二代将軍 徳川秀忠
●徳川秀忠 基本データ
生没年 1579(天正7)年〜1632(寛永9)年 54歳将軍在位 1605(慶長10)年〜1623(元和9)年
父:徳川家康 母:西郷の局 兄:徳川信康 徳川(結城)秀康
弟:松平忠吉 武田信吉 松平忠輝 徳川義直(尾張家) 徳川頼宣(紀州家) 徳川頼房(水戸家)
息子:徳川家光 徳川忠長 保科正之
●業績
・江戸幕府の基本システムの確立・老中制度の元となる、老職を設定
・諸大名の大規模な改易と転封。
●考察・エピソード
江戸城大手門。家康は駿府城にいることが多く、秀忠が実質的な最初の近代江戸城の城主だろう。なお、大手門は慶長十一年(1606)藤堂高虎の縄張だが、建物は火災や安政の大地震などで数度も失われ、その度に復興され、現代に至る。 |
徳川家康曰く「律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」
重臣の本多正信曰く「殿も時には法螺を吹きなされ」と、言われるほどであったが(これに対し秀忠は、「父のウソを買う者はいくらでもいても、私のウソを買う者はいないだろう」と答えている)、そのために関ヶ原の戦いへの遅参があっても、将軍の座をしっかりゲットすることが出来たのかもしれない。
およそ父に刃向かうような人物ではなかったのであり、また戦争は苦手であったが、政治系については抜群の能力を持ち、家康の路線を忠実に受け継げた。色々理由はあるが、ここが兄・徳川(結城)秀康を差し置いて将軍の座に就けた最大の理由では無かろうか。
そして期待通り、徳川秀忠は、父が死去すると、幕藩体制を揺るぎないものにし、江戸幕府長期政権を作りあげることになる。鎌倉幕府・室町幕府の2代目と徳川秀忠は雲泥の差であった。酒井忠世、土井利勝、安藤重信といった重臣に支えられ、他方、自分に従わない弟の松平忠輝、譜代で家康子飼いの本多正純を改易。
そして、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)を改易。最終的に、彼が大御所の時代も含めると、外様23家、親藩・譜代16家も改易されたのである。また、転封も秀忠の時がピーク。こうして、親藩だろうが譜代だろうが外様だろうが、遠慮無く改易するぞという姿勢を出し、大名統制を行い、幕府に刃向かいそうな芽はことごとく潰したのである。
なお、妻で織田信長の姪のお督に頭が上がらなかったのは有名な話。
側室を持たず、一度だけ女性に手をつけたところ、後の保科正之が生まれてしまい、会うこともせずに保科家に養子に出してしまっている。しかし、頭が上がらないと言っても、現代と違うのだし、信長も秀吉も家康も生きていないのである。お督と不仲になったところで秀忠の地位に影響は殆ど無く、側室を持つことは出来たはずである。恐妻家であったのは事実だが、やはりそこにも秀忠の律儀さが表れ、もちろん愛妻家だったのではないだろうか。
なお、保科正之に会ったのは、お督が死んだあと。
この保科正俊は、兄で三代将軍の徳川家光をしっかり支え、幕府に多大なる貢献をすることになる。
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