十二代将軍 徳川家慶


●徳川家慶 基本データ

 生没年 1793(寛政5)年〜1853(嘉永6)年 61歳
 将軍在位 1837(天保8)年〜1853(嘉永6)年
 父:徳川家斉 母:お楽の方 
 弟:徳川斉順(紀伊家) 徳川斉明(清水家4代) 徳川斉荘(田安家) 池田斉衆 松平斉民 
   徳川斉温(尾張家) 松平斉良 徳川斉彊(清水家5代) 松平斉善 蜂須賀斉裕 松平斉省 松平斉宣
 息子:徳川家定 徳川慶昌
 

●業績

 ・徳川家斉時代のおべっか達を一斉に追放。
 ・水野忠邦に天保の改革を行わせる。
 ・後の徳川慶喜を一橋家に入れ、将軍後継候補とさせる。
 ・武芸の奨励。

●考察・エピソード

 45歳でようやく将軍職を継ぐも、まだ親父が健在で思うように政治が出来なかった。
 家斉が死ぬと、老中水野忠邦を中心とした体制を構築。前将軍の側近、水野忠篤美濃部茂育(もちなる)、中野清茂を追放し、一気に体制を変えた。天保の改革の開始である。

 ところが、忠邦は改革を急ぎすぎるあまり、あまりにも厳しく実行し、身分の上下問わず猛反発が発生。
 まず、贅沢の禁止、倹約!ということで、江戸城内においては大奥にもメスが入り、必要経費を大幅カット!というか、家斉の時に大奥予算が膨大になっていたので、これはまあ当然のこと。しかしもちろん、大ブーイングで後に失脚する要因の1つに。

 また、好色絵本類(つまりエロ本)の禁止、野菜などの初物の禁止(初物というのは、例えば米で言えば新米。当然、出始めは高い値なので、贅沢品に指定)、季節はずれの野菜も値段が高いから禁止といったところ。この辺はまた水野忠邦の特集の時に詳しくやります。ま、そんなわけで庶民からも大ブーイング。また、流石の家慶も、薬味の芽生姜が、自分の食膳から贅沢品として姿を消したことにビックリし、「これまで禁止になったとは」と発言(後に、これは贅沢品から指定をはずされる)。これが庶民に伝わると、「可哀想な上様。水野は悪人だ」と、ますます水野忠邦に対する悪評が広まる。

 そしてなにより、水野忠邦が登用した鳥居耀蔵(ようぞう)。これが恐ろしい人物だった。彼は江戸市中の風紀を取り締まったのだが、例えばご禁制の品物を販売していないか調査するとき、部下に一般の客の振りをさせて店に向かわせ、
 「どうしても、例の御禁制の品を売ってくれませかね」
 「駄目、駄目! 駄目ですよ」
 「そこを何とか・・・。」
 「・・・う〜ん、仕方ないですね、秘密ですよ。」
 「逮捕だ!」
 とまあ、こんな事をさせる始末。スパイを放ち、密告も奨励させるなど、庶民を大いに締め付けた。鳥居は、正式には甲斐守耀蔵という名前のため、甲斐 と 耀(よう)をひっくり返し、妖怪と言われたことは有名。

 最終的には、あの「上知令」で、江戸城・大阪城周辺の土地を幕府直轄にし、該当の土地を持っている旗本・大名は周辺に転封させようとして反発を受け挫折。2年で忠邦は老中から失脚した。

 しかし当時、外国船問題などいよいよ幕府を取り巻く状況は深刻化。家慶は、再び忠邦を老中に復帰させ仕事を行わせる。だが、鳥居耀蔵の不正が発覚し、責任を問われた水野忠邦は辞任に追い込まれた。

 そしてペリー率いる黒船が来航。事態が急を告げる中、家慶は死去した。跡を継いだのは、息子の家定だが、これまた無能の典型であった。馬鹿息子にかわって、家慶は、水戸家の徳川斉昭の7男、徳川慶喜を一橋家に入れ、これを大いに可愛がった。実は、家定でなく慶喜に跡を継がせようと考えていたらしいが実現できなかった。

 なお家慶は、老中の言うことに、「そうせえ」と言うだけだったことから、「そうせえ」様と揶揄され、凡庸な将軍と評されたが、これは、反水野忠邦派が言いふらしたもので、たしかに能力不足は否めないが、それでも持てる力を発揮しようと頑張ったようである。時代が悪かったとしか言いようがない。

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