第85回 2発の原爆投下と日本の敗戦
▼小磯國昭内閣(第41代総理大臣)
1944(昭和19)年7月〜1945(昭和20)4月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:小磯内閣を参照のこと。○主な政策
・無し○総辞職の理由
米軍の沖縄上陸を許し、中国国民党政府との和平にも失敗したため○連戦連敗
首相を引退させられた東條英機に代わって、朝鮮総督で予備役陸軍大将の小磯國昭に組閣の大命が下ります。経験のある米内光政元首相を副首相格の海軍大臣にして、困難を乗り切ろうとしますが、泥沼化する中国戦線と、アメリカ軍の猛攻を前に、打つ手無しという感じでした。1944(昭和19)年7月にはアメリカ軍がグアム島に上陸し、翌月に1万8000人の犠牲を出して日本は敗退。10月にはフィリピンのレイテ沖海戦で空母、戦艦、重巡洋艦など20隻以上を失い大敗北を喫します。そしてこの頃から、ついに軍は特攻を命じます。すなわち、爆薬をつんだ航空機、潜航艇による体当たり攻撃を行わせるのです。もちろん、操縦者も死亡します。
人間爆弾「桜花」、特攻専用機「剣(つるぎ)」、人間魚雷「回天」、ベニヤ板製モーターボート「震洋」などが開発され、10月にアメリカ軍がフィリピン上陸作戦を開始すると、神風(しんぷう)特別攻撃隊が編成されて、アメリカ艦隊にある程度の被害を与えます。アメリカ軍はこれを「カミカゼ」と呼んで恐れ、以後は海軍、陸軍共にこの特攻を多用します。多少の戦果は上げますが、多くは若者を無為に死なせるだけとなり、多数の悲劇を生みました。
特攻兵器「回天」十型(試作型)
全長9メートル、重量2.5t、乗員1名の特攻兵器。
回天は魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりする兵器でした。
○本土空襲と沖縄戦
そしていよいよ、日本各地にアメリカ軍の戦略爆撃機B−29による空襲が本格化してきます。特に1945(昭和20)年3月の東京大空襲では約10万人が死亡するという惨事になりました。
さらに同じく3月には硫黄島にアメリカ軍が上陸。栗林忠道中将率いる日本軍が島全体を要塞化して、激しく抵抗して大打撃を与えますが、玉砕します。そして硫黄島が占領されたことにより、アメリカ軍はここを拠点に、さらに日本本土爆撃が容易になります。
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どういうことかと申しますと、当時、B−29爆撃機はサイパン島から出撃していましたが、これを護衛するP−51戦闘機はサイパン〜日本を往復することが出来ませんでした。硫黄島から出撃すれば、B−29とP−51セットで福島から沖縄付近までが往復可能となり、戦略性が向上したのです。
4月にはアメリカ軍が沖縄本島に上陸をはじめ、この沖縄戦で日本は多くの民間人を含む約18万8000人の死者を出すことになります。中でも、学徒看護隊として女学生によって組織された「ひめゆり隊」が、戦死や自決に追い込まれた話は、沖縄戦の悲劇を特に物語るものとして、象徴的です。
有効な手を何一つ打てなかった小磯内閣は、4月に総辞職しました。
普天間基地
返還問題の見通しがつかない、沖縄県の米軍普天間基地。
普天間基地 普天間基地を見下ろすこの場所(嘉数高台公園)は、1945年4月8日から16日にわたって、日本軍とアメリカ軍が激戦を繰り広げた「嘉数(かかず)の戦い」の嘉数陣地の跡地で、今も小銃弾のみで破壊された日本軍のトーチカ跡が残り、戦いの激しさを物語っています。この戦いでは、日本軍がアメリカ軍の戦車を撃退するほど、徹底した抵抗を行ったそうです。
戦艦「大和」 (模型、大和ミュージアム蔵) 日本の持てる技術を最大限投入されて建造された戦艦「大和」は、1940(昭和15)年に進水。連合艦隊旗艦としての任務に就きました(昭和18年2月10日まで)。1942(昭和17)年6月4〜6日のミッドウェー海戦支援、1944(昭和19)年6月19〜20日にはマリアナ沖海戦、同年10月24〜26日にはレイテ沖海戦に出撃し、1945(昭和20)年3月19日には、山口県岩国市沖の柱島水域にてアメリカ海軍空母機と交戦。
そして、1945(昭和20)年4月6日、山口県の徳山(現・周南市)を出航した「大和」は翌7日、九州南西沖でアメリカ海軍空母機の多数の攻撃に遭い撃沈しました。最終時の乗組員は3332人で、生存者は僅か276人。
もともと、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は「沖縄に着く前に攻撃されて、作戦は失敗する」と出撃に反対しますが、連合艦隊司令部は「一億総特攻のさきがけとなってもらいたい」と懇願。「それならばわかった。」と出撃をしたのですが、死ぬために出撃するという時点で、もはや今では考えられない空気になっていたと言えます。
こうして悲劇的な最後を迎えた戦艦「大和」でしたが、これを造りにあたって開発・投入されたブロック工法・先行艤装や生産管理システム、製鋼技術などの多数の技術は造船のみならず新幹線や高層ビル建築など、日本全体に計り知れない影響を与えました。なお、この模型は全長約26m!! ということで、本物だと263mもあります。でかっ!
▼鈴木貫太郎内閣(第41代総理大臣)
1945(昭和20)年4月〜1945(昭和20)年8月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:鈴木内閣を参照のこと。○主な政策
・ポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏する○総辞職の理由
降伏と同時に総辞職を選んだため○解説
小磯内閣の後は、海軍大将を経て、当時は枢密院議長を務めていた鈴木貫太郎が組閣しました。二・二六事件で襲撃されて銃弾を受けるも、奇跡的に一命を取りとめた人物で、若槻礼次郎や岡田啓介ら首相経験者や木戸幸一内大臣らの重臣会議で首相に推薦されたとき、77歳の鈴木貫太郎は必死に断りましたが、最後は昭和天皇より「頼む」と言われて、引き受けざるを得なかったのでした。これほどの敗戦や空襲を受けながらも、まだ軍の中には戦争を継続し、最後は日本本土で決戦を主張する声は根強いものでした。一方、4月12日にはルーズベルト大統領が急死し、アメリカではハリー・S・トルーマンが大統領になります。これに対し鈴木首相は、海外向けに哀悼の談話を発表して、日本のイメージ回復に多少貢献します。
そして、ヨーロッパでは4月30日にベルリンでアドルフ・ヒトラーが自殺し、5月7日にドイツが降伏。ついに日本は追い詰められた状況となりました。
そして7月26日、アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの3カ国首脳がベルリン郊外のポツダムで会談し、中華民国総統の蒋介石の同意を得た上で、アメリカ、イギリス、中国の連名でポツダム宣言を出し、日本の無条件降伏を求めました。
なんでソ連は宣言に加わらなかったのかというと、日ソ中立条約を結んでいたからです。しかし、実は2月にクリミア半島のヤルタ近郊で開かれた、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの会談(ヤルタ会談)によって、ソ連の対日参戦は決定していたのです。
これに対して鈴木首相は、同月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する。」と発表し、ポツダム宣言を無視。鈴木首相は本気で戦争完遂を考えていたわけではなく、表向きは戦争継続を訴えるグループに配慮しながら、既に6月20日に東郷茂徳外務大臣をソ連に派遣し、和平交渉を依頼。さらに7月30日には、広田弘毅元首相も、密かにソ連を通じて和平工作を模索していました。
しかし、ソ連は和平の動きに明確な返事を与えないまま、アメリカは8月6日に、新しく開発した原子爆弾を広島に投下。核分裂反応を起こす物質(核種)にウラン235を使用したもので、B−29「エノラ・ゲイ」によって投下されました。
原爆ドーム 【世界遺産】
核兵器の恐怖を今に伝える原爆ドーム。その一方、広島は終戦直後から恐るべきスピードで復興に向かいました。
B−29「エノラ・ゲイ」
スミソニアン航空宇宙博物館別館で展示されているエノラ・ゲイ。広島に原爆を投下しました。
(撮影:ムスタファ 禁転載)
そして8日にはソ連が日本に対して満州、樺太(サハリン)、千島列島などへの進攻を開始。元々は8月15日に参戦する計画でしたが、アメリカによる原爆投下は「アメリカは日本を単独で占領するつもりだ」と考え、予定を早めました。
さらに、8月9日にはアメリカは長崎にB-29「ボックスカー」よって、再び原子爆弾を投下。今度はプルトニウム239を使用した、別の種類のものでした。結局、広島、長崎共に約14万以上が死没したほか、中心部は焦土と化し、さらに放射線による後遺症に多くの人が悩むことになりました。
鈴木首相はすぐさま降伏の条件について検討を開始。東郷外相は「国体護持」(天皇を中心とした秩序(政体)の維持)だけを条件に受け入れるべきだとします。しかし、阿南陸相、梅津参謀総長らがさらに条件を加えるべきだと主張する中、昭和天皇自身の決断(聖断)を以ってポツダム宣言受諾が決定し、連合国に通告します。
しかし、アメリカのバーンズ国務長官は「日本国政府の形態は、日本国民の自由な意思によって決定される」として、国体護持の条件も認めない回答を行い、これに対して阿南陸相らは最後まで反対を表明し続けました。しかし、14日の御前会議で昭和天皇は改めてポツダム宣言受諾を表明。
こうして14日に連合国へ通告を行い、15日に天皇自身のラジオ放送(玉音放送)を通じて、国民に降伏を知らせました。そして8月17日、鈴木貫太郎内閣は総辞職しました。
○戦争は終結するが・・・
日本の犠牲者だけでも約300万人が亡くなった戦争はついに終結しました。しかし、これ以後も戦闘は各地で続いており、特にソ連による満州、朝鮮への侵攻によって、現地に残った日本人は脱出するために必死で逃げることになります。さらに戦争によって大きく疲弊した国土からの復活は並大抵のものではなく、そしてアジア各国を戦渦に巻き込み、しかも戦時中に多くの人を徴用したことは、今なお大きな問題となっています。さらに、歴史問題を巡っては特に日本、韓国、中国の中でしばしば政治問題化しており、さらに当時何が起こったのかを研究する上でも、未だに不明な点も多く、大きな障害が残っているのも現状です。
それから、日本はこれから復興に向けて動き出しますが、中国においては共通の敵を無くした国民党と共産党による内戦に突入します。また、朝鮮においては朝鮮戦争が起こり全土で激戦が繰り広げられ、多くの犠牲者が出た上に、今も国が南北に分断されています。
さて、戦時中の出来事については、なるべく中立的な立場で書いたつもりではありますが、「あの記述が足りない」「右翼的だ、左翼的だ」など色々な御意見もお持ちの方もおると思います。私自身、今後とも加筆や記述の見直し等行おうと思いますが、御興味をもたれた方は、是非とも色々な文献を読み比べて、自分なりに「当時は何が起こったのだろうか?」「どうしてこうなったのだろうか?」と、調べてみてください。
その際に、自分の主義主張と合う本だけを読むわけではなく、色々な立場から検証されることをお勧めします。
▼第79回〜第85回 参考文献
日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社)
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
検証 戦争責任 (読売新聞戦争責任検証委員会 著)
日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦 (NHKスペシャル取材班 (著) 新潮社)
歴史人2011年9月号 太平洋戦争の真実 (KKベストセラーズ)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
実録首相列伝(学研 歴史群像シリーズ)
江戸東京博物館の展示物解説
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