初代将軍 徳川家康
●徳川家康 基本データ
生没年 1542(天文11)年〜1616(元和2)年 75歳将軍在位 1603(慶長8)年〜1605(慶長10)年
父:松平広忠 母:お大 弟:松平康忠 松平康元 松平定勝(異父弟)
息子:徳川信康(長男) 徳川(結城)秀康(次男) 徳川秀忠(三男) 松平忠吉(四男) 武田信吉(五男)
松平忠輝(六男) 徳川義直(九男 尾張家) 徳川頼宣(十男 紀州家) 徳川頼房(十一男 水戸家)
●業績
・江戸の街を造らせ、現在の東京の基礎とさせる。・江戸幕府を開く。
・豊臣家を滅ぼし、徳川政権による支配を成立。
・武家諸法度・禁中並びに公家諸法度の制定。
・朝鮮との国交回復。
●考察・エピソード
徳川家康銅像
家康が生まれた岡崎城跡に立つ銅像。
関ヶ原
家康の天下を決定付けた関ヶ原の戦い。写真は石田三成陣跡からの風景で、家康の陣は写真奥にあった。
家康については、あまりにも有名すぎるので、何もここで考察を書く必要はないので、ちょっとしたエピソードを御紹介しましょう。
1.家康はとにかく筆まめで几帳面。
というのも、彼が書いた古文書が山ほど現存しており、重臣達との連絡の手紙に旅行日程表、お金の管理に関する書類、趣味の薬草に関する書類等々・・・。山ほど書類に目を通し、執筆したわけだが、その筆跡は丁寧だとか。
2.あの織田信長に頭を下げさせた
織田信長といえは人一倍自尊心が強く、人に頭を下げるなどもってのほか。ところが、家康に対しては頭を下げてしまった。というのも、彼は越前の朝倉氏を攻めたが、いわゆる信長包囲網をひかれ、急ぎ撤退する羽目になった。そこで、羽柴秀吉と家康の部隊を、殿軍としてだが、事実上置き去りにする格好でさっさと京都に帰還、秀吉・家康を敵の中に孤立させてしまい、このうち秀吉部隊は敵に取り囲まれ、壊滅寸前となった。そこに家康が自ら救出に入り秀吉を助け帰還。さすがの信長も、これを聞くや「家康殿がいなかったら、猿(秀吉)の命はいくらあっても足りなかっただろう」と深々と頭を下げたそうだ。
3.意外と執念深い?
異説もあるが、家康は、息子信康が織田信長の命令で自害させられたのを、ずっと後悔していたそうである。この時、重臣の酒井忠次を信長の所に派遣し、助命嘆願をさせたのだが、忠次はさして抵抗することもなくあっさり受諾。かくして、信康は自害させられた。本来、家康から見て忠次は重罪だが、そんなこと気にする振りも見せず、彼の働きに応じて出世させた。
ところが、家康が秀吉の命令で江戸に転封された時。新たに領地を割り振るときに、忠次に与えられた領地は下総白井三万石。どうやら、他の譜代の重臣に比べて少なかったようで、老いた忠次としては、この領土では息子が可哀想だと思い、家康に「どうにかしていただけないか」と頼んだところ、「お前でも息子が可愛いのか?」と、ここにきてついに積年の恨みを凝縮し、痛烈な皮肉を浴びせた。「俺の気持ちがわかったか!」といったところだろう。・・・おお、こわ。つまり、忠次が老いるまでは、彼の能力を使い切るため、敢えて何も言わなかったのである。並の人間ではない・・・。
なお異説とは、駿府城の徳川家康と、岡崎城の松平信康を中心として、三河武士団が二派に分裂を始めていたため、先手を打って信長の命令として自害させたという説である。
4.健康に人一倍気を遣う
家康は、自ら薬を調合し、結果的にその薬にあたって死んだと言われるほどの薬マニアで健康オタクだった。
鷹狩りは健康のために欠かさず、そして何より、食生活には人一倍気をつかった。
まず、必ず季節はずれのものを食べず、旬のものを食べた。旬のものには多くの栄養が含まれているからである。信長から、季節はずれの桃がおくられたことがあったが、これも手をつけなかったそうである。今と違って保存や衛生も問題があり、季節はずれのものを食べると、当然良からぬ事が起こる可能性もある。これを聞いた武田信玄は「きっとなにか大望があるのだろう」と言ったそうだ。また、鷹狩りを行ったが、その時に当然獲物は食し、この時代には珍しく動物性タンパク質もしっかりと摂取している。また、主食は麦飯と豆味噌で、これまた栄養豊富である。
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