第2回 ヴェルサイユ体制と国際連盟加盟問題
戦後処理
さて、戦争が終結すると、当然戦後処理問題が出ます。この戦後処理で重要なのは、とにかく社会主義革命を広げないために、速やかに世界秩序を安定させることと、ドイツ等の敗戦国をどう取り扱うか。イギリスの立場というのがイマイチ微妙なのですが、とにかくフランスは「ドイツを徹底的に叩きつぶし、賠償金も確保したい(じゃないと、アメリカに借金が返せない)」と言う考えを、ウィルソンのアメリカは「ドイツなど敗戦国には寛大な措置を。ただし、帝政は絶対に認めず、そして民族は自立するべきだ」という考えを提唱し、対立します。
1919年1月、フランス・パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の鏡の間にてパリ講和会議が始まりました。この鏡の前は約半世紀前、ドイツ帝国の前身であるプロイセン王国が、ナポレオン三世率いるフランスを打ち破り、ここでドイツ帝国成立を宣言した場所。フランスにとって屈辱を与えた場所であり、随分皮肉な会議の場所です。
さて、ウィルソン大統領は、自ら代表団を率い、主導権を発揮しようとしますが、複雑な利害対立の中で妥協を余儀なくされ、特にフランス、イギリスが要求するドイツへの多額の賠償金要求を認めざるを得なくなります。でも考えてみれば、アメリカもイギリス、フランスに対して借金棒引きは絶対に認めなかったのですから、「ドイツに賠償金を認めるのは、ドイツ復興のためには良くない。」というのも、なかなか両立できないのは無理無いところでしょう。
またこの講和会議で、ウィルソン大統領の民族自決の原則がヨーロッパのみで適用。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され(ハプスブルク家は歴史の表舞台から姿を消す)、旧ロシア帝国領も含めて国家・国境が再編。チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーなどが独立をします。ですが、例えば朝鮮をはじめ、アフリカ諸国など他の国の独立は認められませんでした。植民地まで独立させてしまったら、イギリスもフランスも、日本も、何のために戦争に勝ったのか解らなくなるからです。
こうして決まった体制を、ヴェルサイユ体制といいます。
余談ですがこの後、アメリカはドイツの復興に手を貸し、資金を投入。それでドイツは復興をはじめ、フランス、イギリスに天文学的とまで言われた賠償金を支払い、これを元にフランス、イギリスはアメリカにお金を返すという、奇妙な構図が完成しました。ただ、イギリスはきちんと返済しなかったようで、そのためにアメリカと関係が悪化。これも第2次世界大戦の原因の1つとなります。
国際連盟加盟への失敗
妥協は強いられたものの、ウィルソンは自らの理想である国際連盟を設立することは認めさせます。さらに、自らも26条になる規約を作成する一員として働きます。こうして本部を中立国であるスイスのジュネーブに置き、常任理事国にイギリス、フランス、日本、イタリアが選ぶ事が決定。発足したのは1920年1月10日。最初は42カ国体制でスタートし、のちにドイツやソ連も参加。最終的に64カ国が加盟しました。
ところが、そこにはアメリカの姿はありません。何故か。
国際連盟の加盟に対して、ウィルソン的国際主義者と、モンロー主義とも言われる、単独主義者が対立(共和党に多い)したのです。単独主義というのは、アメリカ一国だけでやっていける、そうした国家同士の集まりに加わる必要はない、と言う考え方です。建国当初から、根強い考えなんですな。
だからアメリカは国際連盟に加盟できなかった。
と、一般の教科書類では書かれていますが、ちょっと実態は違います。
まず、ウィルソン大統領は民主党の出身。これに対して、議会は共和党が多数を占めていたんです。ところが、ウィルソンはヴェルサイユ講和会議に出席するに当たり、共和党の有力議員は連れて行きませんでした。共和党にしてみれば、面白いはずがありません。
それでも共和党も馬鹿ではありません。大多数は、国際連盟に加盟しても良いと考えていました。しかし、どうしてものめない条件があったのです。それは、規約第10条にあった「侵略に対抗する共同行動をふくめて、自国以外の全加盟国の領土保全をもとめる」という一文です。
共和党は、もちろん反対者もいますが、「議会の同意を事前に」と言うことを認めれば、まあ、オッケーでしょう。と、言うことになっていたのですが、ウィルソンは「そんな消極的なことでどうする、積極的にアメリカも介入すべし」と反発し、全国を遊説し世論に訴えますが、何と脳溢血で倒れてしまいました。それでも、議論は平行線。結局、上院で加盟は否決。あくまで連盟には非公式に参加しました。
そして1920年の大統領選挙で、保守的な共和党候補ウォーレン・ハーディングが勝利。21年3月、ウィルソンは失意のうちに大統領の職から退きました。
次のページ(第3回 大恐慌の時代)へ