第84回 真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争
▼東條英機内閣(第40代総理大臣)
1941(昭和16)年10月〜1944(昭和19)7月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:東條内閣を参照のこと。○主な政策
・日米開戦、真珠湾奇襲攻撃(1941年12月)・翼賛選挙の実施(1942年4月)
・ミッドウェー海戦(1942年6月)
・大東亜会議開催(1943年11月)
・学徒出陣(1943年12月)
○総辞職の理由
サイパン島の陥落で責任を取ったため○日米開戦へ
既に元老の西園寺公望はこの世を去っており、代わって木戸幸一内大臣(1889〜1977年)ら天皇重臣たちによって、東條英機が後継首相に推挙。組閣の大命が下りました。昭和天皇や木戸らは、強硬論を唱える東條英機をトップにすえることで、逆にアメリカとの関係改善を実行させ、同時に軍部を押さえることに期待したのでした。開戦を回避するように!と昭和天皇の意向によって、東條内閣でも日米交渉は続き開戦予定時期も延期となりました。そして11月26日、ハル国務長官から交渉文書(通称「ハル・ノート」)が提示されました。内容としては
・中国や仏印(インドシナ)からの日本軍の撤兵
・日独伊三国同盟の否認
・蒋介石の重慶政府以外の中国の政府の否認など
・事態を満州事変以前にもどす
・アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
・アメリカが日本とイギリス、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ、およびアメリカ合衆国の包括的な不可侵条約を提案
というもので、特に満州事変の前に状況を戻すというのは、大変に厳しい内容でした。
不可侵条約も「提案」というだけで、結ぶとは言っていません。
実際のところ、このハル・ノートが重要な文書だったのか議論は分かれています。ともあれ、東條内閣はこれを「アメリカによる最後通牒(最終通告)だ」として、開戦準備に取りかかり、12月1日の御前会議で最終的にアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を決定。12月2日、ニイタカヤマノボレ一二〇八という暗号が日本海軍空母機動部隊に届けられます。
日米交渉は決裂した、12月8日に真珠湾を攻撃せよ、という意味でした。
(ちなみにニイタカヤマ=新高山とは、当時日本領だった台湾にある山の名前(現在の玉山)のこと。)
○真珠湾攻撃
12月8日、日本はイギリス領マラヤのコタバル(マレー半島北東岸)への上陸を開始、さらにハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃を行います。この日は日曜日で、アメリカ海軍の艦艇の多くが週末に寄港するという情報を得て決行されたのでした。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻の空母から、艦載機が次々と発進。そして、戦艦5隻の撃沈、戦艦3隻の中破、軽巡洋艦2隻大破、航空機188機を破壊するなどアメリカに大損害を与えます。日本の被害は航空機29機、特殊潜航艇5隻などを失った程度で、微少なものでした。
奇襲成功時の「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリという意味)を意味する符丁も、ニイタカヤマノボレと共に有名です。
しかし、宣戦布告が奇襲攻撃後に遅れ、奇襲攻撃の50分後になってしまいました。これは、在米日本大使館で暗号解読が遅れたためと言われています。
この結果、「卑劣な日本の奇襲攻撃だ!」とアメリカ国民を憤慨させ、攻撃前は79%のアメリカ国民が対日戦に反対していたにもかかわらず、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と、戦争参加への意欲を盛り上げる結果になりました。
この真珠湾攻撃を巡っては、歴史の大きな転換点となっただけに、フランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置したのではないか?など、様々な憶測があり、議論を呼んでいます。
ともあれ12月11日にはドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告。第二次世界大戦はヨーロッパのみならず、ついにアジア、太平洋にまで広がりました。世界はドイツ、イタリア、日本の三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中国などの連合国陣営に分かれて戦うことになります。
第二次世界大戦の特徴は総力戦、すなわち国内の人的、物的資源の全てが各国で投入されたこと。さらに、都市部へ航空機による空襲が行われたり、戦車による徹底的な破壊が行われたりしました。また、戦意を鼓舞するために宣伝戦(プロパガンダ)もメディアや写真、ポスターを使って積極的に行われています。
零式艦上戦闘機六二型 (模型、大和ミュージアム蔵) いわゆる、ゼロ戦、レイ戦。1940(昭和15)年に海軍の制式機として採用された機動性、装備、航続距離に於いて、当時の世界トップクラスの戦闘機。しかしながら、優秀なパイロットを次々と戦死させてしまったことから、熟練パイロット不足に悩まされます。
○戦いの行方
1942(昭和17)年1月、日本軍はマニラを占領します。そして同年2月、シンガポールのイギリス軍を降伏させ、このとき山下奉文中将が、シンガポール防衛司令官パーシバル中将に対し「降伏するかしないか、YESかNOか!」と強く迫ったエピソードは有名です。ただ、実は山下中将の部隊には食料弾薬が尽きつつあり、将兵も疲弊していたのだとか。その焦りから出た言葉だったようです。
さらに3月にはジャワ島のオランダ軍を降伏させます。これで、日本は石油の確保に成功しますが、その配分率は陸軍が85%、海軍が15%というもので、海軍は終戦まで石油不足に悩まされました。しかも、当時の日本には重油の精製能力はありましたが、ガソリン精製能力は低かったとか。
戦時下の住まい (江戸東京博物館蔵、昭和前期)
空襲が本格化する前の東京都内の一般的な住宅を再現したもの。
○バターン死の行進
また、アメリカの植民地であるフィリピンも攻略し、極東合衆国陸軍司令官のダグラス・マッカーサー大将を「アイシャル・リターン(私は帰ってくるだろう」の言葉と共に3月11日に退却させました。この後、本間雅晴中将は捕虜となったアメリカ兵とフィリピン兵を、収容所まで炎天下の中60kmも歩かせ、多数の死者を出します。これはパターン死の行進として悪名高く、アメリカでは反日機運を高める宣伝にも利用されました。そもそも捕虜をどう扱うかについて、日本と欧米では意識が全く違っていました。日本では1941(昭和36)年に東條英機が陸軍大臣だった頃に出した戦陣訓(軍人として取るべき規範を示した文書)の一説にある、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」に代表されるように、降伏や投降すること自体がNGという考えもありました。
さらに、このときはアメリカ兵だけでも1万500人、フィリピン兵は7万4800人も捕虜になったのでした。これは日本軍にとって予想外の数字だったようで、食料にも余裕が無ければ、兵員輸送のトラックにも限界がある中の悲劇であったようです。
さて、5月にはイギリスを撃破して、ビルマ(現在のミャンマー)全土を征服しました。このように、緒戦は日本の優位なペースで進みました。その一方、4月18日にはアメリカ軍のB25爆撃機によって日本本土が初空襲する事態に見舞われました。
○翼賛選挙の実施
こうした情勢下の4月30日、東條内閣は第21回衆議院議員総選挙を実施しますが、これが通常とは趣の違う選挙でした。そもそも、第2次近衛内閣時代に議員の任期を1年延長して、ここまで総選挙を引き伸ばしていたのですが、東條内閣は総選挙にはじめて候補者推薦制します。これは、翼賛政治体制協議会という組織が政府と戦争に協力する人物を各選挙区の定数全て(466名)を推薦し、軍事費から5000円の選挙資金を渡します。そして、非推薦候補者は警察や憲兵に弾圧させ、新聞や雑誌の報道も制限するものでした。徹底した選挙干渉でしたが、推薦した候補は381名、非推薦候補は85名が当選。
得票率でみると、非推薦候補者は約419万票(得票率35%)を確保しており、必ずしも東條首相の目論見通りにはならなかったようです。
○ミッドウェー海戦
そして6月、中部太平洋のミッドウェー諸島周辺海域に日本海軍は空母4隻を主力とする47隻の艦隊で、アメリカの陸上基地を攻撃。しかし、アメリカは日本の暗号を解読しており、日本の動きは筒抜けでした。大きな地図で見る
結果、日本は空母4隻、重巡洋艦1隻、航空機約300機、将兵約3000名以上を一挙に失うという大敗北を喫します。
一方でアメリカは空母1隻、航空機約150機の被害に止まり、これ以後、日本は各地の戦いで敗北が目立つようになり、翌年2月に日本軍はガダルカナル島から撤退。
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さらに5月にはアリューシャン列島のアッツ島で全滅するなど、後退を余儀なくされていきました。
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敗色が濃厚になるにつれ、大本営(天皇直属の陸海軍首脳らが参加する最高統帥機関)は、被害を少なく偽るなど、国民の戦意が落ちないように嘘の情報を流したり、情報統制を行うようになります。後に、大本営発表として揶揄されるようになり、今でも時折使われますね。
○イタリアの降伏
1943(昭和18)年7月25日、イタリアのシチリア島にイギリスとアメリカの連合軍が上陸します。そして7月25日、ムッソリーニは議会と国王によるクーデタで失脚し、9月8日にイタリア臨時政府は連合国と休戦協定を結び、事実上の無条件降伏をしました。もっとも、イタリアにはドイツ軍が駐留しており、翌年8月まで戦闘は継続します。○学徒出陣
不足する兵力を補うため、1943(昭和18)年10月、ついに20歳以上の学生・生徒の徴兵を決定されます。最終的に13万人が徴兵され、世界各地の戦線に投入され、次々と命を落としていきました。○大東亜会議
さて、当時の政府、軍には明確な軍事方針も無く、何となく強硬論に引きずられるまま戦争を続けているのが実情でしたが、アジアに大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)を造ることを目標に掲げ、1943(昭和18)年11月5日・6日に東京で、日本の影響下にあった各国政府首脳を招いた会議を開催しました。参加したのは東條英機首相、満州国の張景恵国務院総理、中国南京政府の汪兆銘行政院長、タイのワン・ワイタヤコーン首相代理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モー首相、オブザーバーとして自由インドのチャンドラ・ボース仮政府主席でした。そして、共存共栄や独立尊重など、五原則を内容とする大東亜共同宣言を採択しました。
しかし日本は特に東南アジアに対しては、占領地として資源の強引な供出、神社参拝の強制などを行い、反日機運を高めてしまいます(もちろん、占領地によって差異はあり、また日本と協力して欧米を追い出す動きもありました)。
○インパール作戦
1944(昭和39)年3月、第15軍司令官の牟田口廉也中将(1888〜1966年)はビルマの西側にある、インドのマニプル州の州都インパール攻略を目指します。なんとイギリスの植民地であるインド征服まで企んだ計画でしたが、大本営や現地の司令部にも、こんな計画は無く、そもそもインパールに行くには2000m級の山岳地帯の道無き道を行く、大変な行軍ルートでした。大きな地図で見る
しかし牟田口中将は反対する諸将を罷免したり、転任させます。そして大本営も強気の姿勢に引きずられ、作戦を認可。3個師団のほか、インド独立を目指すチャンドラ・ボースのインド国民軍も参加しました。しかし、6月になって雨季に入り豪雨となり、補給も途絶える中で、イギリス軍の攻撃に敗北。
それでも作戦を見直すよう要求した柳田師団長を罷免し、なおも作戦を継続します。
しかし7月5日にビルマ方面軍より作戦中止が通達。牟田口中将も従わざるを得ませんでした。
問題となったのが撤退戦で、イギリス軍による空爆と戦車による攻撃、さらに食糧不足による飢餓や栄養不足によって日本軍は死者2万5000人、負傷者4万2000人という犠牲という犠牲を出しました。
この作戦の後、牟田口中将は予備役に編入され、現役を退かされます。軍人としては不名誉ですが、所詮はその程度の処罰。これだけの作戦ミスをして多くの犠牲を出しても、根本的な責任は追及されないのが、当時の日本軍でした。
○マリアナ沖海戦とサイパン島陥落
インパール作戦の敗北に先立つ、1944年6月、マリアナ沖海戦で日本は海軍の空母・航空機の大半を失います。この戦いの当時、日本の空母は「翔鶴」「瑞鶴」に、新造した「太鳳」の3隻のみが正規空母、これに改造空母6隻の合計9隻。航空機は零戦225機など439機(数については諸説あり)。一方でアメリカ軍は空母「レキシントン」など正規空母7隻、軽空母8、航空機はF6Fヘルキャット戦闘機が443機など合計891機(これも諸説あり)という状況で、既に圧倒的な差がありました。さらに日本は熟練パイロットの多数が既に戦死しており、技量も低下していました。
そしてマリアナ沖海戦の後も、アメリカは次々と戦力を増強してきますが、日本はもはや海軍が壊滅したに等しい状況となりました。7月にサイパン島が陥落すると、とうとう東條首相更迭の声が高まり、辞任に追い込まれました。
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さて、この当時の日本は、国民生活においては物資が不足し、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」をスローガンに、ギリギリの生活状態。6月からはアメリカ軍の空襲から子供を守るために、東京、横浜、名古屋、大阪などの大都市から田舎に批難させる学童疎開が本格的に始まりました。
衣料切符 (江戸東京博物館蔵、昭和前期)
1944(昭和19)年より衣料品の購入は、衣料切符の点数内(年40〜50点)となり。切符を切り取って使いました。
また、日本語の使用や、氏名の日本化などを進める朝鮮半島でも徴兵令が実施されて兵力がかき集められます。しかし、なおも戦争継続の声は根強く、和平への道は探りがたい状況でした。
○敗退するドイツ
なお、マリアナ沖海戦と時をほぼ同じくしてソ連がドイツに対して大攻勢を開始し、次第にドイツに迫ります。さらに、同じく6月にはアイゼンハワーを最高司令官とするアメリカ、カナダ、イギリス連合軍のノルマンディ上陸作戦が開始され、フランスに連合軍が到着。8月25日にはパリが連合軍の手に落ちました。ヒトラーは12月16日にベルギーのアルデンヌ山地から装甲部隊による攻撃(バルジの戦い)を挑み、最初こそドイツ軍優勢でしたが、最後は連合軍に敗北して撤退を開始。ついに東西より、ドイツ本国への攻略が開始されるのでした。
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