2014年3月21日〜24日 岡山・香川・徳島から京阪石山坂本線へ
さて、ホテルかずら橋で温泉を堪能して一泊を終え、今度は東祖谷(ひがしいや)方面に向けて出発。
細く、狭い山道を水澄所員に運転させながらやってきたのは・・・。
阿佐家住宅という古民家でした。祖谷地方は源平合戦で敗れた平家の落人伝説が残る場所の1つで、この阿佐家は「平家物語」で源義経のライバル的に描かれた、平教経(平国盛)という、平清盛の甥の子孫とされています。 実際、平家物語での平教経の最期は、壇ノ浦の戦いで源義経と戦い、「貴様ら、死出の山の供をせよ」と敵2人を抱えて海に飛び込んで亡くなった・・・とされていますが、その他の歴史書では一ノ谷の戦い後の動向は曖昧なため、生死不明。
祖谷の地で、今に至るまで血統を伝えているとしたら、ロマンがありますね。 ちなみに阿佐家住宅は1862(文久2)年の建築。現在も御子孫の方が使われており、道路上の標識でも大きく観光案内されていますが、外観のみの見学というルールになっています。現役、というのがまた素晴らしいです。
続いて国道439号線で、さらに東へ向かいます。時おり非常に狭い道になり、対向車が来るのが恐ろしい状態。約1時間かけてやってきたのが、「奥祖谷二重かずら橋」でした。 昨日見たのは西祖谷のかずら橋で、こちらも行きにくい場所ではありますが、道路状況も最悪の状況下で、遥かに行きにくいのが、こちら。ところが、4月1日までは冬季休業とのこと。遠景でも見られるか?と思いきや、木々が邪魔で全く見えず。
やむを得ません。ここまで来て引き返しますが、いったいどんなものだったのかは、10月にリン所員が訪問したときの写真とコメントを転載させていただきます。
ここには大小2つのかずら橋が架けられており、写真は小さい方の「女橋」。下流側には「男橋」がある他、上流側には「野猿」も架けられています。
時間をかけただけで全く得るものがありませんでしたが、付近の集落は誰も歩いておらず、沿道の民家も現役なのか、使っていないのか怪しいものが多い中、等身大の人間サイズの案山子(かかし)がそこら中に設置されていました。
過疎化が進む前は、これだけ多くの人でにぎわっていたのではないか、と思わせる光景で少々涙も出てきますが、そんな中で行方不明者捜索の願いのチラシも落ちており、若干ホラーな光景でした。
そんなわけで、子供も殆どいないんだろうなあと勝手に推測していますと、東祖谷小中学校は、このような非常に立派な新築の木造校舎でした。急斜面に家々が点在している状況下で、ここに通うのも一苦労と思いますが、勉学の環境は充実しているようです。 それにしても自業自得ですが遠い!岡山方面へ戻らないといけないので、ひたすら進みますが、結局、この日の夕方までは移動時間に消費されることになりましたとさ。
徳島の山中であまり得るものもなく終わった23日ですが、夕方以降は副所長たちと別れ、撮り鉄タイムのスタート。まずは水島臨海鉄道の三菱自工駅へ行き、車庫を覗いてみます。こちらは、水島臨海鉄道カラーに塗られたキハ37形。
部品取り用と思われるキハ30 98は搬入時の場所と変わらず鎮座。
水島臨海鉄道カラーのキハ20形は、公道から撮影しやい場所に留置。2010年7月以来、久しぶりに単体で撮影しました。
こちらは国鉄色ツートンカラーに塗られたキハ37形とキハ30形。ピカピカです。
DE701を撮影し、三菱自工駅を引きあげました。
この日の宿泊先は倉敷で、この時間帯から岡山駅などで撮り鉄も微妙だったので、一昨日見たばかりですが、また倉敷の町並みを散策します。ただ、訪問していない場所をメインに回りました。 こちらは国指定重要文化財の大橋家住宅。
1796(寛政7)年〜1799(寛政10)年にかけて建築されたもので、背後のホテルが景観の邪魔ですが、主屋、表門、米蔵、内蔵などが残り、当時の町屋建築を堪能することが出来ます。 何度か外観は見ていますが、中に入るのは初めてです。意外と江戸時代の雰囲気を残した形で内部公開をしている倉敷美観地区の町屋は無いので、大変おすすめの場所です。
ちなみにお馴染みのこの場所とは、駅前の大通りを挟んで反対側です。
そのほか、古い町並みを適当にブラブラと散策。
また、倉敷美観地区を見下ろす阿智神社に初めて行ってみました。
散策中、こんな雰囲気の良い場所を見つけたので撮影。
また、大原美術館が500円で公開されていたので見学。以前に来た時とは展示作品が変わっており、大変堪能できました。一方、また見たかった作品の一部が展示されていなかったのは、若干残念ではありましたが。 さて、本来なら夜景のライトアップを堪能したいところではあったのですが、流石は西日本。なかなか完全に暗くならず、足が疲れてきたので宿に撤収。さっさと寝ました。