第80回 満州事変と政党内閣の終焉
▼第2次若槻禮次郎内閣(第28代総理大臣)
1931(昭和6)年4月〜1931(昭和6)年12月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:第2次若槻内閣を参照のこと。○主な政策
・日中関税協定の締結により、中国の関税自主権を承認(1931年5月)・柳条湖事件の発生
○総辞職の理由
立憲政友会と挙国一致内閣を組織するかどうか、閣内不一致で総辞職○解説
濱口首相の容体悪化に伴い総辞職した後、同じ立憲民政党の若槻禮次郎に組閣の大命が下ります。2度目となる組閣ですが、ご覧のとおり長続きはしませんでしたが、外務大臣の幣原喜重郎による幣原外交は健在。中国の国民政府による不平等条約撤廃に理解を示し、関税自主権を承認した日中関税協定を締結しています。ところがどっこい。日本が権益を持つ満州では、現地の日本商品排斥運動と大恐慌、さらに中国による並行線路の建設によって南満州鉄道の経営が悪化。こんな状況下で軍部としては日中友好だなんてトンデモナイ!関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と同作戦主任参謀の石原莞爾中佐(いしはらかんじ 1889〜1949年)は、将来的にソ連と戦うことも想定し、日本が満州を領有して、資源の確保と前線基地の建設をすべきだと考えます。
そして、泥沼の日中戦争へ突入する転機となった柳条湖事件(満州事変)を起こすのでした。
○柳条湖事件
1931(昭和6)年9月18日、関東軍は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満州鉄道の線路を爆破!現場は、かつて張作霖が爆殺された場所からも近く、その北東に位置した場所です。そして関東軍は「中国軍の仕業だ!応戦しろ!」と軍事行動を起こし、一方で若槻内閣は不拡大方針を発表。しかし、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将(はやしせんじゅうろう 1876〜1943年)は10月、張学良(張作霖の息子)が仮政府を置く錦州へ空爆を行い、11月にチチハル、翌1932(昭和7)年1月に錦州を、さらにハルピンを占領。
そして、野党の政友会やマスコミも戦争熱を高め、後述しますが桜会という軍人らによる右翼団体によるクーデター計画まで発覚。こうした中で若槻内閣は立憲政友会との連携を模索しようと安達内務大臣が動き出します。しかし、幣原外務大臣と井上大蔵大臣は政友会との連携を拒否。閣内不一致で12月に総辞職しました。
柳条湖事件現場
九・一八歴史博物館
中国側は九・一八事変といい、爆破された線路の脇に九・一八歴史博物館を建設して反日運動に利用しています。
▼犬養毅内閣(第29代総理大臣)
1931(昭和6)年12月〜1932(昭和7)年5月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:犬養内閣を参照のこと。○主な政策
・金輸出再禁止・満州国の建設
○総辞職の理由
五・一五事件で犬養首相が暗殺されたため○解説
今度は立憲政友会の総裁、犬養毅(いぬかいつよし 1855〜1932年)に組閣の大命が下ります。岡山県の出身で、ジャーナリストを経て第1回衆議院議員総選挙以来、一貫して議員活動を続け、これまでも護憲運動などで度々名前が出てきましたね。最終的に、なんと42年も議員を務めたそうで、所属した政党も立憲改進党、中国進歩党、立憲国民党、革新倶楽部、立憲政友会と、まさにこれまでの政党の歴史を見ているかのようです。さて、内政面では高橋是清を大蔵大臣に起用して、濱口内閣時代の金解禁後の経済混乱を収拾すべく、内閣発足後直ちに金輸出を再禁止すると共に、円安を利用して輸出を増大させます。もっとも、アメリカもイギリスも経済状態が悪い中、日本から安い商品が入ってきてたまるかと、関税の引き上げで対抗。特にこの当時のイギリスは世界中に植民地を持ち、この中で経済活動を行うブロック経済圏を作り、他の国にとっては厄介な相手となります。
とは言え、高橋是清の財政政策によって、何とか景気は持ち直していくことになります。
犬養毅の生家(岡山市北区)
○満州国の建国
戦火が拡大する満州において、石原大佐ら関東軍は満州国の領有が最終目標ではありましたが、表面的には自衛のための戦争をPRせざるを得ず、その代替案として日本の言いなりになる国家を建設することにしました。その象徴として選ばれたのが、清の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ 1906〜67年)。清の皇族は元々は満州を拠点とする女真族ですから、日本にとってはうってつけの存在でした。密かに溥儀を満州へと連れ出し、満州国の執政(34年からは皇帝)へ祭り上げます。3月1日、親日派満州軍閥による東北行政委員会によって新京(長春)を首都にする満州国の建国が宣言されました。
そのスローガンは「王道楽土」と日本・満州・漢・蒙古・朝鮮民族による「五族協和」。
しかし実際には、強い権限をもつ国務院の総務長官には日本人を任命するとし、その任免権は関東軍司令官とするなど、日本の影響力が極めて強いものでした。
一方で中国は、先ほどの柳条湖事件について国際連盟に提訴。日本も調査団派遣を提案し、1932(昭和7)年2月にイギリスのリットン卿を団長とし、アメリカの軍人マッコイ、フランスの軍人クローデル、イタリアの外交官アルドロバンディ、ドイツ植民政策研究家シュネーの計5名の調査団(リットン調査団)が現地、そして日本へ派遣されました。時系列としては、このリットン調査団派遣中に満州国の建国を宣言が行われます。
そして1932(昭和10)年10月、リットン調査団は次のような報告書を出しました。主な内容としては
1.満州事変以後の日本の軍事行動を自衛とは認めない。
2.満州国はその他の民族の自発的意思で成立したものではない。
3.中国の主権の下で満州に自治政府を樹立する。
4.満州における日本の経済的権益は承認する。
というもの。
満州における日本権益を認めるなど、日本側にも多少は配慮した内容であったのですが、1933(昭和8)年2月にジュネーブ(スイス)で開かれた国際連盟総会で賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム/=タイ)の大差で報告案が可決されると、当時の齋藤内閣は国際連盟からの脱退を決定し、3月に通告しました(1935年に発効)。
国内世論も歓迎ムードで、国連総会での反対意見を長時間にわたって演説し、報告書が決議されると退席した日本全権の松岡洋右(まつおかようすけ 1880〜1946年)代議士が帰国すると、凱旋将軍のように称えられたそうです。
○血盟団事件
政党政治の腐敗や財閥による富の独占、中国に対する軟弱外交・・・こうした状況に、武力行使で国家の改造を行おうという動きが軍部の急進派や右翼に現れました。例えば、濱口首相が右翼の青年に撃たれたのもその1つ。それから1930(昭和5)年に、陸軍の橋本欣五郎中佐(はしもときんごろう)らが結成した桜会は、1931(昭和6)年3月に宇垣一成陸軍大臣を首班とする軍部内閣の樹立を目指したクーデター計画(三月事件)、同年10月に荒木貞夫陸軍中将を首班とする軍部内閣樹立を目指したクーデター計画(十月事件)を実行しようとしますが、未遂に終わりました。
そして1932(昭和7)年2月9日、前大蔵大臣の井上準之助が立憲民政党の選挙応援をしていたところ、血盟団という右翼団体の青年、小沼正によってピストルで射殺されます。さらに3月5日、三井合名理事長の団琢磨(だんたくま)が血盟団の菱沼五郎によって射殺されます。
この事件の背後にいたのが、日蓮宗の僧侶である井上日召(いのうえにっしょう 1886〜1967年)。茨城県磯浜町(現在の大洗町)の立正護国堂住職でありながら、ここを右翼集団である血盟団を結成し、「一人一殺」を目標に、政財界の要人22名を殺害することによって、腐敗した支配階級を排除し、国家改造を行おう!と計画したのでした。
井上、小沼、菱沼らは逮捕されて無期懲役となりましたが、その思想的影響は周囲に波及し、ついに以下の事件が発生します。
○五・一五事件
1932(昭和7)年5月15日午後5時30分頃。三上卓中尉(みかみたかし)ら海軍の青年将校4名、陸軍士官候補生5名が首相公邸に突入。先に5名が犬養首相を発見し射殺しようとしますが、犬養首相は「まあ、靴でも脱いで座れ、話せばわかる」と日本間に招き入れます。そこへ、残る4名がやってきて「問答無用!」と首相の顔面に銃撃して射殺。
ちなみに犬養首相は、被弾後駆けつけた女中に「今の若いもんをもう一度つれてこい。話してきかせてやる」と、最期まで説得を試みたとか。
なお、犬養首相襲撃に加え、海軍青年将校、陸軍士官候補生、農民決死隊、血盟団の残党からなる別働隊が警視庁、日本銀行、内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行に手榴弾を投げつけ、変電所の襲撃も行いますが、目立った成果は上がらず、全員が検挙されました。これを、五・一五事件といいます。
そして裁判の中で青年将校らは農村の疲弊、政党政治の無策、財閥の暴利を訴え、これが新聞で報道されると、一般民衆から減刑嘆願書が殺到するなど、概ね青年将校側に同情的でした。
結局、最高刑でも軍人側は禁固15年、民間側は無期懲役などの判決となり、誰一人として死刑にはなりませんでした。それでも、軍の人間には非常に甘い判決だったのが目立ちます。
このような情勢下、陸軍は政党出身者による組閣を拒否。そして元老の西園寺公望は政党政治を断念し、次の首相は、軍部関係者から選ばれることになりました。
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