博物館明治村〜愛知県犬山市〜

○三丁目



京都電気鉄道(京都市電)狭軌1型
 1911(明治43)年製の車両で、8号と15号の2両が存在。のちに京都市電に買収されることになる京都電気鉄道が投入した路面電車で、動態保存されています。ちなみに、同型車は27号が京都の梅小路公園でも動態保存されていますが、何を血迷ったか2014(平成26)年に動力源をリチウムイオン電池動力に改造そ、架線を撤去して蓄電池走行するという、明治の電車に最新の動力を導入するアンバランスなことに・・・。



北里研究所本館・医学館 【国登録有形文化財】/旧所在地:東京都港区白金
 1915(大正4)年築。現在も研究所や大学として存続している、日本の細菌学の先駆者北里柴三郎が設立した研究所の本館です。建築様式は北里柴三郎が学んだドイツの研究所に倣い、ドイツバロック風を基調に新時代の様式を加味。八角形の塔や小窓の付いた腰折れ屋根が特徴です。
 ちなみに元々は左翼が長いL字型の建物でしたが、移築に当たっては撤去しています。


幸田露伴住宅「蝸牛庵」 【国登録有形文化財】/旧所在地:東京都墨田区東向島
 1868(明治元)年頃築。住まいを転々と変え、「かたつむりの家」を意味する「蝸牛庵」と自身の住まいを名付けた幸田露伴が1897(明治30)年から約10年間住んだ住居です。



西園寺公望別邸「坐漁荘」 【国登録有形文化財】/旧所在地:静岡県清水市興津町
 1902(大正9)年築。内閣総理大臣や立憲政友会の総裁などを務めた公家・西園寺公望の別邸。西園寺公望が政治の第一線から退いた後、興津の旧東海道沿いに建てたもので、海岸に面し、「のんびり坐って魚をとって過ごす」を意味する「坐漁荘」を意味する名前を付けながらも、政界の元老として年中のように政治家等の興津詣でを受けることになりました。なお、写真1枚目の門の前の建物は、警備の警官詰所です。
 なお、移築後に地元では西園寺公望別邸が無くなったことを惜しみ、なんと2004(平成16)年に跡地で忠実に復元されています。場所は静岡市清水区興津清見寺町115です。



西園寺公望別邸「坐漁荘」(内部)/旧所在地:静岡県清水市興津町
 1枚目の写真(2階の様子)に見られるように和室を中心にした部屋構成ですが、1929(昭和4)年に2枚目の写真のように洋間と脱衣室を兼ねた化粧室や洋風便器の置かれた便所等が増築されています。


茶室「亦楽庵」 【国登録有形文化財】/旧所在地:京都市北区小松原北町
 1878(明治10)年頃築。京都の医家で漢学者であった福井恒斎が、自宅の庭に建てたもの。


品川燈台 【国指定重要文化財】/旧所在地:東京都港区品川
 1870(明治3)年築。ヴェルニーを首長とするフランス人技術者の指導で東京湾の観音崎、野島崎、城ヶ島、品川の4箇所に建てられた洋式燈台の1つ。品川沖の第ニ台場の西端にありました。日本における現存最古の洋式燈台です。

菅島燈台附属官舎 【国指定重要文化財】/旧所在地:三重県鳥羽市菅島町
 1873(明治6)年築。品川灯台と異なり、ブラントンを頭とする工部省燈台局のイギリス人技術者の設計管理によって建てられたもので、燈火の管理を外国人が担当したことから、レンガ造の洋式住宅となっています。


長崎居留地二十五番館 【国登録有形文化財】/旧所在地:長崎県長崎市南山手町
 1889(明治22)年築。長崎の居留地に今も多数が残る異人館の1つが明治村に移築されたもので、スコットランド出身のジョン・コルダーが最初に居住。彼は、三菱が国から払い下げを受けた長崎造船所のマネージャーなどとして活躍し、日本初の鋼鉄船「夕顔丸」の建造など、明治期の造船技術の発展に寄与しました。

神戸山手西洋人住居 【国登録有形文化財】/旧所在地:神戸市生田区山本通  1887(明治20)年代築。木造総二階建の主屋と付属屋からなる洋館で、ベランダの柱を整然と建てないことで、建物を大きく見せるよう工夫が凝らされています。 また、主屋は上下階とも同じ間取りであるのが特徴です。なお、付属屋一階には使用人がいて和室があり、2階は洋館と結ばれ座敷でした。なお、付属屋1階と2階の間には階段がなく、使用人のエリアは完全に独立していました。

宗教大学車寄 【国登録有形文化財】/旧所在地:東京都豊島区西巣鴨
 1908(明治41)年築。今や休憩スペースのような雰囲気ですが、宗教大学(のち大正大学)本館の車寄部分のみを移築したものです。う〜ん、ここだけというのは何とももったいない・・・。



芝川又右衛門邸 【国登録有形文化財】/旧所在地:兵庫県西宮市上甲東園2丁目
 1908(明治41)年築。大阪の豪商である芝川又右衛門の別荘として建てられたもので、武田五一(後に京都帝国大学建築学科の創設者となる)が設計。関東大震災後の1927(昭和2)年に、和館を増築する際に耐火を意識した外壁にスパニッシュ風な壁に変更しています。なお、たびたび増改築をしていますが、武田五一が関わり続けました。


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