚との間で意見が対立して、閣内不一致で内閣総辞職。

 続いて陸軍の出身で、朝鮮総督などを務めた宇垣一成に組閣の大命が下りますが、あろうことか出身組織の陸軍が反対して陸軍大臣を送り込まず、組閣出来ませんでした。こうして政府は軍部に振り回されるようになり、戦争へ突き進む要因の1つとなります。

 これらが戦後、アメリカ等の連合国に重要視され、極東軍事裁判において、広田弘毅は文官の中で唯一A級戦犯として処刑されました。

 このほか、広田内閣はヒトラー率いるナチス・ドイツとの間で日独防共協定を締結。共産主義国であるソ連を仮想敵国としたものですが、交渉しているうちにこれといった実効性のない条約となりました。


○国会議事堂の完成


国会議事堂
 さて、1920(大正9)年より工事が進められていた国会議事堂が1936(昭和11)年に完成。広田内閣は、この国会議事堂を使った最初の内閣となりました。建築材料は全て国産です。

○ベルリン・オリンピックの開催

 1936(昭和11)年8月、ドイツの首都ベルリンで第12回オリンピックが開催され、次回オリンピックの東京開催を目指す日本は多数の選手を送り出しました(開会前日に日本での開催がIOC総会で決定)。

 このオリンピック、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統にとって、「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会」として、総力を挙げて開催準備を行います。そして49カ国から約3900名が参加し、前回のロサンゼルス大会の約3倍の参加者数を集めることに成功しました。ちなみに、選挙時には「ユダヤ人の祭典」としてオリンピックを批判していたとか。

 また、インフラ面では(オリンピックのためだけではないですが)、空港や道路(アウトバーン)などの整備を行ったほか、開会にあたっては初の聖火リレーを実施。古代オリンピックの発祥地、ギリシアのオリンピアで聖火を採火してハンガリーやオーストリアなどを経由して、会場まで聖火が運ばれ、演出効果を高めます。

 また、映像は不鮮明ではありましたがテレビによる中継も実施。さらに、レニ・リーフェンシュタール監督(1902〜2003年)による2部作の記録映画「オリンピア」は、単なる記録ではなく芸術的に素晴らしい作品となり、1938年のヴェネツィア国際映画祭で金賞を受賞するなど絶賛されます。

 また、日本ではNHKラジオで中継され、お茶の間がオリンピックに熱狂しました。特に競泳女子200m平泳ぎで優勝した前畑秀子(1914〜1995年)の、試合中の競り合う展開に「前畑ガンバレ」と連呼する河西三省アナウンサーの実況が大きな興奮を呼びました。前畑の金メダルは、日本人女性として初です。

 この大会では、日本は金メダルを6つ、銀メダル4つ、銅メダル8つを獲得。当時は日本領であった朝鮮からも選手が参加し、陸上競技男子マラソンで孫基禎(ソン・ギジョン 1912〜2002年)が金メダルを獲得しています。もっとも、日本人選手としての参加には胸中複雑なものであったようです。

 そして、いよいよ次回は東京で開催だ!・・・となるはずが、日本が戦争に突入して中止。その次のロンドンオリンピックも第2次世界大戦でロンドンが戦場になっており中止。こうしてベルリンオリンピックは、戦前で最後にして最大のオリンピックとなりました。

▼林銑十郎内閣(第33代総理大臣)
  1937(昭和12)年2月〜1937(昭和12)6月


○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:林内閣を参照のこと。

○主な政策

・結城豊太郎蔵相による「軍財抱合」演説
(軍部と財界の対立を避け、互いに抱き合って国政を進めようという方針)


○総辞職の理由

・衆議院議員総選挙で敗北したため

○解説

 続いて陸軍大将を務めた林銑十郎に組閣の大命が下ります。
 林首相は昭和12年度予算が成立するや、衆議院を解散。しかし、野党の立憲政友会、立憲民政党の圧勝で、倒閣の動きを強めたことから総辞職。これといった業績もなく、短命の内閣に終わりました。いやはや、首相はコロコロと変わります。

次のページ(第82回 近衛内閣の成立と日中戦争への道)へ
前のページ(第80回 満州事変と政党内閣の終焉)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif