十三代将軍 徳川家定


●徳川家定 基本データ

 生没年 1824(文政7)年〜1858(安政5)年 35歳
 将軍在位 1853(嘉永6)年〜1858(安政5)年
 父:徳川家慶 母:お富の方 弟:徳川慶昌

●業績

 ・まったくなし

●考察・エピソード


 これまたちょっと、精神状態がおかしい将軍であった。
 世の中が攘夷だの、開国だので沸騰する中、この将軍様は、嬉しそうに煮豆を煎っていた他、カステラまで作っていたらしい。まあ、それも立派な特技だが、そんなことをしている状況ではない。しかし、見事に政治は何もやらず、幕府の権威失墜に大きく貢献することになる。

 越前福井藩主・松平慶永曰く「凡庸中の尤も下等」。
 ただし、勘定奉行・町奉行・外国奉行などを務めた朝比奈昌広
 「暗愚だと諸書に書きまくってているが、文化・文政・天保の頃ならここまで悪評を受けなかっただろう。薩摩や越前などを除けば、大名の中には家定様に劣る方も多くいたはずである」と、明治時代に語っている。

 だいたい、実の親である家慶をはじめ、周りは「はやく一橋慶喜様を将軍に」と、熱望していたわけであるから、家定としては面白うはずがない。ひねくれてカステラを作っていても無理はないこと。さらに家慶が死去すると、慶喜を擁立する阿部正弘徳川斉昭島津斉彬ら一橋派VS、紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を擁立する水野忠央(ただなか・紀州藩家老)ら南紀派で後継者争い。家定のことなど、お構いなしである。そんなわけで皆様の期待に応えたのか、35歳で家定は病死してしまった。

 可哀想なのは、このときに一橋の切り札として家定に嫁がされた天璋院篤子である。薩摩藩藩主・島津斉彬の叔父の娘で、斉彬の養女として家定に嫁がされてしまった。結局、結婚後ほどなく家定は病死するし、だいたいお世辞にも立派な旦那様ではなかった。さらに、大奥内では、反慶喜色が非常に強く、篤子さんまで感化されて、慶喜嫌いになってしまったときた(というか、そうならざるを得なかったんだろうなあ)。

 結局、実力者阿部正弘が病死し、支柱を失った一橋派に対し、大奥と結んだ南紀派は井伊直弼を大老とすることに成功。この時、どうやら家定に対し、「一橋派は家定様を幽閉するつもりですぞ」と言ったらしい。なるほど、それで井伊直弼に大老就任の許可が出たのですな。

 そして徳川慶福が後継者に指名され、家定は病死し、慶福(家茂)も死去。さらに最後の将軍慶喜は、薩長に敗北し、幕府を滅亡に追い込んでしまうのだが、この時に天璋院篤子が、嫌いな慶喜のために、実家島津家とのパイプになる羽目になった。もうぐちゃぐちゃな状況である。

 ちなみに弟の徳川慶昌は、慶喜より前に一橋家を相続したのだが、わずか十三歳で病死している。

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