第1回 古代〜キエフ・ルーシ国
●はじめに |
●古代・中世のロシア |
やがてアヴァール族、マジャール族、ハザル族などもやってきて、このうちハザル族系が10世紀までかなりの勢力を持ちます。またスラヴ人も交易に従事し、キエフやノヴゴロドと言った都市を建設します。これらの勢力間の争いは絶えなかったようです。 そのため誰かリーダーが欲しい。そこで目をつけたのが当時ヨーロッパ中に移住─時には襲撃もしていたヴァイキング(ノルマン人)。このうちスカンディナヴィア、つまり北欧にいる首長リューリクを招くことになりました。こうして862年、ロシアで初めての国家ノヴゴロド公国が誕生、ノルマン人とスラヴ人との混血が急速に進みます。彼らはルーシと呼ばれていたことから、ロシアという名称が発生します。
リューリクが死ぬと、その息子イーゴリが年少であるため、遺言で一族の有力者オレグを後継に。彼はキエフを占領し、首都にします(キエフ・ルーシ)。さらにビザンツ帝国の都コンスタンティノープルへ侵攻し、商業上有利な条約を結ぶなど勢力をどんどん拡大してゆきます。
が、跡をついたリューリクの子・イーゴリ公(位 912〜945年)はコンスタンティノープル遠征に失敗。さらに税金の取り立ての失敗もあり、恨まれて暗殺されます。この後、聡明な女性だったイーゴリの妻 オリガ が摂政を務め(ちなみにロシア大公で初めてキリスト教に改宗)、徴税の方法などを変更して紛争が起こらないようにします。
次いで、イーゴリとオリガの息子スヴャトスラフ(位 964〜972年)は生涯の大半を戦に費やし、周辺部を征服したほかブルガリアのブルガール帝国と戦います。しかし、彼はペチェネグ族に殺されてしまいます。またこの過程でユダヤ人が多く住む地域を占領し、彼らの商業活動と文化を取り込みます。
彼の死後、息子達は後継者争いを起こし、ウラジーミル大公(位 980〜1015年)が勝利を収めます。彼は988年にビザンツ帝国からキリスト教を受容。元々ギリシャ正教は土着主義を原則としていることもあり、典礼はスラブ語で行われました。これが後にロシア正教会へと花開いてゆきます。また彼はビザンツ皇帝の妹アンナを妻とします。こうしたことから彼は聖ウラジーミルとも呼ばれます。
が、彼の死後またまた後継者争い。1019年にヤロスラフが勝利し、彼のもとでキエフ・ルーシは繁栄の頂点を迎えます。彼はキエフに聖ソフィア聖堂を建設し、さらにロシア初の成文法「ルスカヤ・プラウダ(ルス法典)」を制定、後のロシア法の基礎となります。また後継者争い防ぐため、兄から弟へ、年齢順に相続させることにさせました。でも後継者争いは無くならないんですな。
結局、繁栄を極めた後は、衰退。キエフ・ルーシは分裂をはじめ、ノヴゴロドに至っては市民の民会(ヴェーチェ)による自治共和国となりました、つまり住民自身の統治が行われるようになったのです。さらに、この頃からポーランドやドイツ騎士修道会などが侵攻してきます。
第2回 モンゴルによる征服とモスクワ大公国へ