2回 モンゴルによる征服とモスクワ大公国

●モンゴル帝国襲来とキプチャク・ハン国
 さらにロシアに致命的な事件が発生。それは、モンゴル帝国の東からの侵攻です。創始者であるチンギス・ハンの孫バトゥを総司令官とするモンゴル軍は、ロシアを次々と征服し、死体の山を築きます。キエフも1240年に占領されました。

 また、ポーランドにも攻め込み、ワールシュタットの戦いで、彼らはポーランド・ドイツ軍を撃破。西ヨーロッパにも侵攻を始めます。が、本国で皇帝オゴタイ・ハンが死去し、後継者を決めないといけないのでバトゥは撤退。そして、ロシアにキプチャク・ハン国を形成します。首都はヴォルガ川河口のサライ。ロシアの諸侯達は忠誠を誓わされ、莫大な貢税を納めさせられ、これは「タタールのくびき」として後のロシア精神にも影を落とすこととなります。

 独立をしたくとも、西からスウェーデンとドイツ騎士修道会が攻めてきます。これを撃破し、中世ロシアの英雄と言われたアレクサンドル・ネフスキーですら、後顧の憂いを無くすためにはキプチャク・ハン国に忠誠を誓わざるを得ませんでした。

●モスクワ大公国の成立と独立
 しかし、繁栄を続けてもいつかは衰退します。14世紀後半になると、キプチャク・ハン国は混乱と分裂の時代にはいり、ロシアへの支配も弱まります。そのため1380年、「これではまずい」と、キプチャク・ハン国の実力者ママイはロシア支配を強化するために侵攻します。しかし逆に、成長著しいモスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイ(位1359〜89年)を中心とするロシア諸公軍にクリコヴォ平原で敗北。以後、ロシアはモスクワ大公国を中心に発展します。また、ロシア正教の本拠地もモスクワに移ります。

 補足しておくと、モスクワという都市。
 キエフ公国時代は小さな村でしかなかったのですが、次第に人口が増加。14世紀にキプチャク・ハン国に取り入ったイヴァン1世がウラジーミル大公の称号をもらったことで発足した国です。ドミトリー・ドンスコイは、その孫。

●第3のローマ
 イヴァン3世(位1462〜1505年)の時、ついにキプチャク・ハン国から独立を宣言。さらにノヴゴロドなどを征服。彼は、滅亡したビザンツ帝国の娘と結婚しています。この縁があって、孫のイヴァン4世(位1533〜84年)は、1547年、それまで非公式に使用したツァーリ(皇帝:カエサルのロシア語)を名乗ります。皇帝という言葉は、本来ローマ皇帝の流れをくむビザンツ帝国しか名乗れません(例外として、ドイツの神聖ローマ帝国はローマ教皇からローマ帝国の流れを受け継いだ)。つまり、モスクワ大公国(&ロシア正教会)は、ローマ帝国の後継を自認するのです。
 このイヴァン4世は、南のカザン・ハン国(チンギス・ハンの末裔ウルグ・ムハンマドが1480年に建国したもの)、アストラハン・ハン国といった、キプチャク・ハン国が分裂して誕生したモンゴル・トルコ系の国家を、それぞれ1552年、56年に併合。内政面では中央集権化を進め、貴族を徹底的に押さえつけ、国内の領土の半分を直轄地にし、ツァーリ専制体制を敷きます。また全国代表者会議(ゼムスキー・ソボル)という議会を招集したりもします。この時代はまさにモスクワの最盛期、「第3のローマ」と呼ばれます。

 ところがこの人物、とにかく怒りやすいのです。しかも非常に残忍で、大貴族を多数虐殺したり、お気に入りに好き勝手にやらせたり、ノヴゴロドの住民を敵に通じたという曖昧な噂で数千人も虐殺したり、挙げ句は1481年、口論の末、皇太子を撲殺してしまいます。殺害したあと、しまった!と大泣きしたらしいですが、もはや後の祭り。そんな彼は”雷帝”と呼ばれ、文字通り雷のごとく恐れられました。

 ちなみにイヴァン4世の晩年には、エルマーク率いるコサック達がシベリアにまで進出し、後にロシア帝国が東方に拡大するきっかけとなりました。

 さて、ここまでは基本的に、あのリューリクの血筋が王位を継承してきました。しかし、イワン4世の息子フョードル1世は病弱で、彼が子供を残さず死ぬと、既に国政を担当していた、フョードル1世の義理の兄ボリス・ゴドゥノフが全国会議によってツァーリになります。それだけ彼は有能で期待されていたのですが、一方でイヴァン4世の末子ドミトリー暗殺疑惑が発生し、混乱が起こります。

 さらに、ポーランド王国・リトアニアの支援で偽ドミトリーまでが登場し、ボリスの死後にはモスクワを占領し、ツァーリとなるなど、動乱時代(スムータ)に突入しました(ちなみに偽ドミトリーは貴族の反乱で殺害されます)。その後、一時ポーランド国王ジグムント3世の支配下に置かれた他、農民反乱も発生します。

 こうした困難を打開したのが、クジマ・ミーニンドミトリー・ポジャルスキーによる国民軍。1612年彼らはモスクワに侵攻し、ポーランド軍を追放することに成功。翌年、全国会議はミハイル・ロマノフをツァーリに選出し、ここにロマノフ王朝が誕生します。

次のページ(第3回 ロマノフ王朝〜ピョートル大帝〜)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif