第83回 日米開戦前夜!第2次&第3次近衛内閣

▼第2次・第3次近衛文麿内閣(第38代・第39代総理大臣) 
  1940(昭和15)年7月〜1941(昭和16)年7月、1941(昭和16)年7月〜10月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第2次近衛内閣第3次近衛内閣を参照のこと。

○主な政策

・北部仏印(フランス領インドシナ)進駐(1940年9月)
・日独伊三国同盟調印(1940年9月)
・大政翼賛会発足(1940年10月)
・大日本産業報国会成立(1940年11月)
・日ソ中立条約調印(1941年4月)
・日米交渉の開始(1941年4月)
・南部仏印進駐(1941年7月)
・帝国国策遂行要領(対英米、オランダ戦準備)を決定(1941年9月)

○総辞職の理由

 対米強硬論を唱えた松岡外相を更迭するため(第2次近衛内閣)
  ・・・当時、首相が閣僚を罷免する権利が無かったので、総辞職という形をとった。
 対米開戦を巡って東條陸相と対立して総辞職(第3次近衛内閣)

○解説

 ヨーロッパにおいてヒトラーが電撃作戦で次々と領土を拡大しているのを見て、日本では日独伊三国同盟締結の機運が高まります。そして近衛文麿が再び首相に就任すると、1940(昭和15)年9月27日、ベルリンにおいて日独伊三国同盟が締結され、ヨーロッパと東アジアにおいて互いの新秩序建設の指導的役割を認め合い、第三国から攻撃を受けた場合は相互に援助しあう、という内容が取り決められました。

 一方で首相再任前、近衛文麿は新体制運動声明を出し、「天皇政治を翼賛し、政党によって政権を争奪しない」「政治的実践力を持つ国民運動組織づくり」などを目標にした、一国一党の新党結成の動きを働きかけます。

 これに軍部の強硬派は「ナチスのような組織が出来そうだ」と期待し、政党は「国民的人気の高い近衛元首相の新党で、政党不信が解消される」と期待し、国民は「挙国一致の強力な新党で軍部がコントロールできる」と期待。「バスに乗り遅れるな」をスローガンに、各政党が解党して参加することにしました。

 こうして第2次近衛内閣発足後の1940(昭和15)年10月、全政党が解党して大政翼賛会(たいせいよくさんかい)が結成。内閣総理大臣を総裁とし、知事、市町村長を支部長とする支部を各地に置きました。しかし、これと言った実行力のあるものは出来上がらず、まさに政府が決めたことを翼賛し、国民に伝えるだけの集まりになってしまいました。



興亜の晴衣国民服ポスター (江戸東京博物館蔵、昭和前期)
1940(昭和15)年に定められた日本国民男子の標準服。右が開襟タイプの甲号、左が詰襟タイプの乙号。
戦況が悪化するにつれ、素材は悪くなり、乙号が標準となっていきました。

さまざまな代用品 (江戸東京博物館蔵、昭和前期)
鉄や銅が不足する中、布製のバケツやランドセル、竹製ヘルメットなど、様々な代用品が登場しました。
こんなことをやっている時点で戦争に勝てると思えないのですが、それは今だから感じることなのでしょうね。

○日ソ中立条約

 さて、日本軍は中国はおろか、さらに東南アジアにまで軍を拡大するようになりました。1940(昭和15)年9月には、北部仏印進駐を行います。仏印とは、フランス領インドシナのことで、ベトナム、カンボジア、ラオスの一部地域のこと。

 なんでここまで軍を進めたのかというと、アメリカやイギリスが蒋介石を援助するルート(援蒋ルート)を東南アジア側から絶とうとするのが目的でした。そして当時、フランスはドイツに降伏し、親ドイツ政権としてヴィシー政権が誕生。このため、ドイツの同盟国である日本軍の進駐を認めたのです。

 こうした中で、ソ連との戦いは避けたいものでした。そこで外交交渉の結果、1941(昭和16)年4月13日、松岡洋右外相とモロトフ外務人民委員によりモスクワのクレムリンで、日ソ中立条約が調印されました。

 具体的には両国間の平和友好関係の維持、相互の領土不可侵、締結国の一方が第三国から攻撃をうけた際他方は中立をまもる、有効期間は5年(1946年4月24日まで)の4か条。

 松岡外相は、日・独・伊・ソ連の四国協商をつくりあげ、対米政策を優位に進めようと考えていましたが、既にドイツはソ連との開戦を決意しており、この目論見は崩れた上に、ソ連にとっては、日本との関係を機にすることなく、ドイツと戦うことが出来るというオマケがついてきました。

 さらに後の話になりますが、太平洋戦争末期にソ連はこの中立条約を破って対日参戦。満州、朝鮮、樺太、千島列島に侵攻し、約53万人とも言われる日本人をシベリアに強制連行したほか、北方領土問題は今なお解決に至っていません。

○日米交渉の開始

 一方でアメリカとの関係は極度に悪化。1940年には日米通商条約の廃棄が発行しました。
 それでも貿易面で両国の関係は非常に強く、日本は1940年当時、(金額ベースで)機械類の66.2%、石油の76.7%、鉄類の69.9%をアメリカからの輸入に頼っていました。アメリカと決裂すれば、日本経済には大打撃となります。

 こうした中、松岡外務大臣は、アメリカのフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(1882〜1945年)などアメリカ人に知人の多い野村吉三郎海軍大将(1877〜1964年)を駐米大使に任命。

 そして、アメリカのコーデル・ハル国務長官(1871〜1955年)と野村吉三郎大使との間で1941(昭和16)年4月16日に日米了解案が取りまとめられました。すなわち
 1.日本軍の中国撤退
 2.中国は満州国を承認
 3.蒋介石政権と汪兆銘政権の合流
 4.アメリカが中華関係の斡旋を行う
 というものでした。これに対し、ソ連から帰国した松岡外相は「こんなの認められるか!」と反発し、この提案に対して強硬な修正案を提示。これを見たハル国務長官が松岡外相を批難する事態になりました。ただ、当時はドイツがヨーロッパ戦線で優勢であり、日独双方が呼応した動きを見せないよう、アメリカは日本との交渉は続けることにしました。

○アメリカの孤立主義

 現在のアメリカの状況からは信じられませんが、19世紀初頭からこの時代まで、アメリカは南北アメリカ大陸の問題以外には深く関与しない「孤立主義」(モンロー・ドクトリン)が基本方針でした。前年に第二次世界大戦が起こって、ヒトラー率いるドイツがヨーロッパ全土に侵攻の手を広げても、ルーズベルト大統領は「皆さんのお子さんを外国の戦争に行かせることはしません!」と訴えて、1940年の大統領選挙で勝利していました。

 ところが、いよいよドイツがイギリスと交戦する状況になる中、イギリスの首相に就任したウィンストン・チャーチル(1874〜1965年)は、何とかしてアメリカを巻き込まないと、ドイツに勝てないと考えます。一方でルーズヴェルト大統領も、このままドイツが勝利すれば、大西洋の安全がドイツによって失われてしまうと考えます。

 このため、アメリカ国民に参戦を理解してもらう手を考えるようになりました。

 進展しない日米交渉に、近衛首相は対米強硬論を唱える松岡外相を更迭するため一旦総辞職。7月18日に第3次近衛内閣を発足させ、豊田貞次郎(予備役海軍大将)を外相に任命しました。

 こうした中、日本はわざわざアメリカとイギリスを刺激する問題を起こすのでした。

○南部仏印進駐

 アメリカとの交渉が難航する中、日本軍はフランスのヴィシー政権の許可を得て、1941(昭和16)年7月28日に南部仏印に進駐し、資源の確保を狙います。この動きは事前にアメリカが警告していましたが、強行されたことに完全にアメリカ、イギリス、オランダの逆鱗に触れます。
 *注:オランダ本国はドイツに征服されていましたが、ロンドンにあった亡命政府が植民地を支配していました。

 アメリカはフィリピン、イギリスは香港、インドやマレー半島、オランダはインドネシアなど周囲に植民地を周囲に持っていますから、「これは我々の植民地に攻撃するということか!」と、日本の動きは許容できなかったのです。皮肉にも松岡前外務大臣だけが「これはイギリスの思う壺になる」と反対していました。

 このためアメリカ、イギリス、オランダは各国の日本資産の凍結、さらにアメリカは対日石油輸出を全面停止、イギリスは日英通商条約廃棄などを実施。これに中国を加えて、日本包囲網を形成します。各国の頭文字をとって、ABCD包囲網とも呼ばれました。
【アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)】

 チャーチルや蒋介石にとって、アメリカを戦争に引きずり込む良い口実になった上、日本政府も軍は、まさかここまでの経済制裁が来るとは思っていなかったようで、予想外の展開に驚いたようです。イギリスなどの働きかけで、アメリカ政府の態度は硬化し、いよいよ日米開戦が現実のものに迫ってきました。

 そして9月6日、天皇、重臣、大臣が臨席して重要なことを決定する御前会議において、帝国国策遂行要領という方針を決定します。これは、10月下旬を目処にアメリカ、イギリス、オランダに対する戦争準備を完成し、この間に外交交渉で経済封鎖解除などを目指すが、解決できない場合は戦争に踏み切る、というものでした。

 アメリカは日本に対し、中国、仏印(フランス領インドシナ)からの撤退、日独伊三国軍事同盟の破棄を要求してきました。野村駐米大使は、日本政府に政策の変更を具申しますが、東條英機陸軍大臣は、
「三国同盟を破棄すれば、アメリカはドイツ、イタリアを撃破した後に日本打倒に動く。また、既に18万4000人を大陸で犠牲者を出しており、撤退を認めることは出来ない」
 と拒否。この結果、終戦までに約310万人の戦没者を出すことになりますが・・・。

 こうして開戦が現実味を帯びる中、その責任を負いたくない近衛首相は、10月16日に政権を投げ出してしまいました。


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