第86回 戦後日本のスタート

▼東久邇宮内閣(第43代総理大臣) 
  1945(昭和20)年8月〜1945(昭和20)10月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:東久邇宮内閣を参照のこと。

○主な政策

・降伏文書に調印

○総辞職の理由

 GHQが求めた人権指令の実施を行いたくなかったため

○解説

 連合国への降伏を決めたのは鈴木貫太郎内閣でしたが、実際に降伏文書に調印することになったのは、東久邇宮稔彦王を首相とする内閣でした。皇族が首相になったのは歴代内閣で唯一。未だ不満くすぶる軍部の一部など、降伏への反対勢力を押さえるためには、皇族を政治のトップにするしかない、という判断からでした。

 こうして9月2日、東京湾に停泊するアメリカの戦艦「ミズーリ号」において、重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長を日本全権として、降伏文書に調印しました。事務手続き上、太平洋戦争が終結したのはこのときです。



降伏文書 (複製 江戸東京博物館にて)




○アメリカ軍の進駐とGHQの設置

 さて、アメリカを中心とする連合国はポツダム宣言を日本が受諾した8月14日に、GHQ(ジーエッチキュー/General Headquarters)を設置。直訳すれば総司令部、意訳すれば連合国最高司令官総司令部という名前の、この組織を通じて、日本政府に指示を出して日本の占領政策を展開しました。要するに、間接的に統治を行ったわけですね。

 このGHQのトップである連合国最高司令官には、ダグラス・マッカーサー元帥(1880〜1964年)が任命されました。マッカーサーは8月30日に厚木基地に降り立つと、GHQを東京に置きます。建物は今も下写真のように残っています。



GHQが置かれた第一生命館
1938(昭和13)年に建てられたもので、1989(平成元)年から1995(平成7)年にかけて再開発。
この際に外壁とマッカーサー室など一部が保存した上で、高層ビル建設を含め大幅な改修を行っています。
 ちなみに、もう少し詳しく日本統治の仕組みを書きますと・・・。
 まず、極東委員会(FEC/本部:ワシントン、議長:アメリカ)というのがあります。
 アメリカ、イギリス、中国、ソ連、フランス、カナダ、オーストラリア、インド、オランダ、ニュージーランド、フィリピンの11カ国から構成され、アメリカに拒否権と中間指令権があるという、アメリカ優位の組織です。
 ↓
 この極東委員会が基本方針を決定して、アメリカ政府に送ります。
 ↓
 そしてアメリカ政府はGHQに指令を送ります。
 ↓
 さらにGHQは、対日理事会(ACJ/本部:東京 議長:アメリカ)という、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国からなる組織に諮問(相談)し、答申を得ます。
 ↓
 そして決定した内容が、日本国政府に指令として送られます。
 ↓
 日本国政府はGHQの指示を実行します。
 と、こういう仕組みです。

 さてGHQは早速、人権指令を東久邇宮内閣に出しました。具体的には治安維持法、特別高等警察の廃止、政治犯の釈放でした。しかし、東久邇宮首相は「そんなことは私の責任では出来ない」と考え、終戦処理がひと段落した、として内閣総辞職をするのでした。なんと、首相在任僅か54日。さすがに、今のところこれを破る記録は出ていないです。

 ちなみに日本と同じく敗戦した、ドイツとイタリアの場合・・・。
 まずドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分割占領、共同統治が行われます。首都ベルリンも4カ国による分割統治となりました。そして、アメリカとソ連が対立していく中、1949(昭和24)年にアメリカ、イギリス、フランス占領地域がドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)として誕生。

 ベルリンは東ドイツの中でに取り残され、西ドイツ領と東ドイツ領に分割(このうち、東ドイツはベルリンを首都にしました)。1961(昭和36)年にはベルリンの壁が造られ、まさに東西分断されたことは、今も覚えていらっしゃる方は多いと思います。

 一方でイタリアは、無条件降伏の前にムッソリーニ政権が打倒されて新政府(バドリオ元帥による政権)が発足。ドイツに宣戦布告し、またドイツに救出されて抵抗を続けたムッソリーニを捕らえて処刑。このため、戦後間もなく連合軍は撤退し、イタリアは共和国として再出発しています。

▼幣原喜重郎内閣(第44代総理大臣) 
  1945(昭和20)年10月〜1946(昭和20)5月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:幣原内閣を参照のこと。

○主な政策

・GHQの五大改革指令を実施。治安維持法などを廃止。
・財閥解体
・労働組合法公布
・昭和天皇の人間宣言
・公職追放令
・戦後初の衆議院議員総選挙を実施

○総辞職の理由

 総選挙で日本自由党が第一党となったため

○解説

 続いて首相になったのが、以前にも幣原外交などで度々名前が登場した幣原喜重郎。
 政界を引退して長くなっていましたが、かつての親英米的な外交姿勢がGHQに評価され、久しぶりに政界復帰することになったのです。そして、僅か8ヶ月の在任期間の間に、GHQの指令を次々と実行していきます。

○ポツダム宣言への対応

 さて、日本が受託したポツダム宣言。まずは、この宣言を履行しなければなりません。13条ありますが、主なものと、その対応状況を見て行きましょう。

 第6条:軍国主義者の排除 
 これは、公職追放(46年1月から順次実施)という形で実施されます。軍国主義を推進・加担した戦争犯罪人・職業軍人・国家主義活動家などをA項からG項に分類して、公共的な職務から追放しました。1948年5月10日のデータでは、こうなります。
 A項・・・戦犯者
 B項・・・陸海軍の将校、憲兵     11万3335人
 C項・・・極端な国家主義団体役員     3062人
 D項・・・大政翼賛会関係者       3万3572人
 E項・・・開発金融機関の役員         389人
 F項・・・占領地行政長官など           43人
 G項・・・在郷軍人会役員など      4万2741人

 実に19万人以上が追放されたわけです。このため、後で紹介しますが東條内閣の翼賛選挙で推薦を受けて当選した議員は、その大半が公職追放で議員の座を失い、立候補も出来なくなります。もっとも、代わりに共産主義を支持する人々が勢力を拡大してきたため、GHQは1949(昭和24)年に大幅な追放解除を行っています。

 第7条:日本国の軍事占領
 1952(昭和27)年4月まで、連合国軍が進駐しています。

 第9条:軍隊の解散
 陸・海軍の武装が解除させられます。日本って、あまり戦前の軍事兵器が無いのですが、これは軍隊の解散によって兵器が壊されてしまったことも要因です。約1万機も生産された零戦も、保存はごく僅か。それも、国内や国外で、海中に沈んでいたものを引き上げたものが殆どです。

 第10条:戦争犯罪人の処罰
 1945(昭和20)年9月〜12月にかけて戦争指導者の逮捕が実施。そして、46年5月から48年11月にかけて、極東軍事裁判(東京裁判)が行われました。いわゆる、A級戦犯(戦争全般に対する責任)と規定された人たちのもので、その裁判の手続きや結果については未だに批判がありますが、結果はこうなりました。

 絞首刑・・・東條英機(首相、参謀総長、陸軍大将)、広田弘毅(首相)、 土肥原賢二(陸軍大将)
        松井石根(陸軍大将、中部中国派遣軍司令官)、板垣征四郎(陸軍大将、満州事変の中心人物)
        木村兵太郎(陸軍大将、開戦時の陸軍次官)、武藤章(陸軍中将、陸軍省軍務局長)
 1948(昭和23)年12月に刑が執行されました。

 その他、終身禁固が木戸幸一(内大臣)、平沼騏一郎(首相)、小磯国昭(首相)、梅津美治郎(参謀総長)ら18名。
 禁固20年が東郷茂徳(外相)、禁固7年が重光葵(外相)
 というものでした。

 なお、裁判前に近衛文麿(首相)は自殺。また、松岡洋右(外相)と永野終身(軍令部総長)は裁判中に死去しています。

 さて、A級戦犯ばかりに注目されがちですが、その一方でB級戦犯(捕虜や住民などへの虐待等の戦争犯罪に対する命令者)、C級戦犯(その実行者)として5700名が起訴されました。そして984人が死刑判決を受け(執行されたのは920人)、このうち朝鮮人が23人、台湾人が26人も含まれていました。

○五大改革指令

 幣原内閣が発足した10月に、早速マッカーサーから下った指令が、五大改革指令と総称されるもの。その指令と、これに対応するために幣原内閣など歴代内閣が行った政策をセットで見て行きましょう。

(1)婦人の解放 *幣原内閣で実施
  → 衆議院議員選挙法を改正し、女性に参政権を付与(45年12月)
 ちなみに、このときに選挙権を20歳に引き下げたため、有権者数は一気に5倍も増えたそうです。

(2)労働組合の結成を奨励 *幣原内閣〜第1次吉田内閣で実施
  → いわゆる労働三法を制定(45年12月〜47年4月)
 このうち幣原内閣が行ったのは、労働組合法の公布。労働組合の結成と、労働者と経営者の労使関係のルールを定めた法律です。1949(昭和24)年に全部改正が行われ、現行の労働組合法は昭和24年のものに基づいています。

(3)教育の自由主義化 *第1次吉田内閣〜芦田内閣で実施
  → いわゆる教育三法を制定。それぞれ、のちほど実施した内閣の項目でご紹介しますが、
    教育基本法(47年3月)、学校教育法(47年3月)、教育委員会法(48年7月)の3つのことです。

(4)圧政的諸制度の撤廃 *幣原内閣で実施
 → 悪名高い、治安維持法、特別高等警察の廃止。さらに政治犯を釈放します。

(5)財閥の解体 *幣原内閣〜第3次吉田内閣で実施
 → 皮肉にも幣原首相の奥さんは、三菱グループの創始者である岩崎彌太郎の三女雅子。
   GHQは、三井、三菱など15財閥の資産凍結を解体を指令。
   特に次の第1次吉田内閣で次々と財閥解体が実施されていきます。

○天皇の人間宣言

 これまで神格化され、そのお姿も滅多に見られない天皇陛下でしたが、1945(昭和20)年9月27日に昭和天皇はマッカーサーを訪問すると、マッカーサーと並んで記念写真を撮ることに。そして9月29日にGHQの指令で、この写真が一般公開され、多くの国民が驚くことに成りました。

○政党の復活

 さて、大政翼賛会は解散し、政治犯の釈放もあって政党が次々と再結成されていきます。代表的なものは、次の5つ。

(1)日本自由党 *保守系
 鳩山一郎元文部大臣を総裁に結成。旧立憲政友会系の河野一郎芦田均らを中心に、旧立憲民政党の三木武吉などが参加。

 幣原内閣のもとで行われた46年4月の第22回衆議院議員総選挙で第1党になりますが、鳩山は年5月に公職追放となってしまい、しばらく政治の表舞台から遠ざかります。代わって吉田茂が総裁になると共に、次の首相となりました。

(2)日本進歩党 *保守系
 町田忠治(元民政党総裁)を総裁に結成。旧立憲民政党系が中心です。ところが東條内閣で行われた翼賛選挙で当選した議員が大半だったため、46年1月に町田総裁をはじめ、大半が公職追放に遭ってしまいました。

 第22回衆議院議員総選挙では新人を多数擁立し、なんとか第2党を確保。幣原喜重郎前首相を総裁とし、吉田内閣の与党となりました。

(3)日本協同党 *中道
 山本実彦(改造社という出版社の社長)を委員長とした政党。労使協調をテーマに結成されました。

(4)日本社会党 *左派
 片山哲(元社会民衆党書記長)を委員長に結党。

(5)日本共産党 *左派
 徳田球一を書記長に結党。戦前は徹底的に弾圧され壊滅状態でしたが、徳田球一の出獄によって活動を再開。合法的な政党として認められ、この5つの政党の中では、唯一党名が変わらずに今でも残っています。

○国際連合の誕生

 さて1945(昭和20)年10月、これまでの国際連盟に代わって国際連合(United Nations)が誕生します。
 ・・・わざわざ国際と日本語にはつけていますが、実際にはInternationalは付きません。要するに、第二次世界大戦時の連合国の流れを汲むものです。

 この国際連合は51カ国でスタート。本部をアメリカのニューヨークに置きます。
 また、国際連盟の総会が全会一致で表決を行うのに対し、国際連合の総会は多数決制。
 その一方で、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国は安全保障理事会で常任理事国となり、拒否権を持っています。ちなみに、総会は世界的な問題を何でも討議できるのに対して、安全保障理事会は、平和と安全保障の問題だけを取り扱います。

 それから加盟国への制裁について、国際連盟は経済制裁だけでしたが、国際連合は軍隊を派遣して武力制裁も可能となっています。

▼参考文献
日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
検証 戦争責任 (読売新聞戦争責任検証委員会 著)
国連広報センター http://unic.or.jp/index.php
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
実録首相列伝(学研 歴史群像シリーズ)
江戸東京博物館の展示物解説

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