三代将軍 徳川家光


●徳川家光 基本データ

 生没年 1604(慶長9)年〜1651(慶安4)年 48歳
 将軍在位 1623(元和9)年〜1651(慶安4)年
 父:徳川秀忠 母:お督 弟:徳川忠長 保科正之
 息子:徳川家綱 徳川綱重 徳川綱吉
 

●業績

 ・幕府権力の基礎固めと諸大名に対する幕府の絶対性の確立
 ・譜代外様を問わず、有力大名の大規模な改易と転封。全国の要所に親藩・譜代大名を配置。
 ・老中・若年寄・三奉行(寺社・町・勘定)の整備、老中の月番交代制&評定所の条例公布
 ・武家諸法度の改訂による参勤交代の制度化
 ・いわゆる鎖国体制の完成

●考察・エピソード


 家光は弟の徳川忠長と違い、母お督ではなく、乳母の春日局に育てられたことから、両親共に忠長を可愛がっていたため、後継者争いが発生。家光の将軍継承には危険信号が付いていた。しかし、幸いにも、家康が存命中だったため、春日局の訴えで「長序の順」から家光が後継者であると宣言してもらうことが出来た。この時の恨みは深かったようで、後に忠長は、おとなしく兄に従えばいいのに同格意識が抜けず対抗するという、彼自身の不行状もあり、改易処分を受け、自害させられた。

 また、家光は「二世権現、二世将軍」を書いた紙を、守り袋の中に入れ、父の存在を欠落させている。一方、自分を将軍後継者に指名した家康への崇拝の念は非常に強く、家康をまつる日光東照宮を、秀忠が造営した物を改築し、自分の色に染め上げ、現在見られる壮大なものを完成させている。

 将軍就任に際し、「生まれながらの将軍である」と高々と宣言した家光だが、実際には危機一髪であったのである。

 彼もまた側近に恵まれた人物である。秀忠の頃からの重臣、土井利勝酒井忠世の他、家光が誕生すると側近として使えた稲葉正勝(春日局の子)、知恵伊豆と言われた松平信綱堀田正盛阿部忠秋阿部重次三浦正次太田資宗という「六人衆」をはじめ、家光の周りには切れ者が多く集まっている。彼らの下、幕藩体制の確立と、また農民&キリスト教徒による島原の乱以降、オランダ・中国・朝鮮・琉球を除き日本との貿易を禁止し、いわゆる鎖国体制を作りあげた。もっとも、鎖国と言っても日本にはオランダを通じて諸外国の物品・情報自体は入っていたのだが。 ちなみに太田資宗は、江戸城を最初に造った太田道灌(資長)の子孫である。

 ところで、家光を教育したのは青山忠俊である。ところが、とにかくこの人物は厳しい教育を行った。そのため家光に恨まれ、まず二万5000石の所領が没収された後、1625(寛永2)年には残りも全て取り上げられ、蟄居させられてしまった。その後、家光は「自分のために厳しくやってくれたのだ」と気が付き、許そうとするが、今度は青山忠俊が許さず、引きこもったまま1643(寛永20)年に66歳で死去した。

 家光は父以上に大名の改易を行い、先ほどの徳川忠長、それから熊本藩主加藤忠広(加藤清正の子)を筆頭に、外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石にも及び、これらは家光の側近や、親藩などに与えられた。

 さて、同じ母から生まれた弟であるにもかかわらず、徳川忠長に対しては事実上自害に追い込んだ家光であったが、もう一人の7歳下の弟で、秀忠の隠し子であった保科正之には絶大な信頼を寄せた。そもそも、保科正之は18歳の時に秀忠と初めて対面したのだが、それでもこれは極秘のこと。秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去し、家光が自分に弟がいたことを知ったのは、秀忠が死んだあとのことである。

 どうやって知ったのかというと、家光は、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職からその話を聞き、早速対面。よほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせた。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だったため、忠長の時とは対照的に不和は起こらなかった。

 そして家光は死去する直前、まだ幼い息子・家綱のことを正之に託し、手を握り、正之から「身命をなげうち、ご奉公致しますから安心してくだされ」という言葉を聞き、「安心した。もはや心残りはない」と答えると、そのまま昏睡状態に陥り、2時間後に死去したとのことである。正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。また、正之の会津藩は後に、会津松平家となり、激動の幕末に大きな役割を果たすことになる。

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